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【遠い背の残像】

- 見つけたいもの -



 時間は少し遡り、ところ変わってどこぞの砂浜。
 カイル一家の船もない、ジャキーニ一家の船もない、そもそも人気も全然ない砂浜で、はレックス相手に暴れていなかった。
 そう。暴れていないのである。
 女に二言はないなんて、どこの誰が云ったのか知らないが、そんなもの知ったことではない。
 岩に腰かけてぐすぐす泣きじゃくるの隣に腰かけ、レックスはずっと黙ったままだ。
 どれくらい、そんな時間が続いただろう。
「はい」
 すすり声が小さくなってきたの手に、レックスが、湿らせた布を渡してくれた。
「ありがとございます」
 ずー、と鼻をすすりあげて、布を目に押し当てる。
 それから、独り言めいてつぶやいた。
「バカみたいですよね」
「そんなことないよ」
 何も、はただ泣き声だけ零していたわけじゃない。
 ラトリクスへ最初に訪問したとき話してた機械兵士が今はもういないことや、今日行ったスクラップ置場での出来事を、レックスに打ち明けていたのである。
「ううん、バカだ」
 そうして人に話しているうちに、不思議と心は落ち着いていった。
 改めて己の行動を振り返り、津波のように押し寄せてきたのが自己嫌悪。連鎖反応的に狭間での出来事を思い返し、バルレルに対する申し訳なさとか不甲斐なさとかごっちゃに入り混じった感情が余計に涙を垂れ流させて、なんだか、身体中の水分を搾り取られたような気がする。
 だけども。
 あの光景だけは、思い返すたびに、痛くて辛くて心臓が絞り上げられる。

 手を伸ばしても、
 声を嗄らしても、
  届かない、遠い背中。
   ――そして、こぼれる涙。

 ねえ。あたしは、どうして泣くの?

 大事なひとを亡くした記憶だから?
 大切な家族を失った記憶だから?

 ――きっと、そうじゃないんだろう。

 泣いているうちに、思った。考えた。
 ぐしゃぐしゃの頭のなか、渦巻く感情から零れる欠片を、ひとつひとつ読み上げてみた。

 二度と逢えない両親を思っても、こんなふうにはならない。
 そうして、それは生きている死んでいるの違いじゃないはずだ。
 想ってくれていること、想ってくれていたことに差はない。
 安らげる場所に行ったのだと考えてみたら、少し落ち着いた。

 だって。
 ゼルフィルドは、振り返らなかった。
 あの日も、そして今朝の夢も。
 ――それは、未練なんてなかったということじゃないか。
 ゼルフィルドは、残してくれた。
 あたしたちでさえ覚えてない頃の、ただもう無心に笑ってた、あたしたちを。
 ねえ、それは。
 そう在れる明日を、ゼルフィルドは、信じてくれていたからじゃないか。
 そこに自分がいないこと、あのとき、もう確定させちゃってたんじゃないか。
 ……これだけは、本当に、いつか首根っこひっ捕まえて説教したいことなんだけど。

 ねえ、だから。
 そんなゼルフィルドに涙するのは、何よりゼルフィルドに失礼だ。

 ……だというのに。
 その瞬間だけが、いつまでも痛いのは、本当に、どうして?

 だけどそれは、やっぱり、情けない。
 押し込めて隠して平気なふりをするんじゃなくて、この際足蹴にしちゃうくらいの勢いで、乗り越えてかなくちゃいけないのに。そうしなくちゃ帰れないのに。
 ああもう、情けない。
 ごめんゼルフィルド、もうちょっと待って。
 あの明日に帰りたいって思ってるから。
 あなたのいない喪失がある明日だけど、そこが間違いなくあたしの帰る場所だって、あたしはちゃんと判ってるから。
 もうちょっと待ってて。
 今度あの場所に立つときには――今は見当もつかないけど――、見据えて、歩いて、帰るから。

 遠い、あなたの背中に。
 何か、ひとつ見つけられたら。
 あの一瞬も、きっと、とうといものに変えられると思うから。願うから。

「……そんなに、辛いならさ」
「はい?」
 ふと。
 の方は振り返らず、レックスが云った。彼なりの気遣いなんだろう、普段はちゃんと視線を合わせて話す人なんだから。
「忘れてしまっても……いいんじゃないかな」
 そんな優しい提案には、だから、けっして頷けない。
「いいえ」
「でも、それじゃが辛いだけじゃないか。思い出すたびに泣いて、苦しんで進めなくなって」
「……そういうんじゃないんですよ」
「え?」
 苦笑い。して、涙腺が蛇口を閉めたことに気がついた。
 洗って返します、と布をしまって、はレックスに向き直る。
「痛いのって、あの瞬間だけなんです。――他のはみんな、大事で優しい思い出ばっかり」
 共に歩いた日々も。
 敵対した日々も。
 どれもこれも、大事な日々。
「大切な家族のことを、あたし、忘れたり出来ません」
 傷つけあったわけじゃない、憎みあったなんてありえない。
 ただ、

「……あたしはまだ、あの光景を――――」

 そのとき何を告げようとしたのか、は自分でも判らない。
 自然に口が動いて紡がれようとしたことばは、不自然に途切れさせられた。

「……!?」

 ――しあわせだったんです。

 いいようのない焦燥にかられ、レックスはの肩を掴んで引き寄せた。
「へ?」
 だが、彼が憂えたような表情はそこになく、はきょとんと目をまたたかせて、唐突な行動をした相手を見上げるばかり。
「えっと……レックスさん?」
「あ。あっ、ごめん!?」
 年頃の女の子をわしづかみしていたことに気づき、レックスはわたわたと彼女を解放した。
 それだけでは足りず、ずずずっ、と数十センチばかり岩の上を動き、から距離をとり、

 ――ずしゃあっ。

 あまりにもずれすぎて空中に腰かける形になった彼は、当然のように砂浜に落下したのである。
 座っていた岩が、そう高い位置でなかったのが幸いした。鈍い衝撃以外、たいした被害もなかったから。
 それでも、尻餅だけでは足りずに身体全部を砂につけてしまったレックスを、最初、はぽかんと見下ろして、
「あはは、レックスさん何してるんですかー」
「……あ……あはははは」
 盛大な笑い声に、レックスも乾いた笑いを返す。
 彼がのそのそと身を起こす間に、も岩場から飛び下りてきた。
 軽やかな身のこなしは、単に小柄だからというだけのものじゃない。戦うために鍛えられた肉体だ。男のようにごつごつしたラインはないけれど、ちゃんと筋肉がついてるのが判る。
 ――そういえば、旧王国の剣筋だって、たしかビジュが云っていたっけ。
 先日大砲をぶちかましてくれた刺青男の顔を思い出し、そんなことを考えた。彼がに固執するのも、旧王国関係だからだ。どうして旧王国関係者が憎いのか、そこまでは知らないけれど。
「あー、混乱抜けたらすっきりしました。泣かせてくれてありがとうございます」
 レックスの目の前にぺたんと腰を落として、が笑う。
「あの機械兵士さんにも謝りに行かないといけませんね、初対面でどついたりしちゃって」
「……もう平気なの?」
「はい。唐突に機械兵士に遭遇した衝撃は、抜けました」
 信じられない、と顔に描いたレックスの問いに、はあっけらかんと頷いている。
 それをまた、信じられない気持ちで眺めるレックスを、今度は彼女のほうが疑問符浮かべて見返して……彼が何か云うより先に、苦み走った笑みをつくる。
「薄情者でしょ、あたし」
「そんなことないよ。亡くしたことは、いまだに辛いんだろ?」
「……はい」
 思い返すだけで、足が前に出なくなる。
 さっき、泣きじゃくりながらそう云っていた彼女を思い出した。そのせいで、友達に迷惑かけてしまったとも。
 そんなふうにしてたは、女の子みたいだった。
 いや、念のため補足するなら、レックスは、ちゃんと普段からを女性だと思っている。ただ、いつかピコリットが云っていたように、たくましい印象のほうが強いから、こういうふうに泣いたりするのを想像できなかっただけで。……えーと、墓穴。
 ――そういうんじゃなくて。
「でも、好き放題泣いて、ぼろぼろ頭のなかの感情仕分けて、ちょっと整理できたんですよ」
 脳裏で、誰にともなく必死な弁解を展開するレックスに、が屈託なく笑いかけた。
「そういう意味じゃ、あの機械兵士に感謝ですね。きっかけをくれましたから。あと、泣かせてくれたレックスさんや、みんなにも」
 目じりに残った涙に、悲痛なものは感じない。
「もう少ししたら、何か判る気がするんですよ。それまでは、ぐっときたら正直に泣きまくることにします」
「……そっか、うん」
 ――うん、そういうんじゃなくて……

 夢はやはり夢だったのだと、泣いてる彼女を見て、思った。

 十七だっけ十八だっけ、たしかそれくらいだって云ってた。そう、間違いなく俺より年下なんだよね、って。

 ――とおい、赤い背中を思い出す。

 ――抱いてくれた、腕を思い出す。

 そこにいたのは、夢でも天使でもない。
 そこにいたのは、ただのひとりの女の子だった。
 笑って怒って騒いで走って……泣く、女の子。

 ――覚えてるんだよ。おかあさん。

 ――俺、演技派だって云っただろ?

 そこにいたのは夢じゃない。

 夢でも幻でもない、ましてや、お母さんでもない。
 そこにいたのは、人間の女の子だった。
 小さな子供たちの描いた夢に、ほんの数日付き合ってくれたのは、肉体を持って心を持って、ちゃんとそこに生きていた人だった。

 そう。
 ここに、生きている人だった。

 ――ねえ。
 “おかあさん”。
 あなたは、今ここに生きてるあなただと――確信してしまった。

 夢でもない。
 幻でもない。

 そこにどんな幕間があろうと、どんな事情が存在しようと、断固としてこの確信だけは消えたりしないだろう。

 ――とおい昔、
 赤い夕陽に染まった背中。
 赤い血に染まった白い刃。
 赤く染まった自分たちを、抱いてくれた優しい腕。

 ――とおい昔、
 数日だけ、俺たちの傍で生きてくれたひとが、今、ここで生きている。
 俺たちと同じ、このときに生きている。

 これ以上に感謝すべきことなんて、俺は、他に見つけきれない。ありえない。

 うん。
 だから。

 おかあさんは――たしかにいたんだね。

 ああ。
 だけどこれは、秘めるべきことだ。アティのためにも。
 それでも、この確信は、きっと消えないだろうけど。

 ……おかあさんは、いる。
 やさしいゆめをくれたひとは、ここにいた。
 変わらぬ姿で。おかあさんのままで。……夢のような。ゆめのままに。

 そしてここにいるのは、

「……

 名を呼んだら、
「はい?」
 翠色の双眸は、ちゃんと自分を映し出してくれた。
 それは前からそうだったんだろうけど、今は、ただ。
 本当に、そのことが、ただただ嬉しくて。

「はい?」

「はい……?」

「だからなんなんですかー!!」
「あははははははっ、だ、うん、はやっぱりだね」
 うがー、と噴火しちゃった彼女を目の前に、レックスは砂まみれになってしまうのも構わずに、転がって笑いつづけた。
 ので。
 横切った殺気への反応が、一瞬遅れた。
「ッ!?」
 視界の端にきらめいた光から、半ば反射的に身を躱す。
「…………?」
「うふふふふふふ。レックスさんってば、あたしがちょっとつつけばささくれ立つ状態なのって判ってて笑ったんですよね?」
「……」
 うん、と云ったら笑顔で斬られそう。
 いいえ、と云ったら怒って斬られそう。
 なんだ、どっちも斬りかかられることに変わりなさそうだ。
 そう判断したレックスは、こちらも剣の柄に手をかけて、
「うん」
 と、笑顔でやりとりするほうを選んだのだった。
「そっかそうですかー」
 予想に違わず、はにっこり微笑んで、
「乙女をおちょくって爆笑するよーな男の人にはくらえ天誅ー!」
 一声叫んで、レックスめがけて突進してきたのである。

 ……数分後響いた爆音を、船にいた人々は公約どおり、背中を向けて聞かなかったことにしたそうな。
 ふたりが何気にぼろぼろで、まるで夕暮れの河原で心行くまで殴りあったアウトローなライバル同士のような輝く笑顔で戻ってくるのは、もうちょっとだけあとのこと。
 ちなみに、カイルとアティが部品とプニムと共に帰還するのも、ちょうどそれくらいのころだった。

 エネルギー不足により寝こけたという機械兵士の話を聞いて、謝りにいけなくなってしまったがしばらく落ち込んだのは、お約束というやつである。


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