舞い戻った岩場には、イスラしかいなかった。
「あれ。アズリアさん、もう帰ったの?」
「うん。あまり長々と軍を離れてもいられないって」
お待たせ、と駆け寄ったを、おかえり、と出迎えたイスラは、腰かけてた岩から立ち上がりながらそう答えた。
「……で、どうだったの?」
「どう、って?」
「ほら。記憶とか、お姉さんのこととか」
「……」
問いを聞いたあと、イスラは、至極曖昧な笑みを浮かべて首を傾げる。
困ったような、戸惑っているような。
ああ、と、それでも理解した。
取り戻しは出来なかったんだな、と。
「そっか……」
「うん。でも、いろいろ話したよ」
肩を並べて歩きながら、イスラは、が走っていったあとのことを指折り数えて話してくれる。
アズリアが姉だっていうのは、たぶん本当だろうってこと。おぼろげに覚えてる小さな頃の記憶が、彼女のそれと一致したんだそ
うだ。
記憶が戻るまでの間は、ラトリクスにいようと決めたこと。人質になる心配はないし、それならば万一体調が悪くなったときを考
えて施設の整ってるところにいたほうがいい、と、これはも聞いた案だ。
痛み分けになるにせよ、どちらかが勝つにせよ、記憶が戻る前に決着がついて島を出る日が来たら、そのときは、アズリアがちゃ
んと責任持って連れていくこと。
彼が所属してたろう軍とか、そういう話は具体的なところまでしてないらしい。
ただ、イスラはアズリアの部下って位置にいたんだってことだけ、教えてもらったんだそうだ。それで任務のために同じ船に乗っ
てて、海に投げ出された、と。
そのへんの原因が判っただけでも、イスラのみならずもスッキリ。何しろ、謎の兄ちゃんでしかなかったのだから。
「……内緒ごとが出来ちゃったね」
ふと、イスラが云った。
「まで嘘つきになっちゃうけど……ごめん」
それだけが気がかりなのだと、黒い双眸は告げていた。
「でも、アズリアさんが僕のことを考えてくれてるのは本当なんだ。……僕も、軍とか戦いとか云われてもよく判らないし、今は離
れた場所にいたほうがいいかなって思うのも本当だから……」
「別にいいんじゃない、今のままでも。あたしとイスラが黙ってればいいんだし、――その。イスラだって、軍の手引きしたりする
つもりとかはないんでしょ?」
「……。そんなの、アズリアさんがさせると思う?」
「思わない。そうだね、ごめん」
ていうか、記憶がないのに戦えってほうが無理だ。
わけ判らないうちに身体は動くは、その動きに頭がついていかなくて、混乱招くは……
しみじみと語るを見て、イスラは「なんだか、も同じこと体験したみたいだね」と笑った。それが真実を突いているとは、云った本人も思わなかったのだろう。
だから、
「うん。あたしも記憶喪失になったことあるし」
しれっとそうぬかしたを見て、目をまん丸くしたのである。
「……え?」
「だから、イスラのことはほっとけないんだよね」
まさか元ご同類が目の前にいるなんて、考えなかったに違いない。
目を真ん丸くしたイスラの視線を感じつつ、は腕組みして数度頷いた。
「イスラは、自分の昔のこと、アズリアさんから聞いた?」
「うん、少しは」
「他人ごとみたいだった?」
「――うん」
「そうだよね、うん、そうだった」
勝手に動く身体とか、理由も知らない何かの気持ちとか……みんなみんな、一歩離れた場所で起こってるみたいなのに、それを得
てるのは自分なんだっていう妙な自覚。
「記憶戻ったとき、おかしかったよ。途中で途切れてた自分が、途中からの自分と合流するの。知らないことを知っていて、忘れて
たことを初めて覚えるって、すっごく変な感じだった」
「……混乱、した?」
「した。けど、あっけなかったな、あたしの場合は」
でも、イスラもそうとは限らないよね。
「もしかしたらものすごい衝撃あるかも。覚悟してたほうがいいよー」
などと。
脅かすつもりなんてないけど、ちょっと神妙な表情になってしまったイスラを茶化すために、大仰に云ってみる。
意図が通じたか、素でそうなったのか。
ふ、と。肩口にかかる髪を揺らして、イスラは口元をほころばせた。
「記憶がない君と、戻った君は、何かが違った?」
「ぜんぜん」
ちょっと遠い目になって、問いに応じる。
「あたしはあたしだったな。結局」
記憶がない間も、勘違いしてた間も――めぐりめぐって辿り着いた結論は、はであるっていうことだった。
在り様は変わるかもしれない。
だけど、この事実だけはきっと変わらない。
「周りから見て変わったって云われたとこもあるけど、あたしはあたしだった。記憶なくても、あたしはあたし。記憶があっても、
あたしはあたし。今、ここにいるのは、他の誰でもない、あたし」
そう云い聞かせて、走りつづけて。
辿り着いた場所があったから、云いきれる。
――そう。
ではない。が、ここにいる。
それはまだ、誰にも告げられぬ真実だけれど。
それが真実であるということだけは、如何したって曲げられないのだから。
……だから。
“”であるにさえ、世界は応えてくれるのだ――
今の自分は今ここに在る自分。
そういつだって胸を張ってれば、記憶がなくたってどってことないのだよ。
――まるで先生みたいな口調で告げて、はにっこり微笑んだ。
「だから、イスラもあんまり不安にならないで……つっても無理だろうから、不安でも胸張ってることをお勧め」
意地でも見栄でもやけっぱちでも、結果は行動についてくる。
「見る人ごとで何が違っても、どんな変化があっても、イスラはイスラなんだから」
「……僕は、僕――」
「そう。ほら、地面に足をつけて仁王立ち。腰に手を添えてるともっとよし。はい、空を見る!」
「え、あ、うん」
の指示は唐突だった。
その勢いに飲まれる形で、イスラは云われるままの姿勢をとる。
――とたん。
ざあ、と、風が吹いた。
それまでのそよ風より強く、突風というほど暴力的でもない。
何かを払拭するような、それは、やわらかな、大気の鼓動だった。
「自分がどんなに空っぽだって思っても、世界はどーんと高密度でここにあるんだよ」
自分がどんなに不安定でも、世界がここにあるってことは、絶対に間違いないんだから。
「――あたしが保証する」
同じように空を見上げて、は云った。
強く。
剛く。
……そう。
それをくぐり抜けたからこそ得た、まなざしで。
彼女は、自らを抱く世界と向かい合っていた。
「今。あたしとイスラがこの場所にいるってことは事実で。このことに、間違いなんてないんだから」
否定しつづけるものごと、否定されつづけたものを。
それと知らぬまま、丸ごと、肯定して。
「……なんて、かっこつけると鳥肌が立つんだわ、これが」
直後。
は遠い目になって、自らの腕をさすりだした。
「……あのね」
脱力。
仁王立ちはどこへやら、がっくりと肩を落としたイスラを見て、が笑う声。頭上からの軽やかな声に誘われるように、彼は、落ちかけた頭を持ち直させた。
お気楽に。
脳天気に。
笑う少女が、そこにいる。
赤い髪を風にさらわれるまま、翠の双眸をゆるやかに細めて、――つよく。
強く、剛く。
彼女は、笑ってた。
あたしはここにいるよ、と。
君はここにいるよ、と。
…………信じてもいいのだと、錯覚させられた。
「――――」
息が詰まる。
それは、発作のせいなんかじゃない。
彼を蝕んでいた黒い影は、今、抑えられているのだから。
だから、これは――感情のせいだ。
湧き出て零れて溢れかえって……狭量な自分の心から零れて、身体中を侵蝕しようとしてる、感情のせいだ。
「――――」
息が詰まる。
呼吸を忘れる。
「……友達、ってさ」
「ん?」
「友達の前なら……泣いていい、のかな」
どうしてそんなことを云ったのか、自分でも判らなかった。
かろうじて呼気にかき消されずにすんだそれを、はちゃんと聞き取ってくれたらしい。
「どうぞどうぞ。不安は出しちゃうほうがあとで楽。あたしもよく泣いたー」
ヘイカモーン。
にっこり笑って彼女が広げた腕のなかに、最初は恐る恐る(消えちゃうかもしれないと思って)、触れた瞬間倒れ込むように(優
しい夢なんじゃないかと思って)、……飛び込んだ(だけど彼女の温度はそこにあった)。
「――――――――」
「ありゃ。声出さない? 出したほうがいろいろ吹っ切れるよ?」
「――――――――」
「……まあ、いいけど」
声は出なかった。
声が出せなかった。
何もかもを明かしてしまいそうで、怖かった。
秘して動く理由はひとつだけだったのに、それが崩れそうだった。……否。崩れた。
哀しませたくないから。だから、――――してしまいたいと。
最後と決めて抱いた願いは、ただ、それだけだったのに――――
「――――」
「何?」
「今日、僕がここにいたこと、忘れないでね」
「……また記憶喪失にならない限りはね」
「ひどいなあ、もう」
帰り道。
森を歩きながら、そんな他愛のない会話をした。
「いつか、僕が今日の僕じゃなくなっても……忘れないでね」
「……」
何を思ったのか、容易に想像はついた。
真っ直ぐにこちらを見上げるの眼は、励ますように微笑んでたから。
だいじょうぶ、と前置きして、彼女は告げる。
「記憶の戻ったイスラが今のイスラを忘れても、今のイスラは、ちゃんとあたしが覚えていくから」
それで、忘れたことを力いっぱいつっついて遊んでやるから。
「うん――ありがとう」
そのことばだけでいい。
このひとの記憶に、この自分が留まるなら、この自分は生きていた。
このひとの隣で生きていた。
……忘れないでね。。
ここにいた僕が、真実だから。
それが君にとって嘘になってしまっても、せめて忘れてしまわないで。
僕の本当を、ここに置いていくから――――