ざあざあと、雨が降る。
煩く天幕を叩く雨音は、だが、彼の集中を妨げる役には立っていない。
隊長の弟という身分を利用して個人用の天幕をせしめた彼は、灯りを受けてあえかに輝くペンダントを目の前にかざし、じっとそれを凝視する。
――ちか、と、台座におさめられた石が輝いた。
光の反射ではない、自ずから発した輝きだ。
それを確認し、彼は唇を持ち上げる。
「……聞こえますか」
そのことばに対する返答は、鼓膜ではなく彼の意識に直接届く。
「ええ……剣はまだ、奴らの手にあります。が、少々おかしなことになっていまして」
雨の音にかき消され、紡ぐことばは彼の周囲以上に伝播することはない。
それでも、誰が聞いているかわからないのだとでもいうように、彼の声はますますひそめられていく。
「剣が――碧の賢帝が、二本に分かれています」
今までよりも長い、沈黙。
しばしの間をおいて、彼は軽く頷いた。
「おそらく。継承者が同時にふたり出たことで、適格者を見定めるために剣自身がそうしたのだと思われます。……ええ、どちらかが死ねば、一本に戻らざるを得ないでしょうね」
実際にそうしようとしたことは告げずに口を閉ざし、ふと、彼の手が所在なさげに動いた。ついと床を滑った指先が、硬質な何かに触れる。
「それから」、
続けようとしたことばは、触れた何かを目の前に持ってくる動作のため、途切れた。
白く淡く、輝く短剣。護身のための短剣よりも僅かに長い刃渡りを持つ剣は、昼間、彼が本来の持ち主から奪ってきたものだった。
「………………」
輝きを前に、彼は思う。
この剣と持ち主のことを告げれば、“彼ら”は間違いなく興味を持つだろう。それを見出し知らせた彼にも、なんらかの報酬は与えられるはずだ。
そして何より、それによって彼の立場がまたひとつ固まる。より動きやすくなる。
――予測ではなく、あきらかな未来図。
剣を床に置いて、彼は、再びペンダントに向き直った。
「……頃合いは、もうしばらくかと。――はい。はい……お任せください、時が来れば、またご連絡します」
剣のことは告げず、
「……それでは」
彼は、ペンダントから意識を外した。
ざあざあ。ざあざあ。
天幕の外に出た彼の全身に、激しい雨が叩きつけられる。
それを意に介そうともせず、彼は己の手のなかにある、白い輝きを弄んだ。
軽く伏せた瞼に映るのは、それより遥かに強い光、いや、焔。
碧の賢帝からのそれに、負けずとも劣らなかった、強いひかり。
「…………」
じ、と、彼はそれを見て。
「――――っ」
無造作に、白い剣を、己の胸に突き立てた。
――電撃が。走ったかと思った。
「……ッ!?」
ベッドにもぐりこんでしばらく、眠りがもっとも深まろうという時間。耐え切れず、がばりと起き上がる。
まるで全力疾走したかのように、心臓がどくどくと脈打っていた。
当然のように息も荒い、額をぬぐえばべっとりとした嫌な感触。
「ぐ……」
間をおかず、吐き気が襲ってきた。
とっさに口元を押さえて、嘔吐感を無理矢理に飲み込んだ。それでも衝動は止まってくれず、半ば落ちるようにしてベッドから抜け出す。
隣に眠っていた少女が目を覚ましていないことをたしかめて、音を立てぬよう戸を開けた。
ずるり、と、蛇になったような気分で部屋を出る。
身体が重い。
自分のものではないような重みを引きずって、廊下を歩き、船の外に這い出――その場にしゃがみこんだ。
おおよそ人様には聞かせられない音とともに、胃の中のものを外に出す。
もったいない、という気持ちがちらりと頭を掠めるが、嘔吐感には逆らえなかった。
ひとしきり、衝動に身を任せる。
……とうとう胃液くらいしか出なくなったころ、ようやっと、落ち着きが戻ってきた。
「――――」
はあ、と息をついて、足元を一瞥。
顔をしかめて、砂に足をめりこませながら移動、船の脇に積み上げられた荷のなかから道具を適当に見繕い、手早くその場を片付ける。
そうしてようやく、自分の姿を見下ろし、ひどく情けない表情になる。
「……うえぇ、びしょびしょ」
降りしきる雨のなか飛び出して、しばらくといわずそこにいたのだ。髪も服も身体も濡れそぼり、海坊主と間違われてもおかしくない有り様。
このままで船に戻るのはためらわれるが、戻らねば自分の身が危ない。
丈夫なほうだと自認はしてるのだが、人間、冷えれば体力をなくすし、そんな状態で、なお我慢を通せば、あっという間に風邪をひく。
今夜はもう寝れないな、と。
部屋まで行って着替えて廊下掃除する手間を考え、別の意味でげんなりとしながら、船に戻ろうと身を翻し、
「ちゃん」
「……え」
雨のなか。
傘もささずに森のほうから歩いてきた、赤い衣の占い師の声に。
――りぃん、と。
軽く響いた銀の音に。
思わず、身体を強張らせていた。
衝撃は、雷以上。
「……ッ」
せり上がってくる熱と痛みを、鮮血に換えて吐き出した。
そのまま、地面に倒れ込む。
足元の水溜りは、予想以上に大きな音をたてて彼の耳を打った。
剣を突きたてた部分から、傷ついた内臓を伝って口腔から、最初に吐き出した以上の鮮血が溢れ出す。見る間にそれは広がって、雨に紛れて色を薄らがせていった。
どくどくと、溢れ出る。
とめどなく。
留まりなく。
じくじくと、ずくずくと、悲鳴をあげる筋肉、血管、神経、細胞。
雨のため、人の気配は近くにない。周囲の天幕のなかから、時折話し声とも笑い声ともつかぬようなものが、雨音に紛れて漏れている程度。
――そんななか、ひとり。
倒れ伏すその背中に、黒と赤の何かがぞろりと蠢いた。
どくん。
「…………」
どくん。どくん。
「…………」
どくん、どくん、どくどくどくどくどく――――
……夜の闇。
雨雲に覆われた、より昏い闇に。
ほんの刹那、深紅の閃光がほとばしった。
「…………」
体温も血液も放出して、色をなくしていた指が、小さく痙攣した。
気だるげに起こした上体、肩口にかかるのは、雪にも見まがわれかねない白。そのところどころが赤黒く染まって、これが昼日中の光景であれば正視できる者が果たしていたかどうか。
だが、今は夜。
赤も黒も闇に紛れ、際立つは、その白い姿のみ。
「……」
そうして。
たった今己の胸を穿った、それでもなお白い剣を左手に持ち替え、じっと凝視して。
「これも……、だめか」
哀しげにつむがれた失望が、夜気にまぎれて雨にうたれ――
「……?」
かすかな疑問符が、呼気に混じる。
顔にかかる髪など気にも留めず、ただ、剣に視線を落とす。
――とくん
ほんの僅かに響いてくる、自分のものでない鼓動。
規則正しく繰り返す、優しい、温かい、いやさ体温さえ感じさせてくれそうな、鼓動。
さっきまでは、なかった。
感じ出したのは、今、胸を穿ってから。
「……」、
傾げた首を元に戻し、そっと、刃についた血をぬぐう。まだ固まってもおらず、雨に打たれていたそれは、一度の動作で白い剣から剥がれ落ちた。
そっか。と。呼気と唇の動きだけで、ひそやかに。
ささやいた、それは。まるで、まだ誰も見ぬ星を空に見つけた子供のよう。
「――――」
ささやく。
白い剣を抱きしめて、白い姿は蹲る。
「君の、剣」
脳裏に描くは、何も知らないくせに無責任な太鼓判を押してくれた、鮮やかな赤と翠。
自分だって名前のことで嘘ついてる、少女。
――――本当を。置いてきた、彼女の笑顔。
そっか、と。
誰にも届かぬ声が、つぶやいた。
云ってくれたね。あの日に、強く。
ここにいる。
……そうだね。
君が、いる――
「そうだね」
決意は強く。
「君の剣は、君に――」
強く、思う。
「なら……早く―――――なくちゃ――――」
この剣を、手放し難いと思ってしまった。最後まで。
届く鼓動を、感じていたいと思ってしまった。最後まで。
だから――
だから。強く、強く心に刻んで。
すでに消えてしまった白い色を、思考の隅に押しやって。緩慢な動作で、立ち上がった。