――彼は、ずっとそれを味わってきた。
それは頭痛というよりも、脳みそを泡だて器でかきまぜられているような感覚だ。痛みというよりも、己が狂ったほうがマシやもといえる怖気だ。
それでも、少し前までは、わりと間隔を置いた発生だったため、耐えられた。
だが、今はどうだ。
ふと気を抜けば、ここぞとばかりに、それは襲いかかる。
意識を乱し、
自我を混乱させ、
脳をかき回し、
――――早く狂えと嗤いながら。
「畜生が……」
同じ発作に見舞われているやもしれぬ、機界の護人を案じる。
長いことこれと付き合って、多少は耐性のついたと自認する己でさえ、ここ数日はろくに起き上がれぬ有り様だ。
同じ声を基にしているとはいえ、まだ、優しいものを感じていたらしい彼女は、この直撃を受けるようになって、果たして無事を保てているのだろうか。
何故それを知る――問われれば、答えはすぐに用意できる。
あの日。
喚起の門で、彼らが取り込まれかけた、あの日だ。
森で出逢ったアルディラのことばと、遺跡での彼女の行動。明らかに矛盾したそれ。どちらが彼女の本心かと問われれば、前者を挙げる。
「傷つける、はずがねえんだよ」
奴が、彼女を。
肉体のみならず、その精神を、害するようなことなど――ないのだ。奴が、奴である限り。
「押し付けるわけが、ねえんだよ」
奴が、自分に。
真に望まぬことを、無理強いするよう、長いこと長いこと、語りつづけるわけがないのだ。奴が、奴である限り。
気づいたのは早かった。
始まったのがいつか忘れたが、そこからそう時間の経たぬころだった。
――だから、声はすぐに本性を現し、彼はそれに苛まれつづけたのだ。
長い、長い……長い間。
それでも、己が耐えていればすべては過ぎると思っていた。
アルディラも表立っては何も云わなかったし、ファルゼンは素性こそ知れぬが、その行動を見ていれば、狭間の領域を大事にしていることは判った。キュウマもまた、主の忘れ形見と彼らの暮らす郷のため、砕身していたことは明らかだった。
……そのまま。
耐えつづけていれば、すべてが、穏やかに過ぎると思っていた。
「ああ、ったく……」
――――あの日まで。
嵐のなかに、真白い光の柱を見た日。
魔剣と、その継承者が訪れた日。
その日に、おそらく、終わったのかもしれない。何が、と、自問するまでもなく。
……目を背け続けた時間は、おそらく、その日に終わったのだ。
何かが、そのときから始まった。
――だが、それでも。彼は祈っていたかったのだ。
穏やかな午睡を、彼と――すべてのものたちが得られる時間を、少しでも長く、続けていられるようにと。
「……やれやれ」
つぶやいて、軽く頭を振る。
「少し黙ってろ、この野郎。――客が来るんだ、家主が出迎えないわけにいかないだろ」
それに応えたのかどうかは判らない、単に向こうが飽きただけかもしれないが、ともあれ、頭痛はそれで止まった。
億劫だと訴える身体を持ち上げて、彼は、怠け者の庵と称される、己が住処を後にした。
……大勢でやってくる、賑やかしい幾つもの気配を出迎えるために。
迷っていたのだ。
惑っていたのだ。
――いいや、自分は、きっと、惑いたかった。思考を放棄してしまいたかった。
あの日を境に始まった、優しい呼びかけ。
もういない人を想い続ける空しさに、いつか凍らせていた心を、その声はゆるりと溶かし満たした。
優しい声。
彼の声。
何故か真逆のことを紡いでいた、遠い昔になくした声。
――扉を開け
……扉を開けるな
繰り返し、繰り返し。
寄せては開けといい、返しては開くなといい、それは矛盾に満ちていた。
同じ声だとわかったからこそ、矛盾にこの心は翻弄された。
信頼という。
愛情という。
唯一その気持ちを向けた相手の声でなければ、こんなに迷いはしなかったろうに。
どちらも選ばず戯言と切り捨てて、変わらず在れたかもしれないのに。
信頼といい、愛情という。
そんな笑みを浮かべるひとたちを、この手にかけなければならないと。そうでなければ、迷わなかったろうに。
愛しいひとの復活のために、幾らでも砕身しただろうに。
――信頼というのだ。愛情というのだ。
深く、深く、揺るぎない気持ち……自分がかつて持っていたから、今も棄てきれずにいるから、それがどれだけ儚く優しく貴いものか、知っている。
「……ハイネル」
遠く。
喪われてしまった、愛しいひとの名を呼んだ。
今はもう、それに応える声はない。
得たかった。再びこの手で彼を触れ、彼の声を、息吹を、この身に感じたかった。
ねえ、でも。
彼でない彼の、それを望んだわけではないの。
――彼が彼であるのなら。
まだ鮮明に残る、いつか電波塔で蹂躙された記憶。
――ハイネルがハイネルであるのなら。
この私に、そんなことを、するはずがなかったというのに。
「……気づくのが、遅すぎたわよ、どうせ……」
深い深い自嘲とともに、アルディラは息を吐き出した。
しん、と静まり返った小さな部屋に、響くのは己の動きによって生まれる音だけ。……壁の向こうから聞こえるのは、未だ稼動しつづける過去の遺産。
「だから……壊れた……」
まなじりを下げ、己の手のひらを見下ろして、アルディラは、それに額を押し付けた。
迷って。
惑って。
限界近くまで選べずに、声に翻弄されて。
――だから、自分は、あの遺跡に声に、操られるような空白を。己の制御機構のなかに、作り出してしまった。
彼らを、危険にさらしてしまった。
「どうしようも……ないじゃない」
アルディラは、恨めしげに部屋のなかを見渡した。
ベッドの置かれた、がらんとしたそこには、それ以上のものはない。
かつては己を破壊しようとしたクノンだからこそ、そのような手配をしたのだろう。――壊れたと主張するアルディラが、万が一にも己を害してしまうようなことのないように。
もし道具を求めて部屋から出れば、即座に彼女は気づく。
リペアセンター、ここに限ってはクノンのほうが権限は大きいのだから。
だから……アルディラは、閉じこもりつづけるしかないのだ。
何も考えることのないよう完全に壊れてしまいたい、誰かが己を殺しに来てほしいと願いつつ。
廊下を歩いてくる足音に、気づくこともなく。
アルディラは、やわらかな髪を乱してベッドに突っ伏した。
優しい声と優しい手。あたたかなぬくもり。
大好きな、大好きな、たったひとりの家族。
……兄さん。
「ファリエル様、お加減はいかがですか」
「だいじょうぶよ。私がわりと丈夫なの、知ってるでしょ?」
心配そうにこちらを見やるフレイズに笑いかけてみせても、彼女自身、己の消耗を自覚できぬほど鈍いわけではない。
この姿になる前――まだ肉体を持っていたころ、召喚師でありながら剣を持って戦うほうに重きを置いていた彼女を、よく、兄がそんなふうに云ってからかった。
穏やかに笑って。
優しく触れて。
……最後までそんなふうにして、苦しい姿を見せまいとがんばって、逝ってしまったひと。
どんな運命のいたずらなんだろう。
あの魔剣を継承するひとたちは、本当に、兄さんにそっくり。
外見じゃない、その心が。在り様が。
彼らを見るたびに、重ねてしまう自分がいた。
……だから。
……ファリエル
優しく自分を呼んでくれた、遠い兄の姿を求めて、彼らの前に姿を見せてしまったのかもしれない。
あの晩……彼らに姿を見せる前、月がきれいだからと浮かれて散歩に出た自分。あれは、本当に月だけが理由だったのか。自然と足の向いてしまったあの砂浜に、本当は、自分から行きたかったのではないか。
……兄さん
優しく、あたたかく。
自分を包み込んでくれた、遠く喪われてしまったひと。
離してしまったその手を再び握りたくて、なんて未練がましいと自分を叱咤しながら在り続けた。
亡霊となって。
自分を隠して。
――それでも、耐えていけると思ったのだ。
あの手を再び、この手にとることが出来るなら。
――そうして、耐えてきたのだ。
――そうして、この島を見つづけてきたのだ。
優しくあたたかく。
穏やかに平和に。
駆け回る子供たちが、かつての自分に。見守る親たちが、かつての兄に……重なることに、気がついた。
――そうして、この島を見つづけたいと思ったのだ。
兄はいない、だけど、島に生きる誰かの命、優しくあたたかな誰かの手を、この手で守ることが出来るなら。
そのために、在り続けることを選んでいたいと……
「……ファリエル様?」
「ん。――もう少し眠るね。何かあったら起こしてくれる?」
「――――……ええ。判りました」
彼女に忠実な天使のことばを心強く聞いて、ファリエルは目を閉じた。
次に目が覚めるときには、この身に力が戻っているように願いながら。
島を訪れた彼らのように、誰かを守るために揮う力が手に在るように祈りながら。
……彼女は気づかない。
瞑想の祠を目指して歩いてくる、幾つかの足音に。
フレイズが、その足音に気づきながら、彼女にそれを告げるのを、ためらったことに。
深く、ファリエルは眠りに落ちる。
客人によって目覚めるまでもう少し、もう少しの間だけ――優しい過去の夢に、まどろんでいようと。
……話はまず、喚起の門から始まった。
「莫大な魔力を生産する施設と、それによって起動する喚起の門……これだけのものを、何故、無色の派閥は捨て置いたのだと思いますか?」
「要らなくなったからでしょ?」
何しろ無色の派閥って、不要なモノはポイ捨て上等って感じだし。
さらっと答えるを、キュウマはいささか肩透かしをくらった気分で凝視した。
が、この少女が目をつける場所は、どこか何かがズレているのだと己を納得させ、話をつづける。
「……まあ、そうですね。彼らにとっては、施設も門も、本当に必要なものの副産物でしかなかったのですから」
――正に今このとき同じ時間、同じように他の護人が同じことを客人たちに明かしているなど、キュウマも、また他の三人も思いもせずに。
だからこそ起こる後ろめたい何かを押さえ、出来るだけ淡々と、私情を挟まぬよう、彼は念じた。
「四界の者たちを召喚し、共存出来る環境を作り上げたのは事前準備。――彼らが達成しようとしていた本当の目的は、人の手で界の意志……エルゴを作り出すことでした」
「……」
これにはさすがに驚いたか、の目が丸くなる。
「……アホ?」
「……」
今度はキュウマが沈黙した。
やはり、この少女と話しているとペースが乱れる。そんなことを今さらながら痛感する。
――ヤッファは告げる。
目の前の子供たち、そして海賊一家に。
「形ある全てのものは、界の意志から別れて生じたという伝説がある。そして、見えない力で界の意志と繋がり、影響を受けている、ってな。奴らは、その力を共界線……クリプスと呼んでた」
「……共界線」
何かを思い出すように、は、口元に指を添えて俯いた。傍らのプニムが、何かを慮るように彼女を見つめる。
「どっかで聞いたな……どこだっけ、わりと前なんだけど……」
しばし、沈黙とそんなつぶやきを交差させたところで、彼女は思索を諦めたらしい。
「先、どうぞ」
――ファリエルはことばを紡ぐ。
考え考え話すことをゆっくり待ってくれる、兄に似た青年へ。
「……共界線を支配できれば、世界そのものを自由に操作することが出来る。彼らはそう考えていました」
は、何かをうめいて頭を抱えた。
「――――共界線を乗っ取るってことですか」
ええ、とキュウマは頷く。
それがどんなに突拍子もないことか、目の前の少女は理解しているらしい。
――アルディラは続けた。
真っ直ぐに自分を見つめる蒼い瞳、真摯に知ろうとする女性へ。
「そういうこと。人の意志をもって界の意志に成り代わる方法を、彼らはここで模索していたのよ」
それじゃあ、この島はもしかして。
聞き手のつぶやきに、語り手は頷いた。
「そう」
「ここはそのために用意された実験場」
そして続けた。
研究が着実に完成へと向かっていたこと、だが、その目的の達成へ至りはしなかったことを。
その理由が、なんとなくには判った。
森の中を歩きつづけている為に、下草を踏みしだく音、枝葉を除ける音が耳につく。それを聞きながら、先を促した。
「共界線が、人に理解出来るものじゃなかったんでしょう?」
「――ええ」
かつてを知る鬼忍は頷いて、のことばに補足する。
「それは一方通行の道ではありません。対象と界の意志との間で、目まぐるしく思念を循環しつづけています」
「生き物も、植物も、……世界に在るものすべて、なんでもかんでもと」
「……そうです。その全てを同時に把握するなどということは、現実には不可能だった」
何かを問いたそうにしながら、キュウマはそう云った。
……まあ、何を訊きたいのかは予想がつかないでもない。だって、先にサイジェントに訪れてあの感覚を知ってなければ、彼のことばを聞いたところで具体的なイメージなど抱けなかったろう。
けど、は知っている。
遠く繋がる深い部分。
すべての意志が辿る道。
…………エルゴ。界の意志。
そして、そこに触れたひとたちを。
「遺跡の」キュウマは続ける。「制御中枢である“核識”となるために、何人もの召喚師が実験に挑みました」
けれど、そうして挑んだ者はすべて、精神に変調をきたす結果に終わってしまった。
「……なるほど。それなら確かに、在っても使えないってことでほったらかされてもおかしくないですね」
ふむ、と頷いて、はちらりと前方を見る。
会話の間にも進めていた足は、目的地まであと数歩というところまで、ふたりを移動させていた。
――集いの泉。
四界の力が集うというここに、移動しようと告げたのはキュウマだ。
彼もまた、この島の発端とも云えることを語るために、場所を選ぶ必要があったのだろう。心の準備、または――
だけど、というか。だから、というか。
……まあ、だから、で続けようか。
だから彼は、きっと想像していなかったに違いない。
「……みんな……」
「勢、揃い……?」
護人四人。
そして、彼らに連れられるように、外からの客人たちがその場にすべて集うなんてこと。
――――辿り着いた誰も、目を丸くしている全員、想像などしていなかったろう。それだけは、断言してもよかった。