歩くことしばらく、まだ森を抜けきらぬうち。
茂みをかき分ける音がして、彼は思わず足を止めた。風が木立ちを騒がせる音ではない、明らかに何者かの声が耳に入ったのだ。
上体を僅かにひねって、音のしたほうを振り返る。
耳を済ませてみたところ、それは、たしかに何者かの話し声。
「……」
なんとなく気になった。
足音を忍ばせて、彼は、話し声のほうへと歩みを進める。
「――はい。すべて滞りありません。皆様が到着される頃合いに、軍がそこへ――――」
近づくにつれて、だんだんと声がはっきりと聴き取れるようになる。
「ええ。都合よく広い台地です、少々建造物が残っていますが、おそらく決戦と称して全軍展開させるには丁度良いかと」
「……」
その声に聞き覚えがあることに気づき、最初こそ彼は顔をしかめたが、
「――そうですね。まあ、姉は僕を疑うなんて頭の片隅にも思いはしないでしょう。上手く乗せて見せますよ、ご期待ください」
聞こえてくるなんとも不穏なやりとりに、いつしか息を潜めて聞き入っていた。
「はい。承知しております。それでは、またご連絡いたします……」
そうして、会話が途絶えた頃合いを見計らい、彼はわざと下草を乱暴に踏み潰す音を立てながら、足を踏み出した。
「へぇ、イスラ坊ちゃんじゃありませんか」
「……っ!?」
傍目にも明らかに身体を強張らせ、その後ろ姿が彼のほうを振り返る。
手のひらにペンダントを乗せ、普段はにこにことつかみどころのない笑みをつくっているその顔は、緊張だけではない何かのために硬くなっているようだ。
丸く見開かれていた相手の眼は、すぐに、剣呑な光を宿してすがめられる。
「――ビジュ。何をしてるんだ、こんなところで」
「それはこちらのセリフでさァ? オレは、やることもねェんでそのへんを巡回していただけですよ?」
そうしたら、なんと。云いながら、彼は、わざとらしい芝居がかった様子で両手を広げてみせる。
「なにやら、えらく物騒な話が聞こえるじゃあありませんか? こりゃあ放っておけねェと足を向けてみたら――――」
そこでことばを切る。
にやにやとした笑みで相手を眺めると、その口元が奇妙に歪んでいるのが見てとれた。
「……まさか、隊長殿の弟君が、謀反の相談をやらかしてらっしゃるとはねェ? ヒヒヒヒヒヒッ」
「――――」
判り易すぎるカマかけに、相手はあっさり引っかかる。
口に出して大仰な否定を始めるような見苦しいことはしなかったが、剣呑さを増した視線と一文字に引き結ばれた口元が、それを雄弁に語っていた。務めて冷静を保とうとしているようだが、大きな焦りが見てとれる。
正直、謀反とは半ば冗談だったのだが、これで一気に信憑性が増した。
さァて、と、彼は考え始める。
偶然にも手に入れた、この面白いネタをどう扱うか。
隊長や副隊長にたれこむにしても、はっきりとした軋轢ではないながらにおカタい隊長とわりと融通の利くその弟の間で分裂気味だという今の軍の状態では、あまり有効だとは思えない。
それ以前に、あの隊長が弟の裏切りをそうあっさり信じるわけもなかろうし、一歩間違えば自分がお縄だ。
ならば、今後自分の便宜を図らせるために使うほうが、これは有効か――考えがまとまりかけたその一瞬は、だが、ほんの少し遅かったかもしれない。
仕方がない――そう、呼気としかとれぬ声量でつぶやいたのち、
「……全部話すよ」
目を閉じ、軽く肩を落として、目の前の相手が先にそう告げたのだ。
「はァ?」
さすがにそれは予想していなかった。
間抜けな声をあげて目を丸くした彼を見もせず、反応らしい反応も待たず、相手はすっかり気落ちした様子で話し出す。
だが、よくよく見ればその口の端が僅かにつりあがっていることに――残念ながら、彼は気づけなかった。
「僕はたしかに、謀反の相談をしていたよ。――だってね、姉さんのやり方じゃあまりにもお粗末過ぎるんだもの」
「へえぇ?」
だから、彼は相手を甘く見た。
普段から、温室育ちのボンボンだと舐めてかかっていたきらいもある。それに何より、いつもとらえどころのない笑みを浮かべる相手が、彼は、隊長より副隊長より苦手だった。
直情に走る傾向のあるふたりに対し、この相手はそれと真反対。
貶そうが挑発しようが、にこにこと笑って流すばかり。
それが、今や悄然と項垂れ、己の悪事を吐露しようとしているのだ。これが面白くないわけがない。
大上段に構え、話だけは聞いてやろうと見当違いな気分を彼が抱いたのも、無理はなかったといえるだろう。
「僕らが追っているのは何か、君も知っているだろう。魔剣だよ。しかも、他に類を見ない逸品。姉さんたち――帝国は、それを自分たちの懐にしまいこみ、研究対象としてしか扱わないつもりなんだ」
「で?」
顎をしゃくって促すまでもなく、相手の語りは続いている。
「勿体ないじゃないか。一本でさえあんなにすごい力を持っているのにさ、それをみすみす囲い込んでしまうなんて。……君は思わなかったかい? あれがあれば、どんな力だろうと撥ね退けて頂点に立つことが出来る。それだけの力があの魔剣にはあるんだ」
伏せた瞼。
吊り上げようとして、それがならないのか、奇妙に歪んだ口元。
それらは、見下ろす彼の側からは見えない。
ただ、次第に熱を帯びてくる口調に、少しばかり気味の悪さを覚え始めたくらいだった。
「……僕は、魔剣をもっと有効に用いることの出来る組織と出逢ったんだ。そして、彼らのつくるという新たな世界に共感したからこそ、こうして行動しているんだよ」
「へェ。で、なんでそれをオレに――」
「君はどう? 惹かれない? 力がすべてを決める世界、気に入らないものは叩き潰し、己に従うものだけに慈悲を与える、強者のためだけに用意される理想の世界を、君は見てみたくないかい?」
彼がつむぎかけたことばは、果たして相手に届いているのか。それを途中で遮られた不快感を覚える前に、熱病に冒されたような目が彼を見上げていた。
「強者の……」
それが伝播したような錯覚にとらわれ、彼は、どうにかとらえた単語をひとつ、おうむ返しにつぶやいた。
「そう」
相手はそれを見逃さない。
一歩前へと踏み出して、ぱっ、と両手を広げてみせた。
「生かすも殺すも、その王が決める。王に連なる者が決める。――そんな新しい世界は、もうそこに迫っているんだ」
「オ、オウ?」
彼は、一歩あとずさる。
相手は、一歩詰めてくる。
「邪魔なものは踏み潰す。自分にとって有益なものだけ残す。その取捨選択をする側になれるんだ」
いつしか、謀反だの軍隊だのという部分は、会話のなかから消し飛んでいた。
相手が語るのは、ただ、己の通じる組織の偉大さ、そして、訪れるだろう世界の在り様。
「まどろっこしいものは要らない。そこでは力がすべて。力を持つ者だけが勝利者だ」
……薄暗い記憶。
力でねじ伏せられ、そして、置いてきた何か。
さっき悟った何かが、再び、輪郭をぼやけさせていた。
それは、今目の前にいる相手の熱にうかされたのか、それとも?
そして、
「……君は運がいい」
彼が完全にそれに飲み込まれたころを見計らい、相手は笑った。
「運……?」
そのときにはとうに立場が逆転していることに、彼だけが気づかない。
晴れやかな、だが、どこか病的な相手の笑みに気圧され、姿勢を保つだけで精一杯になっていた。
――そこに、それは示される。
「この島での協力者が、せめてひとり欲しいと思っていたんだ。君さえよければ、僕らの偉大なる王のために力を貸してくれないか」
新しい世界。
力がすべて。
強者が勝者。
まどろこしいものは何もかも踏みにじり、強者の理屈が法となる。
……そんな世界への、
「君も来ないか」
いざないの手が――彼へと、伸ばされたのだ。
二十年。
あの女の提案した時間の長さを、彼は考えた。
「……」
胸に燻る何かは、まだ完全に消えたわけではない。
それが、もうすぐに叶うという。
忌々しいあの記憶を踏み潰す側に、この相手は加えてやろうと云っている。
「ヒヒッ」
彼は笑った。
その愉快さを思うだけで、胸が透く思いがしたからだ。
二十年。
それだけかけて、実るかどうか定かでないものよりも――――
「そうまで云われちゃぁ、しょうがありませんねェ?」
すぐ目の前にある、豊穣な香りを放つ果実を、彼は選んだ。
「……そうか」
彼の答えを聞き、相手は満足したように微笑んだ。
「じゃあ、すぐにあちらに連絡をとろう。……そうすれば、君も新しい世界の強者になれる」
ここではまだ人目があるから、もう少し離れたところで。
そう告げて歩き出す相手の背を、彼は、何ら疑うことなく追いかける。
――――ただ、ひとつだけ。
薄暗い記憶に置いてきたモノはなんだったろうか、判らなくなってしまったその答えだけを思い出そうとして、どうしても、思い出せずに。
香りが豊穣だからとて、実の味が保証されているわけではない。
誰も、それを、彼に指摘する者はいないまま――