向こうから、誰かが駆けてくる。
赤い髪を風になびかせて、ずぶぬれになった恰好のまま、花畑を走ってくる。蒼い眼に宿るのは楽しそうな光。
向こうから、駆けてきたのは。
「! レックス!」
――アティ――だった。
いつの間にか、首を振りかけた姿勢のままで硬直してしまってたらしい。
身を起こすレックスに頭突きされぬよう、あわてて身体をのけぞらせた。そのついでに、声をかけてきた主を振り返る。
「……アティ……さん」
「はい」
「……ずぶぬれじゃないか。風邪ひくよ」
「え? えへへ、ふたりで何してるのかなって気になっちゃいまして」
他愛なく笑うアティから、は、視線を逸らす。
いたたまれない、とはこういうことなのかと、暗い気持ちが胸をよぎった。
この笑顔が、終わらないゆめのなかにあるというのなら。
ここにいるアティは、
「先生! 待ってくださいと云ったでしょう!」
「はう!?」
ばっさあ、と。
大きな音をたててアティの頭上で布が、もとい、着物が翻った。そのまま、それは頭からすっぽり彼女にかぶさって。アティのいた場所に出現したのは、色鮮やかなてるてるぼうずのなり損ない。
てるてるぼうずの作成者は、アティを追いかけてきたアリーゼとベルフラウだった。こちらは、とっくに着物に着替えている。
丈が微妙に中途半端だけど、変な感じはしない。逆に、なんとなくおきゃんなイメージを演出していた。表現が古いか?
離れたところにいるナップとウィルも、似たような恰好。あちらは少年ぽくてなかなか。……とはいえ、普段から丈の長い服を好むウィルは、足を出してるのに慣れないらしくて居心地悪そうだけれど。
――そんな。
普段どおりの彼らを見て。
「……あははは」
笑みが、こぼれた。
あ! 笑いましたね! と、着物を蹴散らして出てこようとするアティを、ベルフラウとアリーゼが抑え込む。
「いいから、さっさと濡れた服脱いで、お着替えなさいッ!」
「本当に風邪ひいちゃいますよ!?」
少女ふたりに云い負かされたらしく、てるてる坊主は沈黙。その後、もぞもぞと動き出す。
とレックス、そしてベルフラウとアリーゼが見守ることしばし。
まず、白いマントに包まれたずぶぬれの衣服一式が、にょきっとてるてる坊主から生えた。心得てそれを受け取るアリーゼ。
その間に、てるてる坊主から腕が生え、足が生え、最後に頭が出ると同時に形が整えられて、ベルフラウの持っていた帯を受け取り、縛る。
以上、着物姿アティ先生完成。
「……えっと、帽子は」
「かぶらないほうがいいと思いますわ」
水辺に放られている白いそれを一応示しつつ、ベルフラウが告げる。
そうですか? と少々残念そうに頷いたアティだが、取りに行く様子がないところを見るに、生徒の意見を取り入れることに決めたようだ。
……どーでもいいが、いや、よくないが。
ベルフラウとアリーゼ以上につんつるてんの着物のせいで見えてる素足、健全な男の人たちには目の毒じゃなかろーか。レックスはおいといて。
などと思ったのが伝わったわけでもなかろうが、スバルとパナシェを着替えさせ終えたミスミがやってきて、「ほれ」とアティに自分の羽織をかけてやった。前であわせると、普段のマントより短いけどそれに似た感じ。
「ありがとうございます」
「何。女は腰を冷やしてはいかんからな」
ころころ、ミスミが笑う。
「そうですか?」
いまいち実感のもてないらしいアティは、首をかしげて疑問符を浮かべていた。
きょとん、と丸くなった目、気持ち開かれた口元。ある程度しぼりはしたのだろうが、まだ水気の残ったやわらかく跳ねる髪。
――そのどれも、現実なのに。
彼女の心のどこかは今も、ゆめとの境を彷徨っているというのか。
きっと。
彼女自身、それを自覚しないまま。
――――なら。せめてそれを砕かないように。
泣き出したい気持ちで、そう決めた。
終わらないゆめにいることが、幸福だと思えなくても。
せめて、彼女の心に在る異物を――碧の賢帝を、どうにかすることが出来るまで。
どんなに大きな力でも、自分のものでない意志が在る以上、それは自分のものとはいえないのだから。自分の心じゃないのだから。
侵蝕の不安は、最初からあったのだと。
気づくのは遅すぎたけれど、まだ、間に合わないわけじゃない。
自己と他者の境。
現実とゆめの境。
――危うい、その心の在り様に。
つけ込むモノが現れたことは、果たしてただの偶然なのか。誰かが意図したのだとしたら、何のために仕組んだのか。
考えても答えが出ないのなら、今出来ることを。
それはけして、贖罪にはならないけど。
「?」
さ。
頭を切り替えて。
アティが呼んでるのは誰の名前?
呼ばれたのは誰のこと?
――――あたしは、
「はい?」
ぱ、と顔をあげると、アティが不思議そうな表情で覗き込んでいた。
「どうしました? 気分悪いですか?」
「いえ。アティさんがあんまりセクシィダイナマイツなので、じっと見てるとドッキドキ」
「……やっ、やだ! 何云うんですかってば!」
途端起こった大爆笑の渦のなか、アティがの背中をひっぱたく音が、やけに大きく響いていた。