どういうことだろう。
何故、そんなことになっているのだろう――
「何の外的要因もなしに、第二フェイズに移行したなんて……しかも、あれでは程なく最終段階にまで到達しかねない」
第一フェイズから発展を遂げるためには、内側からだけでなく、外から突き崩すためのきっかけが必要であるはずだった。
電波塔、と呼んでいるその場所に佇み、アルディラは、ひとり空を仰ぐ。
いつかの嵐が嘘のように晴れ渡った青空の下、彼女の横を掠めていく風は優しくあたたかい。癒しを与えてくれるようであり、無条件に包み込んでくれるようであり――心をすべて傾ければ、そのなかに溶け込んでさえいけそうだ。
人間の感覚としての部分を、だが、アルディラはそこで断ち切る。
今必要なのは感傷ではない、と、己に課して。
「……それとも、元々、脆かったということなのかしら」
ふわふわとしてやわらかな――やわらかすぎる笑みを思い浮かべて、アルディラは眉をしかめる。
そんなことはない。続けて、そうつぶやいた。
たった数度で侵蝕されるほど脆い壁の持ち主であれば、そもそも、あの年まで自我を保って生きていられるはずがない。まして、誰もが思いはしても口に出来ぬきれいなゆめを、ためらいもせずに云いきるだけの確りとした意志など、持てるはずがないのだ。
きれいなゆめ。
争わず、戦わず、すべての者が笑顔で暮らす――
遠い昔にうしなわれたひとが、何ものにも勝る微笑みとともに、彼女に語ってくれたゆめ。
……ああ。
あれこそは、本当に、きれいなゆめだった。
「今の」、
それに触発されるように、鎧の騎士のことばが浮かぶ。
「この島の、在り様か……」
視線を動かせば、ほぼ緑に覆われた島が一望出来た。
あの何処かに誰かがいて、何かをしているのだろうか。――あの嵐の日、そして彼らがやってくるまで、そんなことを考えるのさえやめていたというのに。
……それが、どうだろう。
今では、遠いあの日のように、どこかでなにかをしているだれかの姿を、まざまざと心に思い描けるのだ。破損したデータディスクが、奇跡的に復旧できたかのように。色褪せていた写真が、再び鮮やかな一瞬を取り戻したかのように。
とうに、失われたと思っていたのに……
「――――ハイ……ネル……」
名を呼ぶ。
いくら時が経っても掠れぬ、愛しいひとの名前を呼ぶ。
……何をためらう
それに呼応したかのように、するり、と、何かが心にそうささやいた。
……彼らを用いて遺跡を復活させるんだ
……そうすれば、封じられたものもよみがえる
「っ、――」
かぶりを振った。
小さな子供が、いやいやをするように。アルディラは、両手で抱えた頭を左右に振りつづける。
何かは云う。
遠い、愛しい人の声は云う。
望まないのか、と。
叶えないのか、と。
そこに手段があるというのに、望みを叶えないのか、と。
アルディラは思う。
判らないの、と。
ためらうの、と。
誰よりも何よりも、求める望みがそこにある。それは判っている。手段も把握している。
――――けれど。けれども、だ。
「……彼らは、笑っているのよ……」
その笑顔は。
愛しいひとを思わせるのだ。
愛しいひとに似た笑みだから。
レックス。アティ。
よく似たふたり。
よく似た姉弟。
彼らだけなら、頷いただろうか。
ためらいはしても、行動に移ることが出来ただろうか。
それは、思考しても意味のない“IF”。
現実として、彼らは彼らだけではない。
カイルたちもそう、子供たちもそう、彼らを慕う島の者たち(驚いたことにアルディラは自身さえも含んでしまうのだ、そのなかに)。
彼らが守ろうとする、大勢の人々。
――何より。
。
源は違えど、かつての自分と。あのひとと。
同じ眼差しを、あのふたりから向けられていた少女。
信頼という。
愛情という。
相手が自分を害することなど、その命が失われてさえありえないと断言する、無条件の降服。幸福。
守る対象ではなくて、守ってくれる相手でもなくて。
ただ、そこに在るだけで――――
――それを。壊せというのか。
かつて自分が失ったそれを、今度は自分が壊すというのか。
どれほどの慟哭が、どれほどの絶望が、この心を襲ったか。まだ、データの一片さえ、消えてはいないというのに。消せはしないというのに。
――それを。彼らに繰り返させるというのか――
「……判らない、のよ……」
力なく床に膝をつき、アルディラはそうつぶやいた。
風に乗ることもなく霧散したそれは、だが、己の内側に声を届けていた何者かには読み取られたらしい。
……そうか
失望も露に、声は云った。
それまでの、違和感はあってもどこか優しかった――あのひとの雰囲気を残していた部分は、そこにはなかった。
それどころか、
「え……?」
背筋を伝う悪寒に、アルディラは、濡れだしていた頬を持ち上げた。
ごう、と、吹いた風が、水滴をさらっていく。
そこに、先刻までの優しげなものはない。
ただ乱暴に、ただ横暴に。何かを奪っていく力だけを感じさせる、暴風。
……駒は他にもある
叩きつけるようなそれは、ことばに含まれた意志だけではない。
「きゃ――――あああぁぁぁぁぁッ!?」
遠慮も何もあったものではない力の奔流が、どこからともなくアルディラを襲った。それは外からの刺激ではない、頭のなかに突然手でも生えて、痛みを感じる神経という神経すべて、過敏にさせられたようなもの。
血管のなかを血がとおるだけで、痛い。
痛みに耐えるために身体を抱くだけで、筋肉に少し力を入れるだけで、痛い。
呼吸をするだけで。
脈を打つだけで。
またたきをするだけで。
ほんのささいな動作でさえ、ただ生きてゆくための生命活動でさえ。ひとつひとつが神経を刺激して、そのたびに、身もちぎれんほどの激痛がアルディラを襲う――!
「あ」、
倒れ伏した瞬間にも、床と触れた部分を基点に激痛が走る。
けれど、もはや声も出せない。
すべての神経が、痛みを感じる信号だけを選び、増幅して通すモノに変えられてしまったかのようだった。
「――――」、
浅い呼吸を繰り返すだけで、全身が千切られる。
またたきをするだけで、身が砕かれる。
それは、何かとの比類さえ許されぬ、暴虐極まりない力。
……アルディラ
そこに。
やわらかな声が届いた。
アルディラの立つこの場所に続く階段を駆けてきた何かが、ふわりと彼女の背をなでる。
やめて、と云おうとした。今の自分は、その労わる動作さえ毒と感じてしまうのだから。
……けれど。
「え――?」
あたたかいと。
やさしいと。
触れられた部分は、そう感じていた。
……!
悔しげな、思念が届く。
それは、たった今まで彼女を苛んでいた力の主。
退いていく。
潮がひいていくように、浅いまどろみからぬけるように。
さあ、と、優しい風がアルディラの上を吹き抜けていった。
……彼女に手は出させない
声。
優しい、あたたかい、遠いあの日になくした声。
戸惑いも違和感も、それにはない。感じない。
……深遠へ戻れ、否定者……!
「……ハイ、ネル……?」
その声を。
その主を。
求めて、手を伸ばし――
アルディラの意識は、そこで途切れた。