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【記憶喪失な君】

- 夜に佇む者 -



 が船に戻ってきたのは、日も暮れかかった頃。
 置いてきたというイスラを迎えに行ってラトリクスに送ってきて、疲れてしまったらしい。何しろ、その間に廃坑への全力疾走と対ジルコーダ戦が挟まっていたんだから。
 ちなみに、後半は他一同も同じ。
 だからというのも変な話だが、その晩、砂浜にどーんと鎮座ました船は、いつになく早い時間から静まり返っていた。
 だが、物事には常に例外というものがつきまとう。
 今夜を例にとるならば、レックスとアティがそのものずばり、そうだった。

 女王ジルコーダと戦った日、それは証明された。
 碧の賢帝を抜くと、それまでに蓄積した疲労、負っていたはずの負傷がゼロに戻されてしまうことを。
 つまり。
 今日も、彼らは碧の賢帝を抜いたのだ。
 ジルコーダを殺し尽くすのはしのびなく、先日と同じようにメイトルパへと送還するため、ふたりはシャルトスを抜いた。
 メイトルパでも害虫扱いされているという話だが、それでも、生き物というものは、生きていくうちにそれぞれの種で住まうべき場所を見つけるらしい。
 切り立った崖、ジルコーダの顎でさえ掘りぬくことの出来ない強固な岩に囲まれた谷底こそが、メイトルパにおけるジルコーダの生息地になっているとのこと。外界と隔離されたその場所は、互いにとって平穏を守るためにこそ必要なのだろう。
 と、そのあたりは、この間ヤッファから聞いたこと。
 今日のことを護人である彼らに報告する暇はなかったが、クノンからアルディラ、アルディラから残り三人にも伝わるだろう。

 さて、話を戻そう。
 静まり返った船を、レックスとアティは出来るだけこっそりと後にした。
 各々部屋に戻る仲間を見送ったふたりは、しばらく甲板で世間話に興じていたものの、時間が経つにつれ静寂が深まっていく気がして――要するに、足元の誰かの部屋に話し声が響いてるんじゃないかと気になりだして、船を出て夜の散歩としゃれこむことにしたのである。

 船をいくらか離れてしまえば、そこは静かな夜の森。
 そうして真っ直ぐに突き抜けていけば、別の砂浜に出るはずだった。
 いかにはぐれや獣といえど、夜はやはり休む時間。森のなかを動く気配は、レックスとアティ以外、皆無。
「たまには、夜に散歩するのもいいものだよな」
 肌寒いくらいの夜気を感じながら、レックスはそうつぶやいた。
 昼間の陽気も心地好いが、今の空気もまた絶品。人のつくったよけいなものが殆どないせいだろうか、木々や草の生み出す空気や夜自体の質が、街のそれと全然違う。
 りぃ、りぃ。
 どこかで虫が鳴いている。
「かわいいね」
 それを耳にしたアティが、にっこり笑って云った。
 軽く頷くことで、レックスは同意を示す。
「昔、よく捕まえて遊んだっけ……」
「そうそう。レックスはたくさん捕まえてたのに、わたしはヘタだったんだよね」
 お姉さんなのに、悔しかったな。
「いいじゃないか。父さんが、アティの分たくさん捕まえてくれたんだから」
「ふふ、そうだったね。父さんはレックスより上手だった」
 楽しそうに笑うアティの表情が、少し陰る。
 しまった、と、レックスが口を押さえるのは、それと同時。
「だめだなあ」
 淋しそうな、だがやわらかな笑みが、アティの表情に張り付いた。
「最近、よく思い出しちゃうんです。――終わったことを振り返っても、しょうがないのにね」
「…………」
「ねえ、レックスは聞こえてる?」
「え?」
 胸に手を当て、アティは云う。
 視線はレックスに、だが、意識はどこかに。
「声。――シャルトスの声。深くにあって、深くから来るから、そこにしまってたものも一緒に零れちゃう」
 それは、抜剣するたびに。変貌するたびに。
 継承せよ、と。
 一つになれ、と。
 大きく告げる、その声が。
 自分の奥深くから、力とともに溢れ出す。
「だから思い出しちゃうのかもしれません。……思い出しちゃうんです。しあわせだった――――」
「……アティ」
「――しあわせだったんです」
 続けようとしたことばを遮られた彼女は、無理にそれを紡ごうとはしなかった。
 視線をレックスに戻すと、ゆっくり、それだけを形にする。
 そのまなざしにあるのは、同意を求める色だ。
 だが、レックスは頷かない。……頷けない。
 ただその一点において、姉と弟の抱く想いは完全に背反していると、両者ともに自覚しているからこそ。
「あれは……夢だったんだよ?」
「うん――しあわせだった」
 同じ赤い髪。
 同じ蒼い瞳。
 望むのは、皆の幸せ。
 願うのは、戦いのない日々。
 あの赤い日を経験して、あの感触を覚えているから、ふたりは一途にそれを願う。たとえ、友人に幾度罵られていたとしても。
 そんな、よく似ていると云われる姉弟だけれど。
 ただひとつのことにおいてだけ、背を向け合っている。
 誰が知ろう。誰も知るまい。

 故に、

「……俺には、よく聞こえない」

 それは、最初から決まっていたのかもしれない。

 小さく告げて、レックスは俯いた。
 胸に手を当てる。さっきまでのアティが、そうしていたように。
 だけど、何も出てきやしない。
 だって。こぼれさせたくなんてないから? それがたしかに息づくのだと、あれは夢じゃなくてゆめだったのだと――そう、もしかしたら。
 かぶりを振る。
 声だなんてアティは云うけど、最初のうちはたしかに自分にも届いていたけど、いまは、そんなもの聞こえない。
 いつからだったっけ。――判らない。
 だけど、自分には剣の声なんて、もうあんまり聞こえないのだ。
 ただ、覚えてるだけ。
 “来るべきとき、我が適格者を選別しよう”
 ――そう、あの嵐の海で告げた声を。
 聞くことがなくなったからこそだろう、鮮明に覚えてるだけ。

「アティ」

 総毛だった背中の感触を誤魔化すように、レックスは早口に問いかけた。
 幼いころから何度も繰り返し、時が経つにつれて、その頻度が減ってきた問いを口にする。
 それは、


「あれは俺たちの――」

 決して相容れない、

「……うん」

 ――答え。

 風に乗って流れてきたそれを、レックスは黙って受け止めた。


 そのまま、沈黙と静寂の相乗が舞い下りるかと思われたけれど。
「……あれ?」
 風向きが変わって、それによって、誰かの声がふたりの耳に届いた。
 話す間も動かしていたレックスたちの足は、いつの間にか、折り返し地点と決めていた別方法の砂浜が見える位置にふたりを運んでいたのである。
 そうして木々の向こうに、彼らは、自分たち以外の人影を見た。
 ――この時間帯に見かけるには、あまりにも意外な人物の存在を、そこに見たのである。
 さっきまでのやりきれぬ空気は消え去って、普段の雰囲気を取り戻した姉弟は、きょとんと顔を見合わせた。
 そう。
 あの一点さえ表に出さなければ、ふたりは、本当によく似ている。
「イスラさん」
「ですね?」
 なんで、こんなところにいるんだろう。
 首を傾げたふたりは、やがて大きく頷くと、同時に足を踏み出した。
 ――砂浜に佇むの友達に、声をかけるために。

 声は大きくなる。
 イスラは何かを囁きながら、ふたりに背を向けつづけていた。

「イスラさん」
「……!?」

 名を、呼ばれるまで。


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