シノビたる者、いついかなるときでも沈着であれ、平静を保つべし。
「キュウマさん」
「――――ッ!?」
気配も感じさせずに背後からやってきた少女に対するキュウマの反応は、平静とは程遠かった。地球とイス○ンダルほどに。
だが、少なくとも、その後表情を取り繕って向かい合うまでの時間は早かった。
少女自身、キュウマを驚かすことが目的ではなかったのだろうから、彼の驚愕はさらりと水に流された感じで終わってしまったのである。
「こんな早朝から……、どうなさったのですか」
幾分早口に、キュウマは問いかける。
そういった質問が出るのも無理はない。何しろ今は、太陽がやっと、山の端から姿をすべて見せたころ。
数日前の休日の翌朝というほどでもなかろうが、たいていの人間は、まだ深い眠りのなかだろう。
それではキュウマ自身は何をしているのかと問われれば、彼の場合、これは毎朝の行事。日常茶飯事。つまりは朝の一修行。
夜明け前に寝床を片付け、やってきて、鍛錬に励むひとときは、一日の始まりを告げるに相応しい。身体をあたため気を引き締める効果もある――が、今日ばかりはそれが裏目に出たというべきか。
風雷の郷の外れ、小ぢんまりした神社の境内で、見当だけでやってきたと思われる少女に見事発見されてしまったのだから。
ちなみに、彼を見上げる少女は、にこにこ微笑んでいた。
「えっと、世間話にきました」
「……こんなところまで?」
間を置かずにそう返すと、少女の笑みが少しひきつる。
「散歩です」
「……こんな時間に?」
さらに少女の表情がひきつった。
「お茶でもどうかと」
「……ここでですか?」
じわり。三叉路が浮かんだ……ような。
「それじゃ」
「……それじゃ?」
そろそろ怪しもうかという心境になりつつ、キュウマはとりあえず、少女の先を促した。
そして。
「……」
にっこり。少女の表情に、笑みが戻った。
腰の剣に手をかけて、やや物騒――というか、ヤケクソ気味に口の端を持ち上げて、
「手合わせしましょう」
「は……?」
「行きます」
問い返す、暇もなく。
淡々と告げられたそれが、剣戟の始まり。
「ッ!」
予備動作を感じさせず振るわれた剣を、引き抜いた刀で受け止める。質の違う金属同士の奏でる不協和音は、彼に不快感さえ覚えさせた。
「――何を、いきなり……?」
「…………」
少女は答えない。
自嘲めいた苦笑いを浮かべたまま、繰り出される二撃め。
一撃めと比べて力の乗ったそれは受け止めず、流れに沿うようにして横へと逸らした。
逸らされた剣は、だが止まらない。手首を翻して三撃めが迫る。
防げば四撃め。
凌げば五撃め。
応じて一撃。
入れると同時に間合いをとるべく地面を蹴るが、少女は、空いた隙間を埋めるかのように前進する。
清涼な空気が漂っていたはずの境内には、すでに剣呑な雰囲気が充満していた。
肌寒いほどの気温であるというのに、少女の額には僅かに汗がにじんでいる。それはキュウマも同じだ。あちらの理由は知らないが、少なくとも、キュウマは少女が油断のならない使い手であると認識している。
剣の腕においても、それに、――――いや、あの白い剣が奪われた今、その懸念は不要のはずだ。
「答えるつもりはないのですね?」
「……まあ、その」
ちょっと逡巡するように少女はつぶやき、「自発的には、ないです」と、なんとも曖昧に締めくくって頷いた。
「そうですか」
キュウマも頷く。
頷いて――大きく前へと踏み込んだ。
「――茶番に付き合う暇はありません!」
袈裟懸けの一閃を繰り出すべく、腕を持ち上げる。命までも奪うつもりもなく、手首を返そうとした、その僅かの間。
キッ、と、少女は動きを止めてキュウマを見上げた。
「師匠ッ!!」
キュウマを見据えたまま、少女は意味不明のことばを叫んだ。
動作を止めたこと、そしてその叫びへの戸惑いが、キュウマの動きを鈍らせる。
そして、
「ヤレヤレ、ヤッパコウナルカ」
横手から飛び出してきた、もうひとりの少女。
赤い髪。
翠の眼。
眼前にいる彼女と瓜二つの存在、予想外の闖入者に、攻撃どころか思考までもが一瞬止まった。
「――くッ!?」
それを狙ってでもいたかのように、いや、実際狙っていたのだろう。その隙をついて、最初からいたほうの少女がキュウマに身体をぶつけてきた。
そのまま、ふたり、もんどりうって地面に転がる。
キュウマは背中から、そして少女はその上に。
だが、体格の差というものがある。付け加えるなら腕力の差も。故に、キュウマはすぐに少女を跳ね除けて起き上がろうとした。……実行にまでは至らなかったが。
「――――」
熱。
手首、足首。
四肢それぞれに感じる熱。
火傷するほどではない、だが、発生するはずもないはずの熱源。
……視界の端にちらつくのは、輝く焔。
何の前触れもなしに、まして発動体と思われていた剣を抜きにして現れた、その存在を認めるべきか否か。
――ほんの一瞬、考え込んだ。
それでも足りないというのだろうか、彼の肩をしっかりと掴んで地面に押し付ける少女の顔は、思った以上に間近にある。頭の上部で結わえていた髪は、今の一瞬で解けたのだろう。さらさらと落ちてきて彼女の輪郭を縁取り、また、キュウマの頬を撫でていく。
そして、赤に包まれた、翠の双眸。
強く。
真っ直ぐに。
微かに迷いを抱きながら、それを押しのける眼の光。
――――豪放で、磊落な。彼が誇りを持って仕えた主。
その最期のことば。
今際の光景。
薄れもしない霞みもしない、今、己が生きる理由。
あのときは、逆だった。
倒れた彼を、自分が覗きこんでいた。
何かを叫んでいた気がする、だが、それは覚えていない。
ただ、朱にまみれた主の身体と、流れ出る命の証を貪欲に吸い込んでいた地面だけは覚えている。
そして、主が己に告げたことば。
“悪ぃな”
浮かべた苦笑は何のためだったのか。
“うちの嫁さんたち、頼むぜ”
何故自分だったのか。
だが、そのことばは、腹に突き立てようとしていた切っ先を虚空に縫い付けるに充分な威力たりえた。
頼むと云われたなら、生き延びねばならない。
それが彼にとって忌むべきこと――主を失って生きることは、シノビにとって死に勝る屈辱――であっても。それが、とうの主のことばなら。
“頼むぜ”
……だから、頷いて。
奥方と、まだ生まれてもいなかった御子のもとへと走った。
……だから。今。
叶えたいと祈る、たったひとつの願いがある。
「キュウマさん」
真っ直ぐにキュウマを見つめたまま、彼女は――微笑んだ。かなり、ヤケクソ気味に。
「とりあえず、このまましばらく、馬乗りになられた男と馬乗りになった女が外からどう見えるかについて語り合いませんか?」
「……押シ倒シトルヨウニシカ、見エンガナ」
どことなし呆れた声で、傍らに腰を落とし、後で出てきたほうの少女がつぶやく。
「師匠は黙っててください」
んなこと云われなくても判ってますから、と、キュウマに乗ったほうの少女が抗議。
それで、やっと彼にもこのふたりの正体が把握できた。
「……殿……そちらは、マネマネ師匠ですか」
「正解です」
馬乗りになった少女が、キュウマに視線を戻して笑う。
「正解」
同時にそうつぶやいた少女の姿が、一瞬にして切り替わる。瓜二つのそれから、髪と眼の色を違えただけのものに変わったに過ぎないが、歴然とした違いがあれば見分けるのは容易だ。
もともと、外見以外にさしたる類似点があったわけでもない。
翠の髪の“”は、器用にも、その姿のまま背中に翼を生やすという芸当を見せると、ふわりと宙に浮かび上がった。
「ソレジャ、ワシハココデナ。アトハ適当ニ頑張レヨ」
「はい。師匠、ありがとうございました」
「礼ナンゾ、ムズ痒イカライイワイ」
「……あはは」
ほのぼのとしたやりとりののち、ヤレ荒事ハ疲レルワ、と、ただ物陰から出てきて驚かせただけしかしてないんじゃないかというツッコミもなんのその、マネマネ師匠は夜明けの空に飛んで消えた。
けして四肢の力を抜かぬままそれを見送ったは、赤い髪をさらりと揺らしてキュウマに視線を戻す。
「……」
僅かに開いた唇から零れる呼気が、空気を揺らした。
戻ってきた視線は、幾分困ったような感情を宿している。敵意も殺意もないことだけは明らかなそれに、キュウマは小さく息をついた。
「――何をなさりたいのですか」
は一度瞼を伏せて、ほんの僅かの空白ののち、云った。
「……キュウマさんって、突発的な事態に弱いでしょ」
ちっとも関係ないことを。