レックス。
アティ。
姉弟の差異を見出そうとしていた思考を、それは、急停止させて白紙に戻すに充分な威力。
呼びかけの意図はなかったけれど、そんなのは関係ない。
紡がれた単語そのものに、その力はあった。
「今日は、休日だから」
別の意味で硬直したを見上げ、レックスは笑う。
「いまから、普段のタガが外れて、変なこと云うかもしれない。でも、独り言で繰言だから、――他愛のない、ゆめだから」
呼吸、ひとつ。
たぶん、ふたり同時に息を吸って、吐いた。
の肩が僅かに下がったのが合図とでもいうのか。レックスは、小さく顎を上下させた。
「おかあさんのことが、好きだった。俺も姉さんも、優しいゆめをくれたおかあさんのことが、今も大好きだ」
紡がれることばを、ただ、は聞く。
レックスは、返事など望んではいないのだろうから。
「――それは、おなじ。たぶん、ずっと変わらない――でも」
唇を引き結んで、視線を逸らした。――彼ばかり見ていては、それこそ不審だ。
「おかあさんが、いなくなった夜。お父さんとお母さんが、死んだって認識したとき。俺と姉さんは――たぶん、ゆめから覚めた」
視界の端に、赤い髪が揺れる。
「おかあさんは、ゆめ。もういない。俺も姉さんもそう思って、思うようにして。だけど、きっとどこかで逢えるって思って」
――逢えたら。きっとお礼を。
いつだったっけ、レックスが、そんな話をしてくれたのは。
「今度逢うときには、俺たちが成長した分の年数を挟んで。おかあさんじゃなくて、おかあさんをしてくれたひとに逢えると思った――俺は」
たとえどんなに間があっても、きっと判ると思った。
「でも」、
こっちを見てよ、と。
レックスの手が、の服の裾を引く。
自分の身体じゃないような重さを感じながら、それでも、どうにか首を動かした。
「また、“おかあさん”に逢っちゃったね」
微笑まれる資格が、自分にあるのか。
思わず自問する。解は出ない。
ちらと視線を逸らして、近くのヤッファとマルルゥの様子を確かめた。ふたりともよく寝てる。……片方が狸寝入りでない保証はないが……
そうして、またレックスを見た。
「……知ってたんですか」
「うん」
裾を掴む手が、僅かに震えていた。
緊張なのだろうか、それとも、別の何かなのだろうか。
「謝ったりしないでほしいんだ」
口を開きかけたの先をとって、レックスは云う。
「だって、普通なら、そんなことあるはずないんだから。俺がその立場でも、黙ってたと思うよ」
だからずっと否定を重ねてきた――動かした唇を読み取ったのか、は、なんともいえぬ表情で彼の名をつぶやいた。
「…………レックス」
「だから――アティには黙っててほしい」
「え?」
身体ごと。
知らず、はレックスに向き直っていた。
覗き込んだ蒼い眼は、穏やかに凪いでいる。けれど、何か……そう。それは、さっき彼の笑みに感じた色。
「アティのゆめはね、――終わってないんだ」
……終わりを与えていかなかったこと
……それが唯一の、そして最大の――――
目が覚めたら、おかあさんはいなくなっていた。
代わりに、村長さんと、村長さんのところのお姉さんが、姉弟を覗き込んでいた。
「……おかあさんは?」
アティの第一声に、お姉さんは困った顔になって、後ろに立っている村長さんを振り返った。
村長さんは、首を横に振った。
それを。
お父さんとお母さんのことなんだ、と、姉弟は解釈した。
だから、付け加えた。
「違うよ。ぼくたちが、起きて寝るまでいてくれた、おかあさん。どこ?」
村長さんと、お姉さんは、まったく同時に動きを止めた。
ふたりの目は、何かを探すように宙を彷徨った。
今思えば、それは、迷っていたのだろう。
そして、先に動いたのは村長さんだった。
「――誰かね、それは」
……ふたりは泣いた。
おかあさんはどこ。お礼を云いたい、おかあさんはどこ。
それでも、誰もが、頑なに口を閉ざした。
たかが小娘ひとりから頼まれたそれなぞ、破ったところでさして心労があるでもなかろうに――結果として、ふたりが表向きにでもそれを口にしなくなるまで、それ以降も、沈黙は保たれた。
おそらくは、彼らの律儀さもあったろう。だが、不意に訪れて不意に去った娘を奇異に思い、存在を認めたくなかったという気持ちが皆無だったはずもない。
そしてその小娘自身、どちらにしても、あの数時間後に時間跳躍の波に襲われたため、結果としては同じだったはずだ。
そんな、絡まったいくつかの要素が、姉弟に望まぬ答えを押し付けた。
――おかあさんは、いない。
夢だと済ませるには、そのゆめは、しあわせすぎたというのに――
「こうなったら、自分で探し出して逢う。……っていうのは、話したっけ」
謝るな、って、結構残酷だ。
そんなことを思いながら、頷いた。
「今思えば、いや、最近気づいた。その源はね、はっきりした終わりが欲しかったからなんだって……置いていかるんじゃなく、お別れをしたかったからだって」
それは、判る。判りすぎるほどに、判る。
そうしなければ進めなかった自分が、こうしてここにいるのだから。
「だから、でも、俺はいいんだ。がおかあさんだって気がついて、今生きているひとだって判って……うん、俺は、本当にうれしい」
……つと。
何かが警鐘を鳴らした。
あまりにも、すんなりと紡がれたイコール。
あまりにも、何気なく受け入れられた事実。
問わないのか。それがいかなるわざのもとに成されたのか。
問わないのか。そこにどのような思惑があったのか。
……いや、それよりも。欲しいそれを今、叶えようと思えば出来るのに、どうしてレックスはそこに触れない?
「でも……アティには云えない」
けれどそれを問う前に、レックスはつづけた。
が首を傾げたのはそれとほぼ同時、故に、彼は疑問符を後のものだと思ったようだ。
「アティのどこかは、まだ、ゆめにいる」
変わらない、おかあさんの姿がそこにあって。
変わった、自分たちがここにいて。
――――彼女のどこかは、おかあさんに重きを置こうとしてる。
「変わらない、しあわせを、みてる」
おかあさんが変わらないのなら、自分たちも変わらない。
自分たちが変わっているのは、これが夢だから。
「昔から、そんな感じはあった。でも、おかあさんの話をしてるアティは本当に楽しそうだから、俺も別にいいかって思ってたんだ。おかあさんはおかあさんをしてくれた誰かだよって云いながら……それでも、それは、楽しかった」
独白と称した告白はつづく。
「だけど、島に来てから少し変だ。おかあさんそっくりのに逢ったせいもあるだろうけど――追い打ちは、碧の賢帝だと思う」
また、警鐘。
だけどそれは、最後につむがれた固有名詞に気をひきつけられて、すぐに失せた。
――碧の賢帝――シャルトス。
「碧の賢帝は云ったらしい。一度適格者と見込んだ以上、剣は使用者を守ると。絶対に死なせないと。――魂と一体化し、離れることは、ないんだと」
無色の派閥によって生み出された、意志を持つ魔剣。
喚起の門と共鳴し、己の選んだ使い手に未知の力と姿を与えるということ以外、まだすべてが明らかになっていない、鮮やかな碧。
「だから、のことは云えない。……云うと、アティが本当にゆめに行ってしまいそうだから。碧の賢帝が、そこに入り込んできそうだから。薄々勘付いてるかもしれないけど、だから、俺は絶対に肯定できないんだよ」
喉はからから。
心臓はどくどく。
頭の血管が破裂しそうな圧迫感。
――間違いは、これか。
逃げるように後にしてきた小さな村が、花畑の向こうに見えた。
虚ろな笑顔を浮かべていた、小さな子たちの姿も見えた。
――間違いは、これだ。
ひとのことを云える立場か。
救いを望める立場か。
覚えられちゃいけない? 記憶に残されちゃいけない?
どんなに自失していたって、そこに在るなら心とて在る。
その手をとった時点で、刻まれたことくらい悟れというのだ。
何よりなすべきことを置いて、あたしは、あそこから姿を消した。
――間違いは、ここに。
これが、結果だ。
「だから」、
穏やかな微笑み。
だけど、それは、今は何より鋭い棘のように突き刺さる。
正視できない。だけどしなくちゃいけない。
「出来ればアティには云わないで。……は、でいてやってくれ」
おかあさんは、どこ。
――誰かね、それは。
かつてなされた問答を繰り返せ。
「俺は……だいじょうぶだから」
そうすれば、きっと、アティもだいじょうぶだから。
そう信じる蒼い瞳に、は何度も頷いた。
声も出せず。
何も思わず。
無心に、それを繰り返した。
……それが、ただ、根本から目を逸らすだけなのだと。
気づくことなど困難なほど――心は、かき乱されていた。