――“頼むぜ”
声が木霊する。
彼がそうすると信じて疑わず逝った、彼の主。
強く。
豪快で、磊落で、ときに子供めいて、ときに何者より勇猛な男で、……最後まで、強く。
豪雷の将。……その名に、相応しく。
立ち尽くすキュウマの目に眼前の光景は映っていても、心までは届かない。
心に浮かんでいるのは、何度も何度も思い出してきた、主の最期。
笑っている。
朱に塗れても、その男は笑っていた。
――“頼むぜ”
その笑顔が、何故か曇る。
記憶に新しい奥方と御子の泣き顔が、それにかぶさったからか。
……そうではない。
自分は、それを覚えている。
こちらを咎めるような主の表情、それは、彼が己の腹に刃を突きたてようとしたとき、一瞬だけ見せたもの。
――“頼むぜ”
そう。
その直後に、主はそう告げたのではなかったか。
残すふたりを頼むと。
だが、主が残して逝くのはそのふたりだけではなく――――
奥方と御子の涙を見て、主が笑うはずもなく――――
そうさせる彼を見て、主が快く思うはずもなく――――
……生きる理由をくれたのだ。
死を選ぼうとした部下に、生きろと彼は告げたのだ。
なんてずるい、そう、話したのは誰にだったか。
だけど、それは死なない理由にしていただけ。
今、あの少女に云われて気がついた。
生きる理由がそのことばのためならば、何故、自分はそれを果たすためならばと死を受け入れようとしたのか。
シルターンに送り帰せば、それで、果たしたことになるのか。
初めて自問する。そして、答えはすぐに出る。
「……自分は」、
自分の心は。
あのとき刃を振り上げたまま、ずっと、動けずにいたのだ。
ミスミが笑う。
スバルが笑う。
郷の者たちと楽しそうに、島の者たちと楽しそうに、外からのまれびとと楽しそうに。
その笑顔を、死にたがりの自分の望みを叶えるために、奪おうとしていたのだと。
頼むといわれたのは、奥方と御子のしあわせ。
それは、こんな間近にあったのだと。
……認めてしまえば。
それは、すぐに、身体中を満たしていった。
「! 何を云うのあなた!!」
自我を奪われずに済んではいるが、消耗が激しいのだろう。力のない、けれど明らかな非難をこめてアルディラが叫んだ。
「っ、の……!?」
少女の襟首を掴もうと、ヤッファが空いた手を伸ばす。が、当の少女がするりとよけて、それはむなしく空をきった。
そんなふたりを逆に非難するように、少女は、は怒鳴る。
「手、出さないで! みっつに分けりゃ制御もしやすくなるでしょ!?」
「ぷぷぷ――――っ!!」
プニムが必死にの足を引っ張っていた。引きずり離そうというのだろうが、混乱しているらしく、普段の怪力が発揮出来ていない。
「それ以前にどうしてそんなことが出来るんですかッ!?」
子供たちの誰か……少なくとも長兄ではない一人が、叫んだ。混乱極まり、あとででも解決出来そうな疑問が口を突いて出たのだろう。
だが、は律儀だった。
「あたしがあたしだからよ!」
――理由になってねぇ――!!
そんな無数のツッコミは、だが、炸裂する幻を見せただけに終わる。
突っ込まれた手を見たレックスが、アティが、染まり終えようとしていた碧の主導権を奪い返した。焦点が合った。――その手に。
碧の焔絡みつかせて、自分たちのそれを、引き抜こうとしているの手を、ふたりはたしかに凝視していた。ほんの、数秒もなかったろう。
……その表情が、みるみるうちに歪んでいく。
まるで、泣き出す寸前の子供だった。
「だめfだ、だめだhkfaやめ、hlやfてuおaかbw:oん……!!」
レックスが叫ぶ。
「いやnkl、だlzめ、やめrleて、jfaァさfael!!」
アティが叫ぶ。
そして、
「おやめください」
キュウマがを抱き上げて、その場から退けた。
「……お」
「あ……」
「キュウ、マ……?」
さすがは成人男子というべきか、キュウマは軽々と、をカイルに引き渡した。
障壁に手をこまねいていたカイルだったが、渡された荷物は素直に受け取り、さらに後方、スカーレルへパス。そのスカーレルは、ちょっと間を置いて、ヤードにパス。
バケツリレーよろしく移動させられたは、それはそれは目をまん丸くしていたが、はた、と我に返ったらしく、ヤードの腕から飛び下りる。
「キュウマさん!!」
怒りのこもった呼びかけだったが、キュウマは静かにを見返した。
「護人は、共界線から力を得ています。逆に云うならば、共界線へ干渉する力も持ち合わせているということです」
そう告げると同時、彼の視線は、ようやくはっきりとした姿を取り戻したファリエル、未だ障壁に触れたままのアルディラとヤッファを一巡した。
「末端へ干渉するよりも、剣へ直接魔力を注ぎ込み、大元を叩いたほうが早い」
「――っ、て、てめえに云われなくてもな!」
混乱でそれを忘れていたのだろうヤッファが、むっとした表情でそう叫んだ。
そうして、すぐさま行動を切り替えたらしい。突っ込んだ手をなお前進させ、手のひらを剣の腹へ押し上てた。
一拍遅れて、アルディラもそれに倣う。
ファリエルもそうしたとき、アルディラは不安そうな表情をしたけれど、すぐに微笑んだ義妹を見て、大きく頷いた。
「……それでも未練はあるのです」
同じように手のひらを剣へと添えながら、誰に云うでもなくキュウマがつぶやいた。
「自分の記憶にあるシルターン、そこで笑うミスミ様とスバル様の姿を……それでも、見たいと思ってしまうのです」
チ、とヤッファが舌打ちした。
「笑顔が。今のあいつらのそれと同じなら、場所の違いなんて関係ねえだろうが」
「……ええ」
ですが、と、キュウマは苦笑した。
「そうなると、自分がそれを見ることは叶わなくなってしまいますからね」
「貴方、ふたりをシルターンに帰したら、自分は死ぬつもりだったんでしょう」
手が増えたことで、負荷が軽減されたのか。幾分からかう口調でアルディラが云う。
隣のファリエルなど、口の端を小さく持ち上げていた。
「そんなこと、させませんよ? まだまだ、私たちのやることはたくさんあるんですから……」
「そうですね」
頼まれたからではなく、自分は、自分の意志でミスミ様とスバル様を見守っていきたい。
――声にはせぬキュウマのことばを、たしかに、誰もが受け取った。
そうして、その合間に、ゆっくりと、碧の光が収縮していく。
剣から溢れ出してすべてを飲み込もうとしていた光は、徐々に剣へ――使い手の意志の及ぶ場所へと押し戻されていった。
「……みんな」
ようやく、普段の眼差しを取り戻したレックスとアティが立ち上がった。
まだ少しだけ、心ここに在らず、呆然としているけれど、目の前で何が起きたか、ふたりはちゃんと知っている。
だからこそ己に向けられた視線を、キュウマは、正面から受け止めた。
「封印をお願いします」
一言一句、間違えぬようにはっきりと。
「自分の未練を」
「……私の幻像を」
アルディラが、ゆっくりとそれに重ねた。
――どうか、断ち切って。と。
ヤッファとファリエルが、微笑む。
「さ、行くぜ」
「行きましょう!」
促され、レックスとアティは装置へと向き直った。
そのふたりを囲むように、四人の護人が位置する。
二本に分かれたままの剣が、ゆっくりと装置へ突き立てられていった。
その途中、刀身がひとつになる。溶け合うように、本来の姿を取り戻す。
だけど、握る手はふたり。使い手はふたり。中央の一点を境にして、柄はそのふたりに預けられている。
それは――なんとも奇妙な光景。
現実にはありえぬ、どこか夢幻めいた光景。
……それでも。
今自分たちの立つここが、紛れなく、現実なのだ――
――そうして。
碧の賢帝は、継承者の手を離れた。
それが判ったのは、単に虫の知らせだとかそういう不確実なものではない。
もっと確実な方法で、彼はそれを知った。
そうして、手の中にある白い剣を弄びながら、彼は、
「……そうだね。そうするよね、君たちなら」
でも、それじゃあ駄目なんだよ――と。どこか、寂しそうにつぶやいた。