さすがにここまでくれば感じるのか、禁忌の森で音を聞いた全員が、耳に手をやり顔をしかめる。
「何……このヤな感じ……!?」
「あの森で感じた音に似てる……」
口々に云うのは、の感じていたコトと同じコト。
だけど、あのときと違うのは、
「……イヤ……何これ、気持ち悪いっ……」
禁忌の森のときには唯一平然としていたアメルが、今回は不快な影響を受けている。
あのときの音は共鳴だった。今の音は不協和音。
「これは邪気です……! 皆さん気をしっかり持ってください!!」
シルターンの巫女であるカイナがそう云って、手にした祭具で何かを祓うような仕草をする。同時に、音から感じる不快感が少し緩和されて。
同時に、音に支配されかけていた周囲への感覚が復活する。
そうなったコトで、ようやく感じ取れた。
何故砦の中から出てきた兵士が、獣に食いちぎられたような傷を負っていたのか。
この邪気のもとに魔獣が在るというのなら、邪気が発されているのはまぎれもなく、
「これは……この邪気、砦の中から……?」
さすが姉妹というべきか、誰よりも先に、邪気の発されているだろう源を発見したのはケイナだった。
「あそこだっ!!」
同時にモーリンが指差した先へ、全員が目を転じる。
砦に立てこもっているトライドラの兵士たちがやまなりになって決闘の行方を眺めていたはずの、その場所。
ローウェン砦のもっとも高い場所。
もはやそこには生者の気配はなく――強いて云うならただひとり。
幾匹もの、返り血にその身を赤く染めた魔獣を従えた、ひとりの少女が立つだけになっていた。
おそらくは兵士たちの死体が積み重なっているだろうその場所に在って、何が楽しいのか、彼女は、口の端をきゅぅっと吊り上げる。
そうしておいて、その少女は声を発した。
「キャハハハハハっ!」
まず聞こえたそれは、笑い声。彼女の表情に相応しく、甲高く、楽しげな声。
「ねェねェ、いつまで遊んでるつもりなのォ、ルヴァイドちゃ〜ん?」
「な……ッ!?」
この場にはいないはずの存在の声を聞き、ルヴァイドの注意がそれる。
それまで己の周囲にのみ払っていた意識をたぐり寄せれば、いつの間に――死の気配。血のにおい。死臭。
それは明らかに隙であり、そこに付け込むことさえ、もしかしたら出来たかもしれないだろうが――シャムロックもまた、あたりの惨状に呆然とした表情を隠せずに立ち尽くしている。
倒れている無数の兵士たち。
それらはすべて、ローウェン砦の――トライドラの兵士のみで構成されていたのだ。
「……ビーニャ!?」
視線をめぐらせ、声の主を見つけた。
意図すら出来ずに、相手の名前がこぼれる。
予想さえしていなかった現実に、思考が一瞬凍りつく。
「なにをしている! 貴様には、本隊と共に待機を命じたはず!!」
次の刹那には、怒号を発していた。
だが、そんなものはビーニャにとって、そよ風程度の効果さえ感じないらしい。
「だーってェ……ルヴァイドちゃんがあんまり待たせるんだものォ……」
仕草だけはあくまでも可愛らしく、けれどその笑みは凄惨な光景に愉悦さえ覚えているのか、すさまじいまでに恍惚としていた。
「だからァ……ほォらっ!」
ビーニャが腕を振る。
傍に控えていた魔獣が一匹、ひらりと地面に飛び下りてきた。
すぐ傍にいるのは、惨状への恐怖にだろうか固まっているトライドラの兵士……!
「ひっ……!!」
表情を絶望に染め、兵士は身をひるがえす。
だが。
「ギャオオオオオオッ!!」
「ひっ、ひぎゃあああ!」
魔獣の咆哮と同時、耳にしたくない生々しい音が、絶叫が、その空間に再び響いた。
ビーニャと呼ばれた少女の口が、その悲鳴を聞いて、その光景を見て、さらに吊りあがる。
瞳に浮かぶは喜悦のイロ。
「手伝ってあげたよっ? キャハハハハハッ! ほめて、ほめてェ――なぁんてねェッ!」
笑っているのに、背筋が凍るほどの寒気。あの眼を自分に向けられたとき、正面から覗きこんだとき、果たして正気を保つコトが出来るのか。
「馬鹿な……勝手なことをッ!」
イオスが叫んでいるのが聞こえた。
さきほどのルヴァイドのことばと云い、ビーニャが出てくるのは予想外だったのだろうか。
けれど。
シャムロックから見れば。
また、こちらから見れば。
ビーニャと黒騎士は同じ軍隊に属している間柄であろうと、容易に想像が出来るもので――
「…………約束が違うぞ…………ルヴァイド…………?」
さっきのフォルテの唸り、いやそれ以上に重く、強いシャムロックのことばが響く。
「………………」
だが、ルヴァイドは応えない。
――どうして。
どうして違うと云わないのだろう。
ルヴァイドは、『何故』と云った。ビーニャという因子は、彼のなかではこの場に出てくる予定でなかったのだろうに。
イオスのことば。勝手な行動をしたのはビーニャだろうに。
どうして黙るの?
それではすべての非が自分にあるのだと云っているようなものだろうに。
すべてを、総指揮官という立場にある、自分の責にしてしまうつもりなのか、ルヴァイドは。
「……ジーザス」
顔をゆがめて、レナードがうなる。
ことばの意味は判らないまでも、それが、ここにいる全員の感情を表しているのは感じ取れた。
「……許せない……あんな……!」
トリスが、マグナの腕をぎゅっと握る。
マグナも、握り返した。
許せない。許せない。
人の命をまるで紙クズのようにしか感じていない、あの、ビーニャ。
ルヴァイドを信じているわけではない。あの炎の夜の記憶はきっと、焼き付けられたまま消えるコトはないから。
だけど。
湿原で約束を守ったコト、シャムロックと相対していたときの、堂々とした風情。
カザミネのことばを借りるなら、尋常に。騎士として決闘に望んだろうと思うから。
「……許せない……」
重苦しい空気がたしかに生まれているというのに、ビーニャは気になりもしないのか、ますます笑いをエスカレートさせていく。
「キャハハハッ! みィんな、アタシの魔獣が食べちゃうよォ。キャハハハハッ!!」
「ルヴァイドォォォォォォォォォッ!!」
怒りに空気さえもくらませて、シャムロックがルヴァイドに向かっていく。
けれど。
その横から、回り込んだ魔獣がいることに、彼は気がついていない。
このまま突っ込めば、間違いなく――
「シャムロック!!」
「!?」
止める間もなく走り出したフォルテが、シャムロックの腕をつかんだ。
さすがにこれ以上隠れたままでいるわけにもいかず、一行も砦の陰から姿を見せ、急いでシャムロックとフォルテのもとに走る。
ふたりだけを孤立させておいては、魔獣たちのいい餌だ。
横から突っ込んでこようとしていた魔獣は、不意の乱入者に驚いてか、幸い、その場で足を止めていた。
「あなたは……」
不意の、知己の出現に、シャムロックの表情から張り詰めた殺意が消えた。
フォルテもようやく、いつもの自分を思い出したらしい。表情は厳しいけれど、シャムロックに軽く頷いてみせている。
「いずれにしろ、この勝負は無効ってこった。来いよ」
「……え?」
唐突な誘いに、シャムロックは目を白黒させていたけれど、
「俺も手伝うよ。あいつのしたこと、絶対に許せない!」
追いついたマグナのことばに意図を察して、キッ、と魔獣たちを見た。
「……判りました! 皆さんの力を私に貸してください!!」
誰に、否やのあろうはずもなく。
戦いの舞台は、ルヴァイドとシャムロックの一騎打ちから、魔獣との混戦に移る。
「げっ!」
そのつぶやきは、幸い、傍にいた魔獣たちにしか聞こえなかったけど。
「……サイアクぅ」
ついさっきまで浮かべていた笑みを消し去って、ビーニャはぼそりとつぶやいた。
そうして、砦の陰から走り出てきたニンゲンたちにけしかけようとした魔獣を止める。
だって。あの子がいたのだ。
彼女の主が何よりも求めてやまない、あの子。あの魂の持ち主。
縛り付けられたまま、それを許容してなお微笑んで。輪廻の終着点で、鮮やかに生きていた魂。
あらゆる生き物の辿り着く場所に在る故か、それとも魂の在り様故か、悪魔である自分たちでさえ惹きつけてやまなかった、あの子。
――もうイヤだよ?
アタシ、壊すのは好きだけど、アナタの壊れるトコロは二度とは見たくないんだよ――
「……ちゃん」
その器も含めて、アタシのお気に入りの彼女。
「まあ。それはそれとしてェ」
性分なのかなんなのか。ただ、これ以上深く考えたくはないことだからか。ビーニャは、とっとと気分を切り替える。
「今日は聖女捕獲にカンケーないから、大暴れしてやろぉと思ったのにぃっ……」
しばしの思考。
自分のなかにある破壊衝動は、どーしてもこの場で発散してしまいたい。けど、あの子は傷つけたくない。
……と、なれば。
「アンタたち。あの子だけはダメよ? もし壊しちゃったりしたら、アタシ直々に壊してアゲル」
幸い、あの一行は聖女を戦いに引っ張り出す気はないらしく、後ろに下がらせている。戦いの余波が届き難い位置に、数名とともに待機しているようだ。
ならば、他のニンゲンを皆殺しにしたあとででも、一気呵成に捕獲してしまえばいい。
それでもって、残ったのがひとりであっても、個人で聖女を守りきれるはずはない。抑えつけてしまえばこっちのもの。
怯えか服従か、魔獣は一斉に同意らしき仕草をビーニャに示してみせた。
それに気分を良くして、ビーニャは再び、こちらへ向かってくる一団に向き直る。
クスリ、笑いが蘇る。
あの子のコトがなければ、あとはおもちゃがあるばかり。
……イイ感じ。
「いいよォ、アンタたちは遊びにおいで……アタシのおもちゃにしてあげる。壊れるまで遊んであげるよォ。キャハハハッ!!」
自分の目を疑った。
いるはずのない、いるわけのない少女の姿。この場ではっきり目にしたというのに、それを、イオスは信じられないでいた。
「……」
昔と同じように。
力に自信はないからと、長剣と短剣を共に鍛錬しながら、実戦では後者を愛用していたあの頃と同じように。
腰に携えた剣を抜き放ちながら、彼女は彼女の仲間とともに、魔獣たちに向かって行く。
――悔しかった、何故か、とても。
あの子の傍に自分がいないことが、血煙のさなかに飛び込むあの子に、なんら手を貸せぬ自分が。ただ、悔しかった。
「ゼルフィルド! イオス!!」
動けないまま見送っていると、ルヴァイドの叱責が飛ぶ。
「は……! ……ルヴァイド様!?」
振り返れば、ビーニャの召喚した魔獣に剣を振るっている、総指揮官の姿が映った。
大剣が一振りされるたびに、魔獣たちは絶命していく。それでもなお、あとからあとからわいてくる。
いったい、何匹召喚したというのだ。
そうしてルヴァイドの行動。認めたくはないが今のところの味方であるビーニャが召喚した魔獣を屠っている理由を、一瞬つかめずに立ち尽くす。
そこにまた、指揮官の声が飛ぶ。
「奴の暴走の始末はつけねばならん! 掃討にかかれ!!」
「……!」
意図を瞬時に察し、
「はっ!」
「御意!」
イオスは槍を、ゼルフィルドは銃を構えて、ルヴァイドの左右に展開する。
立っている場所もお互いの立場も何もかも違うけれど、今。と同じものを敵として。――そんなことを考えてしまうのは、久々にあの子の姿を目に出来た、感傷故だったのか。
……逢えてよかった。元気そうでよかった。。
こんなコトを思っている場合でないのは重々承知していたけれど。それでも、思わずにはいられなかった。