それは決して大きな声じゃなかった。むしろ、今にも消えてしまいそうな、弱い儚い声だった。
だけどそれは、どんな作用が働いたのか、全員の耳に届いていた。
がぁんと頭を殴られたような、さっきロックマテリアルのかすったとき以上の衝撃が、を――ミニスやモーリンを襲う。パッフェルさえも驚いた顔で、の腕のなかの獣人の少女に目を向けていた。
「このままじゃ、ユエル、また操られちゃう……!」
そんな視線には気づかないまま、ユエルはただ、必死に、ことばをつづけた。
「また、やみんなを傷つけちゃう、殺しちゃうかもしれない! もう、ユエル、そんなコトしたくないよ!」
だから。
自分が召喚術によって喚ばれた存在である以上、この鎖から逃れえるすべがないというのなら。
「だから……殺して!!」
しぼりだすような悲痛さを伴った、それはユエルの願いだった。
――そうすることでしか、くびきから逃れられないというのなら、私が手を下してさしあげましょうか? あなたがその道を選ぶなら、ですが
――遠慮します。そうなさっても、すぐにもとの木阿弥だと思いますし。
――アタシたちなら、二度とそんなコトないように出来るって云っても?
――……皆さん……それは……
――そう、それは……
――……よしましょう。それ以上仰るのであれば、わたしはわたしの務めを果たします。
――……そうですか。
――そうです。結局、わたしは――
傷の痛みだけではない何かが、ツキンと軽く、頭をうずかせた。
それは遠い記憶。今ではない記憶。
優しく儚い、泣きたくなるほど懐かしい、哀しい想いと。
意識の表層に上る前に、糸の切れた凧のように、また沈み込んでしまったせいで、はっきりとは判らなかった。
けれど、この刹那、感じた痛みは本物。
けれど、ちがう。
だから、ちがう。
あたしは――『ちがう』。
がんばろうって決めた。みんなで幸せになろうって決めた。
そうしてみせるって、あたしは決めたんだ。
そのなかにはユエルのコトだって、当然入ってるんだから。こんなふうな終わり方を選ばせるようなコトには、絶対しない。
たとえユエルがそう望んだとしても。そんなの本当の救いじゃない。
――しあわせっていうのは、生きてこそ、でしょう
最後に微笑んで告げた、誰かのことばは、春風のように過ぎて消えた。
頭の隅に残った残滓を払い、は青い瞳を覗きこんだ。
「ユエル」
「……?」
どうしたのと。早く殺してと。
必死で鎖に抗しながら、無言で訴えるユエルの目の奥深く、それでも生きていきたいと。望む気持ちはたしかにある。
そしてその気持ちを断罪し、傷ついている心もたしかにある。
どちらをとるのか。答えはひとつ。
「あたしはユエルを助けたい」
「でも、……ユエルは逃げられないよ。生きてても、絶対また、誰かを傷つけるよ……ッ!!」
「でも」
ユエルと同じ接続詞からはじめて、
「絶対に、助けたいんだ」
ユエルと反対のことばで続けた。
助けてみせるから。だから。
――おまえがそれを選ぶなら、俺はいくらでも、そのために手を貸してやる。
不意に、そのことばを思い出す。
いつか誰かが云ってくれたことばだ。
強い意志と優しいまなざしでもって、に告げてくれたことばだ。
そうだ。
望みをかなえるための手伝いは、そのまなざしの人にだけ出来ることじゃない。
誰だって。誰しもが。望むなら。
「ユエルがそう望んでくれるなら」
いくらだって、いつだって。
あなたが望むことを諦めないでいてくれるなら。
あたしは、
「ユエルを助けたい」
だから聞かせて。あなたの気持ち。
あなたが本当に望んでいること。
あなたの願いをあたしたちに教えて。
「……形にして。云ってみて。ユエル、あなたがどうしたいのか」
生と死と。
どちらが本当に、あなたを助けることになるのか。
「…………」
ガクガクと震えていたユエルの身体が、ぴたり、その動きを止めた。
を見て。ミニスを見て。モーリンを見て。
それから自分が傷つけてしまったおばさんを、悲痛なまなざしで見た。
は、口を閉ざして彼女を見守る。
ユエル。知らぬ間に、誰かを殺した召喚獣。
それは、罪というなら罪だろう。傷つけてしまったことは事実、そしてそれは消えることなく在りつづける。
でも。
それを認めて受け入れて、そのうえで、押しつぶされずに歩きだそうと願うなら。
いくらだって、いつだって。
あなたがそれを望むなら、みんな、そのために手を貸してあげるコトが出来るんだよ?
――そうして。
きつく歯を食いしばっていた、ユエルの口が。ゆっくりと開かれた。
「……助け……て……」
ことばにした瞬間、ユエルのなかで何かがはじけたように。目が生気を取り戻す。
ひたすらに呪縛に抗していた瞳に、一条の光が走る。
罪への贖いと生への渇望と。
そうだ、ユエルは、
――死にたくない!
「……助けて……ッ!!」
ユエルはユエルでいたい。ユエルとして生きていきたい。
邪魔をしないで。
ユエルをなくさないで。
あの男が何かをつぶやきつづけるたびに、だんだんと強くなっていく鎖が、意識をからめとって行くのが判った。
『また』云い知れない衝動が、身体中を駆け巡る。
「――ヤ、だ」
イヤだ。
ユエルの心をとらないで。ユエルの決める権利を奪わないで。
もうイヤ。
誰も傷つけたくない。誰も殺したくない。
ユエルを受け入れてくれたや、ペンダントのコトを許してくれたミニス、この街に置いてくれるようにしてくれたモーリン。優しいおじさんとおばさん。それから、の仲間なんだろう人も。
大切な人たちに、あんなひどいコトしたくない――!!
「……だいじょうぶ」
嵐のように荒れ狂う、自分の衝動。縛り付けてくる鎖。どうしようもなく絶望だけが支配しかけたユエルの、だけど、その傍に。
まっすぐにこちらを見て、笑ってくれる夜色の瞳が在った。
「きっと勝てる。ユエルはユエルのままでいれる。だからきっと、もう少し」
――がんばろう。
まっすぐに云ってくれる、そのことばに。
安心――してしまった。
……ドクン
呪文の最後の一節をつむいだ男が、満足げな笑みを浮かべるのが視界の端に映った。
「フウウゥゥゥゥゥッ……!?」
全身バネのようにして、の腕の中から飛び出そうとしたユエルを、がばりと全身で押さえ込む。
「さん! そのままユエルさんをおさえておいてください!!」
あちらは私が!
とユエルが話している間にも、次々と黒装束を倒していたパッフェルが叫ぶ。彼女の手は、今ようやく空いたらしかった。
最後のひとりを地面に叩きつけ、オレンジ色の服着たメイドさんは、すさまじい勢いで身体を反転させると、一気に男へと向かう。
「させるか! いでよゲルニ……!?」
「シルヴァーナ! その調子!!」
小声で唱えていた、ミニスの召喚術が、このときようやく発動していた。
羽ばたきだけでも立っていられないほどの風を巻き起こし、銀のワイバーンがミニスの傍に現れている。
なるほど考えたものだ。
シルヴァーナの火球はたしかに一撃でそのへんを丸焦げにしてしまうほどの威力だけれど、召喚術の邪魔をするだけならあの風で充分。
その目論みどおり、ぐらりとカラウスの身体がかしぐ。
だから召喚師だって今日び体力が必要だとゆーのだ。
「くそッ!? ユエル! そんな腕など振り払ってしまえ!!」
向かってくるパッフェルへの盾を欲してか、カラウスがひきつった顔で叫んだ。
――だけど。
はゆっくりと微笑んでみせる。
カラウスに向けては、不敵な笑みを。それから、ユエルに向けては優しい笑みを。
ユエルが、荒い息をつきながら。それでもにっこりと、に微笑み返した。
己にとってはありえるはずのなかった光景に、男が目を丸くすると同時、
「覚悟なさいませッ!」
「くッ!?」
ピンクのエプロンたなびかせ、パッフェルがそこへ肉迫する――
ボシュッ!
刹那、男がなにやら仕草をした。単純な呪文と動作。
そのとたん、何やら妙な色をした煙が、彼を中心に巻き起こる。
それは見る間に彼らのいる一帯を覆ってしまい、男どころかパッフェルの姿さえ見えなくなってしまった。
そうして感じたのは、こちらから遠ざかるひとつの気配。
「パッフェルさん!?」
「カラウスらのコトはお任せください! ご心配なくっ!!」
そして、それを追って同じように場を離れるもうひとつの気配。
ばさり。
シルヴァーナが、より大きく羽ばたいた。巻き起こされた風が、煙をあっという間に薙いでいく。
――もちろん、そこにはもう、男の姿も、男をカラウスと呼んだパッフェルの姿も……当然のように、黒装束たちの姿もなかった。動ける者は皆逃げたのか、打ち伏された数名が倒れているだけ。
それをただ、見ていたの腕に、控えめに重みがかかる。
「……ユエル」
気力も体力も使い果たして、今にも気を失ってしまいそうだけれど、を見上げるユエルの表情は、満たされていた。
「……は」、
嬉しそうに、彼女は微笑んだ。
「ウソつきじゃなかったね……ユエルのコト、助けてくれたね」
「……もちろん!」
くしゃっ、とユエルの髪をかき乱して、もまた、笑ってみせた。
ミニスが、シルヴァーナに礼を云って、メイトルパに送還しているその横で、ストラに集中していたモーリンが、ふぅっと息をついて、おばさんにかざしていた手を退かした。
予想外に時間がかかっちまったね、と、モーリンは照れたように笑う。
「出血が派手な割に、傷自体は浅かったんだけどね。あたいも混乱してたから、集中に手間取ったけど」
もうだいじょうぶだよ。
自信まんまんに告げられた、そのことばに。
やユエルだけでなく、おばさんの旦那さんである、おじさんの顔もほっとしたものになる。
全員が沈黙をもって見守るなか、気を失っていたおばさんが、ゆっくりと目を開けた。
「う、ぅん……?」
「おまえ、無事だったか」
「あんた……」
ほっとした様子のおじさんのことばに、心ココにあらずの態でおばさんが起き上がる。
それを見て、どうやら後遺症もなさそうだというコトに、ユエルがおじさん以上にほっとした顔をした。
「おばさん……」
良かった、と、続けようとしたんだろうか。
安堵したユエルの声は、けれど、
「ひっ!?」
声を聞いて。視線を動かし。
そしてユエルの姿を認めたおばさんの、恐怖に侵蝕された悲鳴でかき消される。
「……おばさん……?」
ごめんなさいと。
それだけを云いたいのに。
どうして、おばさんは、ユエルが近づくとその分後ずさるの?
謝りたいのに。それだけなのに。
「ば……化け物っ! こないでおくれっ!!」
どうして。そんなふうに云われるの?
それは、拒絶するための、拒絶のことばだ。
恐怖に歪んだおばさんの表情と、何より、声に含まれている感情が。雄弁にそれを物語る。
「おばさん、この子は……!」
「ひいいっ!!?」
呆然と。ことばもなくして立ち尽くすユエルの代わりに、は前に出た。
だが、化け物の仲間は化け物だとでも云いたいのか、が近づいてもおばさんは逃げる。
おじさんは、そこまで露骨にではないとはいえ、それでも、ユエルを見る表情は厳しかった。
「……ちょいと……!」
ユエルが謝るまでは黙っているつもりだったらしいモーリンが、さすがに見かねたのか、声を荒げた。
だけど、
「……いいよ」
まだ呆然とした表情のまま、ユエルがモーリンの前に出た。背中側にいるおばさんたちに、一度だけ視線を向けて。
「……ユエルが悪いんだ……だから、いいよ……」
「だけど! それはあのカラウスってヤツが!」
ミニスのことばにも、ユエルは首を左右に振るだけ。
うつむいた彼女の足元に、ぽたぽたと、透明な雫が染みを作った。
「いいの……」
ユエルは繰り返す。
「また、前みたいに戻るだけ……ユエル、慣れてるから……いいよ」
「ユエル……」
独りぼっちに?
ゼラムで逢ったときのように。ファナンで追いかけられていたときのように。
独りに。また。
だけど自分たちは知ってる。
己に向けて伸ばされる、あたたかい手。微笑みかけてくれる、優しいまなざし。一度知ってしまったそれを、手放すときにどれだけの痛みを伴うか。
拒絶されるコトがどれだけ辛いか知らないけど、知ってしまったあたたかさを失う痛みの想像は出来る。
ミニスとモーリンを見た。
おばさんたちはいつの間にか去ってしまっていて、この場に残っているのはパッフェルが倒した黒装束たちと、自分たちだけ。
ミニスとモーリンが見た。
3人で顔を見合わせて、この場にはいない、見聞の旅の主役である蒼の派閥の兄妹のコトを考えた。
そしてうなずいて。
「ユエル」
青い髪と青い目の、少女を呼んだ。
「……あたしたちと一緒に行こう」
あなたの牙も爪も知ってる。
抱えた痛みも、知らずとはいえ犯してきた罪も知ってる。
それでも。
一緒に行こうよ。ユエル。