時間は少し遡る。
が目にしたメモを、イスラがちょうど書き終えた頃。
まだ太陽がようやく、水平線から姿を見せた時間である。
薄暗い部屋のなか、明かりもつけずに手早く身支度を整えたイスラは、ペンを置いて椅子から立った。
床で毛布に包まって、まん丸く寝ている少女――を見て、苦笑をこぼす。
「しょうがないな、もう」
よいしょ、と。
起こさないように細心の注意を払って、抱き上げる。
以前ならけっしてできなかっただろうことを思って、また苦笑した。
「ん」
「――」
腕のなかで、小さな身じろぎ。
起こしたかと思って動きを止めたけど、単なる寝言だったらしい。
「本当に、警戒心はどこに置いてきたのさ?」
くすくす小声でつぶやいて、そのまま少女をベッドに寝かせた。
見守っていると、ちょうどよい場所を探して、は何度か転がる。
しばらくして、ようやく落ち着く場所を見つけたらしく、かけてやった毛布にくるんと包まった。
まとまりなく広がった赤い髪。
ふせられてる双眸は、翠。
それは――その色彩は、なんとなく。あるものを、イスラに思い出させた。
「…………」
視界の端で、ひとつ輝き。
机の上に置いていた、ペンダント。
呼び寄せているかのような明滅に応え、イスラはから視線をはがすと、それを手にとった。
「……はい」
明滅、ひとつ。
「ええ……本日、本隊と合流します。剣の所在を確認したら、またご連絡します」
明滅、ひとつ……ふたつ。
そのたびに、イスラの脳裏に形作られる他者のことば。
ここでない場所から。闇から届く、指示。命令。
「はい。……はい。では失礼します」
それを最後に、明滅が止まる。
息をつくイスラの手で、ペンダントは彼の首にとおされた。
そう多くもない手荷物を持って、イスラは身を翻す。音を立てないように扉へ歩こうとして――ふと、眠りつづける少女に目を戻した。
方向転換。
ベッドの傍に一度戻って、ここまで近づいても起きやしない少女の髪を手にとると、指にからめる。
「……君がいたら」
つぶやきかけて、やめた。
自嘲気味な笑みをつくって、髪を手放す。
顔に落ちたそれがくすぐったいのか、また、少女は少し身じろいだ。
「…………いい旅を。」
一緒にいてくれてありがとう。
楽しかったよ。
――早朝の港に、人はまだそう多くない。
荷を積み込む水夫たち、彼らを指揮する船長らの姿が見受けられる程度。
船客が乗り込んでくるのはまだ、太陽がある程度高くなってからだ。
けれど、その一角に、やけに人の集まっている箇所があった。
出港準備をする水夫たちに混じって、なにやら統一された衣服をまとった人間たちが、周囲を警戒するように展開している。
水夫たちの指揮は船長がとっているが、統一された一団の指揮をとっている声は、女性のものだった。
「船長」
その女性の声に、
「はっ」
と、緊張気味に船長は振り返った。
彼の目に映るのは、声に違わぬ妙齢の女性の姿だ。
意志の強さをそのまま現しているような、少しきつめの双眸だが、整った顔立ちということもあって、微笑めば優しい印象を受けるだろう。
動きはきびきびと手早く、彼女の前で一切の遅れは許されないように思える。
「なんでしょうか、隊長殿」
「あとどれくらいかかりそうだ?」
一般の乗客が姿を見せる前にはこちらの準備を終わらせるつもりだが、そちらは間に合いそうか?
厳重に封をされた箱と、それを運んでいる一団を示し、隊長と呼ばれた女性は問う。
そうですな、と、船長はひとつうなずき、
「皆さんの乗られる船室は、すでに用意しております。後は、その積み込みが終わり次第乗船していただけますよ」
「……そうか」
今度は、女性が頷く。
一団を振り返り、
「聞いてのとおりだ! 手の空いている者は船に移動しておけ!」
「「はっ!!」」
応え、そこかしこからあがる声。
その声の合間を縫って、女性に近づく人物がひとり。
「姉さん」
「イスラ」
聞こえた声に、女性は振り返る。心なし、表情をやわらかくして。
「ご苦労だったな。街の様子はどうだった?」
「一昨日、昨日とひととおりまわってみたけど、不審な人間はいなかったよ。街の人間に軍がいるという話がまわっている様子もなかった。ただ――」
「ただ?」
「どの街にも付き物だとは思うけどね、裏界隈の情報屋はいた。彼らが握っているかどうかまでは、ちょっと確認出来なかったけど」
「……そうか。ご苦労だった、イスラ」
もう一度ねぎらいのことばをかけ、女性は彼の肩を叩く。
「なら、おまえの仕事はひとまず終了だ。先に船に乗っておけ、私もすぐに行く」
「判った」
軽く頷いて、イスラは身を翻した。
歩き出す前に、ちらり、と、一団の運ぶ箱を見る。
今にも船に積み込まれようとしているそれの中身を、船長も気にしてはいたのだろう。
「ときに、隊長殿。ここまで厳重に運ばれるとなると、あれは相当な代物なのでしょうかな?」
彼としては、純粋な好奇心だったのだろうが、訊いた相手がまずかった。
ふ、と口の端を持ち上げ、女性は船長に目を戻した。
「知れば、おまえは任務終了後二度と海には出られんぞ。――それでも知りたいか?」
げっ、と、船長は絶句する。
彼女とて本気でそうするつもりはないだろうが、要するに、あの箱の中身は超一級の軍事機密ということなのだろう。
それを察して、彼は問いをあっさり引き下げた。
気まずさも手伝ってか、それまでよりも大きな声で水夫達に檄を飛ばす姿を一瞥して、イスラは、姉と呼んだ女性を振り返った。
「じゃあ、僕は行くよ――姉さん、またあとでね」
「ああ。……後の手はずは、中にいるギャレオから聞いてくれ」
「判ってる」
そうして、イスラは再度、船に向かって歩き出したけれど。
「……イスラ」
その背中に、姉の呼びかけ。
「何?」
「なんだか、楽しそうね?」
重大任務で、私など緊張しているのに。
苦笑と、滅多に他人には見せない少しばかりの弱音の混じった姉のことばに、イスラは小さく笑ってみせた。
「うん……ちょっとね」
楽しいことが、あったんだ――
「そうか」
よかったな。
云いつつ彼女が浮かべた笑みは、苦みなどない、姉としての素直なもの。
けれども逆に、今度はイスラの表情に苦痛が混じる。
それは誰に判るものでもない、本人でさえも自覚できたかどうかの、小さな小さなものだったけれど。
最後にもう一度箱を見て、イスラは船に乗り込むべく歩き出した。
統一された一団――部下にてきぱき指示を出す、姉の声を背にして。
その表情には、姉に見せた笑みの残滓もなく。
ただ、無。
何の貌も浮かべていないその顔は、もしも誰かが見ていたなら、仮面のようだと例えたかもしれなかった。