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第15夜 四
lll 絶望に染まるとき lll



 またたきひとつ、するかしないかの刹那。
 リゴールの肌の色が鈍鉄色に変じ、ありえない場所が異音を立てて盛り上がる。目にはすでにさきほどまでの正気の欠片さえなく、口から飛び出たのは鋭い牙。
 正視したくもないような光景を目の当たりにし、一瞬、思考が止まりさえした。
「…………なっ…………!?」
 呆然と、豹変したリゴールを見上げるだけの一同の中、真っ先に事態を理解したカイナが声を張り上げる。
「鬼神憑依――貴方、この方に邪鬼を憑かせましたね!?」
「いかにもいかにも。ワタクシは鬼神使いでして」
 悠然と答えるキュラー。その横に立ち、明らかにこちらを敵として定めて剣を握るリゴール。
 そして。
「避けろ!!」
 緊迫したフォルテの叫びに、判らないまま、その場を飛び退く。
 ガツッ、と、刃物が床に食い込む鈍い音。
 バランスを崩しかけた身体を立て直し振り返れば、傍に立ち並んでいた兵たちが、各々の武器を構えてこちらに相対している姿。
「人の心は脆いもの……」
 キュラーの声が、静まり返った謁見の間に響く。
「トライドラに住む者のことごとくが、ワタクシがきっかけを与えるだけで、簡単に鬼へと変じましたよ」
 笑い声が響く。
「クククククッ……じつに愉快ですなあ!」
 トライドラに住む者。そのことごとく。つまり――兵士たちもだ。彼らもまた、リゴールと同じ、異形に変じていた。
 それだけではない。キュラーのことばに間違いがないなら、トライドラに住んでいた、ただの人たちもすべて――
「存分に恐怖なさい思いきり苦しみなさい……それが貴公らの心にも鬼を招くでしょう」
 背中に忍び寄った冷たい感情を見透かしたかのような、キュラーのことばに喉元がひくりと痙攣した。

「クククク……」
 キュラーが嗤う。
「いざや、ゆるりと鬼になれい!!」

 ――いつかの炎の夜を地獄と云うなら、ここのところ立て続けに見るこんな光景は、いっそ悪夢だ。

 そんな場合ではないと判っていたけど、眩暈を覚えて頭を押さえる。
 信じたくなどないし認めたくなどないけれど、目の前のこれは現実なのだと自分に云い聞かせるために。
 より先に現実を直視できた数人はすでに、襲いかかる兵士たちと対峙していた。
 ……ちょっとその神経分けてください。
 などと無茶なコトを考えて、気をまぎらして立ち上がる。
 そして、視界に入ったシャムロックの姿に、は表情を険しいものへ変えた。


 理解しなければいけない。判ってはいる。
 けれど納得できない。出来るはずがあろうか。
 己の主君が、同輩が。異形と化し、敵の駒に成り下がり――あまつさえ、自分たちに剣を向けてくるなど。
 ついこの間帰国したときに、笑って肩を叩き合った者がいる。
 いつか、戦地で肩を並べ、敵を迎え撃った者がいる。
 信じていたもの。守るべき主君。異形と化した彼ら。
 その存在を、事実を。目に映るそれは、たしかに現実のものだというのに、まるで薄皮一枚被った先の幻のように。
 幻であってほしいと。
「……嘘だ…………」
 自覚さえ出来ずにこぼれおちる、否定のことば。逃げてしまいたい心の表れ。
 心のなかにそんな部分があったことにまた、動揺が大きくなる。
 戦っているフォルテたちが見える。動かなければと思うのに、加勢せねばと思うのに、縛り付けられたように身体が動かない。
「……嘘だっ…………!!」
 そう繰り返すことで、目の前の光景すべてが霧と霞と消えるように。消えてしまえと云うように。
 霞の向こうに、自分に向けて振りかぶられた、同胞の剣が見えた。
 反応しなければいけない。幻であってほしい。――幻。幻に反応する必要があるのか?
 消えてしまえ。幻なら。すべて。この光景、この現実。
 いっそ自分さえも幻か。そうならばもう、消えてしまえと――

 ドカッ! ばしっ!!

「…………お…………」

 解説。
 シャムロックに向けて突っ込んで行く敵を、背後からぶった切ったフォルテより一瞬だけ先に、がシャムロックを突き飛ばした音が、『ドカッ』
 その後、なおも呆然としたままのシャムロックの頬を、が思いっきりひっぱたいた音が『ばしっ』
 呆気にとられたフォルテの声が「……お……」
 最後のは余計か。

 最初の行動はとにかくとして、次の行動にはさすがのフォルテも度肝を抜かれた。
 自分がしようと思っていたコトではあったから、がそうしたということがより驚きを大きくしていたのだが。
 あっけにとられたフォルテの目の前で、の叱咤がシャムロックに向けて飛ぶ。

「しっかりしなさいっ! 目の前の現実から目を背けたトコロで何も変わるわけないでしょっ!!」


「あ……?」
 何を云われたのか。目の前の彼女は何を云っているのか。
 判らないまま、まだ我を忘れたまま。シャムロックはを見上げている。
「人間なんて基本的に目に見えるものしか見ないんだから、それさえ信じなくてどうするの?」
 それを云っちゃあ身も蓋もない、と、今何人がそう思ったのやら。
 もちろんは人様の心の声が聞こえるなんて特殊能力は持ってないので、シャムロックに向き合ったまま。
「……認めて」
 気持ち、強い口調で。強く、強く。
 そうでなければ、相手の心には届かないと思ったから。
 揺れ動いているシャムロックの目を、自分に固定させるように、覗きこんで。
 強く。
「領主様は鬼になったの。そういうふうにしたのは、アイツ――目の前のキュラーなんだよ!!」
 届け。
 目を覚ませ。

 貴方は。この状況に呆然としているよりも、なさねばならぬことがある。
 一番に、誰よりも。
 先に、貴方は誰よりも。強く、怒らなければならないはずだ。

 だから。逃げないで。目を覚ませ。

「認めなさい!! 怒りなさい!! それが出来るのは、それをしていいのは、あなたしかいないんだから!!」

 虚空を見たままだったシャムロックの瞳に、ぽつり。明かりがともったのを、フォルテは見た。
 強いことば。のことば。
 いつかネスティもそう思ったコトを、フォルテもまた、思う。
 心に届くことばだ。真っ直ぐ、真摯な――言霊。
「……さん……」
 先刻とは、違うシャムロックの声音。生気の、意志の戻った声。
 戸惑ったような響きは残っていたけれど、それでも。今の目の前を見据える力を取り戻したのが判る。
 あと一息。
 背中を叩くように。
の云うとおりだぜ、シャムロック。おまえがふぬけててどーすんだよ!」
「フォルテ、さま……」
 また敬称を付けて呼ばれたコトに気づいたフォルテは、心のなかで舌打ちする。が、幸い戦闘に集中している他の人間には、届かなかったらしい。
「行くぜ、シャムロック!」
「はい!!」
 目に、強い光を取り戻したシャムロックを一瞥し、ちらりとに視線を移した。
 満足そうに笑っている彼女と目を合わせ、片目を閉じてウインクしてみせる。
 ありがとうな。
 一瞬きょとんとしたが、フォルテの伝えたいコトが判ったのか、笑みを深くして首を横に振って見せた。
 気にしないで。
「……だいじょうぶ!」
 たったひとこと、そう云って。もまた、マグナたちの加勢に向かう。
 フォルテはその背中を見送って、それから、傍で剣を振るうシャムロックに云った。

「どうだ? 俺の仲間は」
 たいしたもんだろ?

 答えは、キュラーに対する怒りで空気さえも染め上げているシャムロックが、口の端だけを持ち上げて見せた、かすかな笑み。


 気づいているのだろうか、あの少女は。
 鬼に変じた兵士たちが、唯一、彼女だけを狙っていないということを。
 だけど、自身が兵士たちに向かって行くのであれば、迎え撃たざるを得ない。だから多分、気づいてはいまい。
「……それでもなお、貴方は、あの者をこやつらに預けておくと仰るのですか」
 鬼の憑いた兵士たちを殆ど打ちのめし、キュラーの方へ向かってくる一団のなかにいる、ひとりの少女を視界に捕らえてキュラーはつぶやく。
 場を占める怒りと敵意に、そのつぶやきはあっさり溶け消えたけれど。
 やれやれ……というのが正直なトコロ。
 このまま連れ帰ってしまって、記憶など自分たちの手で取り戻させてしまえば良いのではないかと思う。
 ビーニャもローウェン砦でそうしようとしたらしいが、その話を聞いた彼の主は、にっこり笑ってこう云った。

「他者の介入によってよみがえる記憶は、実感が伴わないことも多々ありますし。それだと記憶と思い出が分離してしまいかねませんから、好きではないのですよ」

 それに私が欲しているのは、さんとしての16年間だけではないこと……判っているでしょう?

 封じた記憶。
 封じられた力。
 そうしたのはあの娘。そうさせたのは我が主。
 故に。彼女自身がそうと望まぬ以上、けっして開かぬ扉が、その魂には存在する。
 かの娘は、守るべきものに縛りつけられた囚われ人。
 調律者と天使アルミネと融機人が互いを互いで縛り上げ、動けぬ永久の鎖縛を築いたそれと同じように?

 界と界。いやさ輪廻の狭間に在った彼女と邂逅を果たした悪魔は、次の出逢いのときに、その魂の在り様を知り。そして――


 鏡像が壊されたとき。真実なる者は、すでにこの世界へと招かれていた。


 そのときからもう、すべての物語の幕は開いていたのだろうか。
 否……彼女が選ばれたときから。それは。物語は、

 ――はじまりのはじまりは、いつだったのか――

「覚悟ッ!!」

 すぐ間近で響く騎士の声が、キュラーの意識を、思考の海から現実に呼び戻した。
 考えに耽っていた時間は十数秒にも満たなかったが、それは、彼らの接近を許すには充分な時間だった。
 見れば、兵士たちはすでにことごとく打ち伏しており、リゴールさえ無力化されている。
 だが。
「ほう、なかなか良い太刀ですな」
 こちらが戯れてやっていることに気づきもしない相手の剣など、避けるのは容易なこと。
 揶揄するような調子で云ってのけ、キュラーは軽く身をひねるだけでシャムロックの斬撃から身をかわしてみせる。
 そうして、召喚術でもってトライドラの騎士を吹き飛ばそうとした刹那。
 ふと。少し離れた場所に感じる、馴染んだ気配の出現。
 意図を悟り、これ以上の遊びごとは自戒した。その代わりに、大きく地を蹴って彼らから距離をとる。
 それが、戦意を失ったように見えたのか、目の前のニンゲンたちもまた、各々の武器を構えたままだが、それ以上の深追いをしようとしない。
 まったくもって……甘い。

「キュラー! 今すぐ領主様やトライドラの人たちを元に戻しなさいッ!!」

 トリスのことばが、場に響く。


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