おそらく、の姿を確認してからやってきたのだろう。特に警戒した様子も見せずに、イスラはにこりとこちらに笑いかける。
“日が変わるころ、あの岩場”
遺跡から去るときに、彼が云ったのがそれだ。
はそれに従って、船を抜け出してきたという次第。
バルレルがいたら「逢引かよ」とかツッコミ入れてくれただろうか。……少なくとも、にそんなつもりはないのだが。
「こんばんは、。来てくれたんだ?」
「自分で呼んでおいて、何云うかな」
「だって、普通警戒するでしょ? ……嘘をついたこと、怒っていると思ってた」
「そりゃ怒ってるけど。帝国軍のためだってんなら、しょうがないでしょ。今さらどうこう云わないよ」
ため息混じりにそう答え、「だけど」と付け加えた。
「記憶喪失のことだけは、ちょっとそれだけじゃ許せないな。そのうち、本当に記憶喪失してもらうべく脳天殴りに行くからヨロシク」
「……今はやらないの?」
「今殴る、理由はないし」
携帯している互いの武器は、共に抜かれる様子は無い。
それを面白そうに見て、イスラは笑った。
「あははは、そっか。ってそういう子なんだ」
の返答以上に呆れをにじませて、だけどそれ以上に嬉しそうに、イスラは笑っている。
じい、とそれを凝視してはみるものの、その真意がどこにあるかは掴みづらい。笑顔の後ろに何か隠しているのは判るのだが――そう考えて、は「あ」と手を打った。
「ねえ、」「そうそう、イスラ!」
同時にそう口にして……はた、とふたりは顔を見合わせた。
「どうぞ」
「いいよ、先に」
促すイスラに重ねて告げるのことばも、意図は同じ。
またも顔を見合わせた後、イスラが笑い出し、は盛大なため息をついた。
「ねえ。これってさ、敵同士のする会話?」
「じゃないね、どう考えても」
くすくす聞こえる笑い声を耳に、は、落ちてきた髪をざっくらばんな動作で後ろへと払う。
「じゃあおことばに甘えて、あたしから。船でかちあったときの話なんだけど」
「え?」
「あのとき、なんで“さよなら”だったの?」
なんとも懐かしい話を持ち出してみたところ、やはりイスラにとって予想外のネタだったらしい。
疑問符を余所に問いを最後まで紡ぐ。ことばが進むにつれて、丸くなっていた彼の目は、どんどん細められていった。
――あ。泣く?
紡ぎ終えて、なんとなく、そう思った。
けれど、
「……あはは」
そんなふうにに思わせておいて、イスラは笑っていた。
「まいったなあ……不意打ちだよ、それ」
手のひらを目に押し当てて、かすれた声で……それでも、イスラは笑っている。
「はは……」
だんだん、声が小さくなる。
「……」
そうして沈黙。
数えていたなら数秒ほど経ったあと、イスラはようやく手を退かしてを見た。
にこりと笑う。
「黙秘権」
「あんたね」
半眼になったのがそんなにおかしいのか、今度は声高らかに笑い出した。
「ははははっ、だからって好きだよ。――――だからさ、これは忠告なんだけどね」
「忠告?」
「そう。……さ、早く帰りなよ」
「――――」
こら。と、唇の動きだけでつぶやいたそれは、果たしてイスラに届いたか。
こら。何を、人のことばっかり指摘してるか。
自分だって、充分、不意打ちかましてるじゃないか。
「……」
立場逆転。
今度は、が手のひらで目をおおう。――胸に込み上げる熱のせいで、イスラのように笑みでごまかしたりは出来――
「……」
あれ、と。心中で、首を傾げた。
今何か。
とても大事な……見過ごせない何かを、見過ごしてしまったような。
激流からすくいあげたそれを、また、流れに放してしまったような。……ほんの一瞬の、二度と取り返せない、出来事だったような。
数秒ほどかけて流れを探ってみるが、それはもう手の届かない場所まで行ってしまったらしかった。それを確認し、諦めるころには気分もおさまっていて、は顔から手を外し、イスラを見る。
「……無茶云わないでよ。ジャキーニさんに逢ったなら知ってるんでしょ? この島、結界があるって」
「うん。でも、いつまでもそれがあるとは限らないよね?」
くすくす。
何かを企んでるっぽい雰囲気満点のイスラを眺め、はまたため息をついた。
「帰れるものなら帰るよ。――レックスさんたちの剣を、どうにか出来たらね」
「……放っておけばいいじゃないか。あんな奴ら」
侮蔑を含んだ声に、おや、と思う。
笑みに隠されていた何か、この場合はレックスたちへの感情が、本人が意図しないうちに転がり出たような印象があったのだ。
思えば、イスラが嫌悪を露にするというのは、出逢っておそらく初めてのことではあるまいか?
などと思いながら、とりあえず、それを指摘するのは避けておく。
「放ってもおけないでしょ。あたしだって、個人的にいろいろ気にかかることがあるんだし」
「……結界は解かれる。近いうちに」
のことばを聞いているのかいないのか、イスラは、またしても笑みを浮かべて云った。
「君が本当に帰りたいって願うなら、それを見逃さないことだ。……昼間も云ったよね。深追いは命に関るよ」
真摯なことば。
意味深な笑み。
どちらに重点を置いて、彼のことばをとらえるべきなのだろう。
天秤の傾きの如何で、それは大きく意味を違えるというのに。
探りたくて。
――その天秤の傾きは、どちらが彼の真実なのか。知りたいと思った。
だから、
「イスラ」
問いは、自覚する前に形になった。
「イスラは、何がしたいの」
返答は、一瞬の間をおいてなされた。
「君が見たままだよ」
とらえどころのない笑みを浮かべて、イスラはそれだけ告げると、身を翻す。
「じゃあね。忠告はしたから、後で文句云われても聞く耳持たないよ」
「あーそりゃご親切にどうもー」
結界が解けたところで、どうせ、帰れるわけがないのだ。そのことを嫌になるほどはっきりしっかり自覚してるおかげで、の返答は自然と棒読みになる。
……剣も返してくれなかったしな。
追いかけても無駄だろう、そう思って、はせめての意趣返しに、立ち去るイスラの背中が夜闇に、木々に、溶け消えるまで、じっとり睨みつけていたのだった。
だが、結界が解かれるということがの思う帰還に繋がらなくても、カイルたちにとっては僥倖である。
「問題は、どう切り出すかよね……」
船に帰る道すがら、は腕を組んで考え込む羽目になっていた。
「まさか、イスラから聞きました、なんて云えないじゃない。ねえ」
……あは、ははは……
どこかで誰かが苦笑い。
幻聴か、それとも、姿を見せぬ何者かか。
それでもその声は、昼間に感じた嫌悪感など感じさせなかったため、は特に追及もせず、聞こえるままにしておいた。
どちらかというと、結界解除の根拠とか切り出し方を考えるほうに、思考の大方を使っていた、という因もあることはあったせいなのだ。
が。
「……めんどい」
船に辿り着く少し前、は思考を放棄した。
「何か出たら云えばいいのよ、“あ! あれはもしや島の結界が解けたのでわ!?”とかなんとか」
岩場まで行って戻って、多少体力を使ったせいか。
立ち去ったはずの睡魔が、そのころ、またしてもへ“こっちへおいでよ”とお誘いをかけだしていた。
半ばそれに引きずられるようにして、出した結論がそれ。
「……ていうか、それ以前に」
足を止め、は、目の前の黒々とした海――に浮かぶ海賊船を、なんとも切なげに見上げる。
「近いうちにって云われても……直ってないしな、船……」
ただでさえ慣れない者ばかりが手がける船の修理は、ここんとこ起こるごたごたのせいで、結構な期間滞っているのだ。
イスラ、偵察してるんなら、そこらへんをちゃんと把握して物を云えよ……と、が思ったかどうかは、本人のみぞ知る。
はははは、と、さっきの声ばりに生ぬるい笑みを零したは、もう一度船を見上げて肩を落とすと、のろのろと船にあがっていった。
あとにはただ、寄せては返す波の音と、時折周囲の木立ちを風が揺らす音が、ささやかに響くだけ。
――夜の闇はまだ深く、朝の光はまだ遠く。
ようやく仄見えた真実は、何より深い闇にも似ていた。