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【島とは】

- 刻まれし名を -



 翌朝。
 少し用事を済ませてから行きます、機会があればレックスさんたちと話もしたいので先に行っていてください、と云うヤードに先んじてやってきた、風雷の郷はゲンジの庵にて。

「“”」
「……………………」

 …………
 ……………………

 戸を開けて顔を確かめるなり発されたゲンジの第一声に、の頭は漂白された。
 お茶とお菓子を楽しみに来てみればこの不意打ち、いったいあたしが何をした。――嘘ついてるが。
 硬直したを見て、ゲンジは、「ふん」と嬉しくもなさそうにつぶやいた。
「その顔は、当たりじゃな。――まあ、入れ」
「は……はひ……」
 半ば条件反射のようにして、のろのろと庵に上がる。
 プニムを置いてきてよかった、と、どうでもいいことが脳裏をよぎった。正確には、置いてきたというより、着いてこようとしたプニムに「静かに座ってられるならおいで」って云ったらムーンウォークで遠ざかられたのが事実なんだけど。
 土間で靴を脱ぎ、囲炉裏端を通って畳部屋を抜け、縁側へ。
 適当に座れ、とのゲンジのことばに、はぎこちなく腰かけた。
 そこに、トン、と湯のみが置かれる。
 淹れたてのお茶の香りが、つ、と鼻孔を刺激する。普段ならよろこんで手にとるところだが、今は、衝撃のほうが大きすぎた。
「しゃちほこばるな。別にとって喰おうとは思っとらんわ」
 頭ごなしに怒鳴ろうとは思ってないですか ――なんて訊いたら、即座に怒鳴られそうだ。
「先日な、ヤード殿と召喚術の話になっての」
 の隣に盆を挟んで腰かけ、ゲンジはとつとつと事の次第を教えてくれた。
「それで、ヤード殿とおぬしの契約の話になった。普通には見られぬ、珍しい契約だそうじゃな」
「は……い……」
 珍しいも何も、掟破りいいとこの契約だ。世界広し歴史長しといえど、道を横取りした奴なんてくらいしかいないんじゃなかろうか。
「ワシも年甲斐なく好奇心が出てな。その召喚石を見せて欲しいと申し出たんじゃ」
「…………」
 読めた。なるほど、そういうことか。
 がっくり、は項垂れる。
「安心せい。ヤード殿には伝えておらん」
 ありがとうございます、と云うべきなのだが身体がおっつかない。結局、小さく頭を上下させるだけに留まった。
 ああ。昨日引っかかったうちのひとつは、これだったのだ。
 そりゃそうだ。ゲンジさんは、時代こそ違えど同じ世界の出身者なんだから、召喚石に刻まれたあたしの名前、読めるに決まってるじゃないか……!
 が理解したのを察したのだろう、ゲンジはそこからの話を省略し、
「何故、偽名なんぞ使っとる?」
 ――と、華麗なる(マーンさんちの末弟ではない)右ストレートをくりだしてきた。
「……」
「答えられんか」
「……必要だからです」
 怒鳴られないのが不思議だった。だが、同時にありがたかった。
 レックスやアティ、さらにはミスミまでを恐々とさせるというこの御仁に怒鳴られては、もう洗いざらい告白するかこの場から逃走して姿を隠すかという、極端な行動に走らざるを得ないだろう。
 だから、声を荒げることなく話してくれるのはありがたい。
 怒られたくはない。それはに限らずたいていの人間が思うことだが、いくら怒られても口に出来ないことはあるのだ。
 落としていた頭を持ち上げる。
 地面から引き剥がした視線は、まっすぐにゲンジに固定した。
「……あたし、たしかにそれが本当の名前です。でも、今は“”でいなくちゃいけないんです」
「口にもせんのか。徹底しとるな」
 感心したように云われて、ぐ、とは口ごもる。
 それをどうとったのだろう。
 ふん、とひとつ鼻をならして、ゲンジは、ほんの少し目をすがめた。
「ワシはまだ、耄碌しとるつもりはないぞ。ついでに云うなら、人を見る目はあるつもりじゃ」
 おまえさんが、ここで見苦しく弁解を始めるのなら、遠慮なくたたき出すなり鬼姫に突き出すなりするつもりじゃったがな。
「……ひええ」
 思わず肩をすくめたを見るゲンジの目は、だけども優しい。
「やれやれ。おまえさん、ワシをなんじゃと思うとる」
 鬼姫ならぬ鬼教師か。
「いえ、レベルとしては閻魔様」
「はっはっは! 正直でよろしい!」
 バカ正直の頭に神は宿らず、炸裂したのは豪快な平手。
 気を取り直して口元に運ぼうとしてたお茶、飲む前で幸いだった。ぐきっと前のめりになった姿勢をどうにか戻す間も戻してからも、ゲンジは笑ったまま。
 そして、こんなことを云った。
「おまえさんを育てたのは、よほど人の出来た親御殿なのじゃろうな。愚直と云ってもいいかもしれんが」
「褒めてくれてありがとうございます、あとそのとおりです」
「はっはっは!」
 ルヴァイド様、子は親の鏡なんですね。
 思わず遠い目になったを、笑みを消し去ったゲンジが見やる。
「誰かに話したかね?」
「いえ。話したら全部パアですから」
「自分だけで抱えとるのか」
「はい」
「……重かろうな」
「――――」
 同情でもなく、さりとて揶揄でもなく。
 話して楽になれというでもなく、ただ静かにゲンジは云った。
 それで、胸が詰まった。
 ことばをなくしたを、ゲンジはちらりと横目で見て、ふ、と晴れ渡った空を見る。
「嘘はいかんと人は云う。云うが――――それでも、つかねばならん嘘もあろうて」
「……ゲンジさん……」
「おまえさんに覚悟が出来とるなら、ワシがどうこう云うこともない」
「覚悟?」
 頤をひいて、姿勢を正して、はゲンジのことばを待った。
「あくまでも嘘をついたまま行くのなら、いつかそれが暴かれるのは覚悟の上なのじゃろ?」
「騙しきるのは、不可能だと思いますか?」
「現に、ワシにばれておろう」
「でもゲンジさんは同じ世界の人だから……」
「バカモン」
 それは怒鳴り声なんかじゃない。普段と同じ語調の、どちらかというと呆れたような色合いの強い声だった。
 だけど、今さらながら思う。
 ゲンジは、ひとの叱り方を心得てる、と。
 怒鳴られることを覚悟した相手に怒鳴っても、ガードして跳ね返される。ならば静かに淡々と、構える隙間から訴えたほうが、よほど相手に届くのだ。
 ――――ルヴァイドも。そういうひとだ。
 遠い時間のひとが、一瞬、目の前の老人に重なって見えた。気質も姿も違うのに、叱り方を知ってるってその一点でそんなふうに感じるなんて、自分は相当弱ってるんだろうか。
 ……そんなことは、
「ばれる日が、来ますか」
「うむ」
 ないはずだ――
 明日は晴れますか、と。そんな程度のことを訊かれたような簡便ないらえに、は口元をほころばせた。
「そっか。ばれちゃいますか」
「ばれるだろうの。しかも、そういう瞬間というのは性質が悪いぞ。よりにもよってこんなときに、と頭を抱えたくなる時と場合を選んでばれるんじゃからの」
「それは困りますね。あたし、その名前だって認めるわけにいかないんです」
 笑いながら脅してくるゲンジに、笑って答える。
「ふん、後でどうなっても知らんぞ」
 なんて云いながら、ゲンジは、の手に茶菓子をとって乗せてくれた。手作りなんだろうか、いびつな球体の、だからこそ美味しそうなお饅頭。
「いただきます」
 両手に持ってかぶりつくと、最初に苦味の混じった皮の味。それから、みっちりと詰まった甘い餡子の味。後味が残ってるうちに、今度はお茶を飲む。
 ――遠い明日を、思う。
 場所も風景も違えど、彼らと、こんなふうにゆっくり過ごしてた日々を思う。
 またその場所に帰るためなら、嘘をつききってやろう。
 今の時間も大切だと思うけど、の帰る場所はあそこなのだから。
「最後の最後なら、ばれてもいいんですけどね」
 諦めるわけにはいかないから、嘘をつききってやろう。
「果たして、そううまくいくかな?」
 この剛情者め、と、ゲンジが笑う。
「いかせます。――もしも途中でばれたら……それは、諦めるってことになるもの」

 遠い明日の
 今ここにいる

 この嘘がこの時代で瓦解するということは、が消えることと同じ。

 ……この時代の“”に、なるつもりは、ないのだ。
 たとえ、今のこの時間を、この日々を。
 どんなに優しく得難いと思っていても、自分が自分になるために歩いた軌跡は、はるかに遠い時間の先。

 それを。途切れたままにするわけには、いかないのだ。
 まだ、あの痛みを越える方法なんて思いつかないけど。それだけは、強く思っているから。

 両手に包んだ湯のみには、濃緑のお茶。
 それに映ったの表情は、目を閉じた本人にだけ確認することが出来なかったけれど、隣に座っていたゲンジは彼女を見て、静かに目を細めていた。
「――む?」
 そこに、響く音。
 入り口の方、誰かが戸を叩いているのだ。
 トントン、トントン。一定の間を置いて、またトントン。
「ヤードさん?」
 ゲンジの衝撃的第一声からこっち、話し込んでいるうちに時間が結構経過していた。ヤードの用事がなんだったか知らないが、来訪としてはちょっと遅いくらい。
 が、ゲンジは首を横に振り、
「いや、あやつなら縁側にまわるはずじゃ」
 どれ、ちと待っておれ。と、の肩を叩いて座っているように告げ、立ち上がる。
 云われたとおりに待つことしばし、やがて玄関のほうからお声がかかった。
、おまえさんにじゃ」
「はーい?」
 これなら最初から一緒に行けばよかったか、なんて思いながらも玄関に向かった。って呼んでくれてありがとうゲンジさん。
 さっき通ったところを逆走し、玄関に到着。
 開けたままの戸から、お日様の光が入り込んでた。
 半ば逆光になったゲンジ、そして客人とやらの姿を目にして、はきょとんと目を見開く。
「イスラ? どしたの?」
 いつの間に、ひとりで外出する許可が出たんだろか。
「こんにちは、
 先日泣きはらしてたのなんて嘘のよーな爽やか笑顔で、思うところのイスラ・レディノンが立っていたのである。

 ――だから、いい加減誰か訂正してやれって。


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