――耳を打ったのは、剣戟だった。
「へ?」
森の中、立ち止まる。
そろそろ、木々の向こうにあの遺跡が見えようという場所。
少し前までは聞こえていた鳥の声なんかももはやなく、が下草を踏みしだく音だけが、鼓膜を刺激する唯一のものだったのだけれど。
空耳かと疑い、足を止めたついでに身体の向きを少し修正、耳の後ろに手を当ててたしかめる――すると、やはり、その音が聞こえた。
ギィン、キィン、と、金属同士のぶつかる、高くも鈍い音。
不規則に連続するそれらは、どう考えてもトライアングルやら木琴で、森ののどかな演奏会、というわけでもないのは明らかだった。
「……」
「ぷ」
走り出そうとしたのが判ったのだろう、プニムが咎めるように鳴いた。
「無理はしないって約束だろ、って?」
「ぷ」
「――でも、こういうの聞いてほっとくのも、あたしにとっては無理する部類に入っちゃうんだよね」
「……ぷ」
判ってたけど、と云いたげに項垂れて、プニムはの肩から飛び下りた。そのまま、てってってっ、と先行する。
がそれを追って走ると、速度の違いを埋めるためにかめんどくさくなったか、ボール状に丸まって、ぽーんぽーんと飛んでいく。
雑草蹴散らし木の枝飛び越え、走ること少々。ここへ来るのは、こないだジルコーダに遭遇して以来だが、プニムの誘導もあってスムーズに現場に到着することができた。
そうして最後の茂みを抜け、は目を見開いた。
「――ファルゼンさん!?」
全身鎧の騎士と、禍々しい気配をまとったこの世ならざるモノ、おそらく亡霊が、剣を打ちつけ合っている光景が目の前にあったのだ。
「っ!?」
唐突なの叫びに、打ち合っていたファルゼンの体勢が崩れた。そこに、亡霊が剣を叩き込む。血錆のこびりついた、見るだけでも気分を害する濁った刃。
背中側に重心の移動したファルゼンは、片手をつきつつも応戦しようとする。
そのときには、も動いていた。
茂みから飛び出し、剣を抜く。亡霊とファルゼンの間に割り込んで、振り下ろされる剣を弾いた。――金属のこすれる嫌な音が、耳から背筋を突き抜ける。
返す刃で胴を一閃。
亡霊など倒せるのか、と一瞬思いはしたが、不安に反して、その一撃で亡霊の姿は薄れていった。
「……、さん」
背中から聞こえた少女の声に、振り返る。
未だ鎧をまとったままのファルゼン――ファリエルが、信じられないものを見たような声で自分の名を呼んでいた。
「――」
問いたいことは幾つもあったけれど、かぶりを振ってそれらを飲み込む。
「他にはいますか?」
「え……あ、いいえ。今ので、今回は最後です」
「……そうですか」
緊張を解くの前で、ファルゼンの姿が消え、ファリエルの姿が現れる。それを見て、息を飲んだ。
幽霊なのだから顔色は悪くて当然なのかもしれないが、数えるほどしか見たことのない普段の彼女より、ずっと具合が悪そうだ。眉根は寄せられていて、肩の上下も心なし早め。
「フレイズさんは?」
「――集落で待機しています。ここには、私ひとりで……」
「ぷぅ……」
心配そうに見上げるプニムに、ファリエルは弱々しく笑ってみせた。
「だいじょうぶ、です。このために、来たんですから」
「……見回りに来たら亡霊がいた、ってわけじゃなくて?」
ええ、と、自らも亡霊である少女は頷く。
「彼らを鎮めるために、私は来たんです。――っ、く」
心臓のあたりに手を当てて、ファリエルがうずくまった。その背に触れようとしたの手は、するりと彼女をすり抜ける。
「ファリエルさん……!」
「だい、じょうぶ。……お願い、傍にいてください」
彼女から差し出された手のひらも、また、の手をすり抜けた。
仮初の実体を生み出す余力さえ、今のファリエルにはないらしい。
それを少しだけ哀しそうに見つめて、ファリエルは、殆どと重なるような位置に自らを移動させる。そうして、ほう、と大きく胸を上下させた。
「……しばらく、こうさせて……」
「ど、どうぞ」
「ぷ」
傍から見たら、なんともユカイな光景であろう。
座り込む赤い髪の少女にだぶって、銀髪の少女があるのだから。傍らにはプニムもいるけれど、だが、三人の心境はほのぼのとかのんびりとかとは程遠かった。
だが、見ているうちに、尋常でなく白かったファリエルの貌に、色が戻り始めた。
「行きましょう」
動けるようになるや否や、彼女はたちを促してその場を離れた。
「あまり同じ場所にいつづけると、また彼らを刺激しますから」
「……はい」
そう云われては、無理に留まることも出来ない。
促されるまま歩き出し、たちは普段より多目の時間をかけて、集いの泉にまで辿り着いた。ファリエルの容態は気になったものの、歩いているうちに、蒼白から、少し血の気がない、といったところまで回復するのに、そう時間はかからなかったように思う。
それでも、まだ気分は優れないらしく、泉に辿り着いて鎧で身を覆うと同時、その場に崩れ落ちてしまった。
「鎧の切り替えも、魔力を使うんじゃないですか?」
「……」
以前思った問いを投げかけても、ファルゼンの首は左右に振られただけ。
それ以上を追及することも憚られて、も、彼女の隣に腰かけたあとは、沈黙を保つことにした。
ふたりとも黙ってしまうと、聞こえてくるのは周囲にある水が風に撫でられる音、泉の縁にある木々が、さわさわと起こす葉ずれの音。
プニムはというと、ファルゼンの反対隣にちょこんと佇んで、じぃっと彼女を見上げていた。
「……ありがとう。心配してくれてるのね」
ふ、と微笑むような息をついて、ファリエルを包み込む鎧の手が、プニムの頭をそうっと撫でた。
「だいじょうぶよ、さんの傍にいると楽だから。……もうすぐ治るわ」
「まだ漏れてるんですか……」
「ええ。おかげで助かります」
クスクス、笑う程度までには彼女も回復したらしい。
ならば、と。
かけあいめいたやりとりのあと、は、先ほど遺跡の前で飲み込んだ問いを形にすることにした。
「あの。訊いてもいいですか?」
「ええ」
彼らのことですね、と、心得た様子でファルゼンも頷く。
そうして、がことばを重ねる前に、彼女は答えを紡ぎだした。
「さんの見た彼らは、以前お話した戦いのときに、命を落とした者たちです。あのあたりは戦いの中心になったので、特に多くの者が死にました。――彼らは、長い時を経てもなお、あのように縛りつづけられているんです」
「えーと……そんなに長い間地縛霊を?」
そんな根強い恨みって、いったい、当時はどんなことが……腕を組みかけたを見、ファリエルは、それをやんわりと否定する。
「いえ。留まりつづけているのは、彼らの意志ではないんです」
「……」
「はい?」
何か不穏なものを感じたのだろう、プニムが場所を移動して、の腕のなかに飛び込んできた。小さく震える身体を抱いてやりながら、も再び疑問符を浮かべる。
「好きであそこにいるわけじゃない、ってこと?」
「ええ」
そうして、ファリエルは答えを告げた。
「彼らを亡霊として縛りつけているのは、この島自体なんです」
――“幽霊島じゃあるまいしさ”
冗談混じりだったはずの、今朝聞いたナップの声が不意によみがえった。
背中が泡立つような感覚を、どうにかこうにか抑え込む。
「……ちょ……っと、待ってください。なんですか、それ」
だけど、声は震えた。
そんなを――おそらく――申し訳なさそうに見て、ファリエルは頷く。
「ことばのとおり、です。この島で死んだ者は、ひとりの例外もなく亡霊として縛りつけられてしまいます。輪廻に戻ることも出来ず、ああやって彷徨い出……打ち倒されて魔力を失っても、また時を経て起き上がり……」
「なんですか、それ……!」
「――ここは、そういう島なんです」
叫んでいたつもりはなかったのだが、腕のプニムがびくりと飛び上がったことで、は自らの声の大きさを自覚した。
だが、ファリエルは動揺のひとつも見せず、鎧の向こうの表情も見せず、淡々と話を結び終えた。
先ほどと同じように、沈黙が場を覆う。
だが、時折聞こえる水音も梢の揺れる音も、話を聞いた今となっては何か薄ら寒いものを覚えずにはいられない。
「……何……ですか。なんなんですか、それって……!?」
魂はすべて輪廻に還る。
遠い昔。生まれる前。彼女と出逢った記憶はもうずいぶんとおぼろげだけれど、それでも、そこを識っている。
詳しいことは知らない。でも、そこには安らぎがあった。
魂たちが休息を得て、そして、次の生へと踏み出す場所。
そこへ行けないということは。ここへ縛られるということは。
次の生を得ることも出来ずに、ただ、苦しみを繰り返しつづけるということだ。
「……そんなことって」「ファルゼン様!!」
なお、続けようとしたとき。
彼女の帰りが遅いことを危惧したらしいフレイズが、翼を羽ばたかせて集いの泉に舞い下りてきた。
ことばを途切れさせたを不審げに一瞥し、金髪の天使は己の仕える主のもとへ急ぐ。
「ファルゼン様、ご無事ですか?」
「――ええ。さんが来てくれたから、なんとか」
「さんが……」
感謝と惑いを織り交ぜた彼の視線を受け、は小さく会釈した。
「……ありがとうございます。ここからは私が」
「はい。お願いします」
「それじゃあ……本当にありがとうございました、さん」
狭間の領域に戻るのだろう、ぎこちない動作で一礼し、まずファルゼンが歩き出した。もう一度深く頭を下げたフレイズが、その背を支えようというのか、急ぎ足に追いかける。
そんなふたりを見送ろうとして――ふと、それが口をついて出る。
たった今まで話していたのは、亡霊と、それを縛りつける島のことであったはずなのに、そのとき浮かんだそれは、少し前に頭をよぎっただけのものだった。
だが、だからこそ、こうして突発的に出てきたのかもしれない。
「フレイズさん」
「はい?」
ちらりとを振り返る彼の表情には、怪訝な色があった。
「ファルゼンさんが、ファリエルさんでいることは、出来ないんですか?」
天使は微妙に表情を歪め、即座に首を振った。
「――不可能ですよ、そんなことは」
左右に揺れた金色の残滓を残し、フレイズはそのまま背を向けてファルゼンに駆け寄った。労りを含んで支える彼の仕草はとても献身的で、芯からファルゼン……ファリエルのことを案じているのだろうと理解できる。
けれど。
そんな彼だからこそ、不思議に思わざるを得ない。
あくまでも、ファルゼンという人物はファリエルの仮の姿に過ぎない。そんな芝居を続けるということは、彼女のみならず彼までもが虚構を貫きつづけているということだ。
天使たる者が、そのようなことを己に許せるのか。
遠ざかる背中が、緑に完全に飲み込まれるまで見送りながら、が考えていたのはそんなことだった。