――振り返り振り返り、手を振りながら歩いていく少女を、ネスティはじっと見送っていた。
「どうかしましたか?」
とりあえず形式だけでも、と、記録簿に一連のことを書いていたロッカが、ネスティの視線の向きに気づいて声をかける。
彼が見ていたのは、先日リューグが家に連れてきた少女だった。
記憶をなくして、結局思い出せたのは自分の名前がであるということだけ。
それでも、名前を思い出せただけでも、とても喜んでいた。
それがやせ我慢でもなんでもなかった証拠に、今朝からもとても元気。
強く在れるすべを知っているのか、それともただの天然さんなのか、それは謎なところであるが。
……一度、じっくり、突き詰めてみたいよーな気はするが。
そういうくだらんことはせんでいい、と、彼女本人が聞いたら云うだろうか。
他愛のないことを思うロッカの傍らで、
「いや、なんでも……」
ネスティがまた、妙に煮え切らない態度で、一言応じた。
その微妙な様子に、もしかして……と、ロッカは思う。そうして、とりあえず可能性ということで問うてみることにした。
すなわち、について何かを知っているのか、と。
「いいや」
二度目の否定詞。
「けれど……」
それを更に否定することばを繋げて、確信のもてないまま、ネスティは自分の思うところを口にする。
「初めて逢った気が、しないんだ……どう考えても、初対面のはずなんだが」
「どこかで見かけたということですか?」
どこの街で、だとか覚えています?
少しでも少女の記憶の手がかりを得たくて、ロッカはなおも問いを放つ。
どうして、あの子のことが、こんなに気にかかるんだろう?
不意に浮かんだ自問への解は、見つけきれないままに。
それに対して、ネスティは首を横に振ることで応えた。
「いや、逢ったとかそういうわけじゃないんだ。ただ、なんとなく感じが……」
なおもつぶやいて、それから、自嘲気味に彼は笑う。
「おかしなことを云ったな。気にしないでくれ、すまない」
「いえ」
短く答えるロッカを見、それからもう一度、の歩いていったほうをネスティは見やる。
当然、少女の姿はすでにない。けれど、目に焼きついている――柔らかな色をした髪と、黒い澄んだ瞳。
外見に見覚えがあるとか、そういう感覚ではなくて。
もっとどこか、奥深い部分で。共振を、共鳴を、覚えるような。
――それ以上、何もわからない、頼りない感覚ではあったけれど。それは忘れてはいけない感覚のように思えた。
甚だ……不安定なものでは、あったけれども。
「そういえば」
ふと、自分の兄弟弟子に頼んでいた用事を思い出して、ネスティは気分を切り替えるように、ロッカへたずねた。
「このあたりで、宿を貸してくれそうな家はないか……?」
夜のとばりがおりる。
ロッカに宿を求めたところ、この家を紹介されたらしい昼間の一行がやってきたせいもあり、アグラバイン家は昨夜よりさらに賑やかな状況になっていた。
「え、ええぇっと……」
目の前に並ぶ一行を眺めて、は真剣な顔で考え込んでいる。
しばらくそうしていたが、おもむろに左端から順に指差し、
「フォルテさん、ケイナさん、マグナさん、トリスさん、ネスティさん、えーとそれからそこのちっちゃい子がハサハちゃん、バルレルくん……」
「おい! 俺まで『ちっちゃい子』のなかに入れるんじゃねぇ!!」
確認しているところに、バルレルからブーイングが飛んでくる。
「わぁぁん、叫ばないでよー! せっかく覚えたのに忘れちゃうじゃないー!!」
地団太を踏んで半泣きの。
実はさっきから半時ほど、こんなことを繰り返しているのだ。
「おまえ、俺たちの名前はあっさり覚えたくせに」
椅子に反対向きに座り、あきれた視線を向けてくるリューグ。
「だってあのときは、3人しかいなかったじゃないで……」
ごす。
ロッカがお茶を飲み終えたマグカップをリューグの後頭部に命中させた音である。
これでリューグが黙っているわけがない。がたんと音をさせて、椅子から立ち上がる。
「何しやがるバカ兄貴!」
「何されたかも判らないほど打ち所が悪かったかい?」
それは悪かったよ。じゃあショック療法でもう一度。
けして冗談ではない証拠に、そう告げると同時、次なる獲物ことフォークを構えたロッカを見て、
「……なんでもねぇ」
リューグは蒼ざめ、己の敗北を受け入れた。
「仲良きことは美しきかな♪」
大柄な剣士――フォルテが、茶化すように云う。
そこにすぐさま、横に立っていた弓使いのケイナが裏拳でつっこみ、彼は『げふ』と短くうめいてその場にくずおれる。
昼間に負けず劣らず、ナイスツッコミです。ケイナさん。
ってゆーか双子と云いこちらの剣士と弓使いのふたりといい、ここは漫才コンビの名産地ですか…?
わけのわからないことを考えて遠くを眺める。
その視線はすでにどこをさまよっているやら知れない。
「……さん〜?」
ぱたぱた、と彼女の前で手を振っているのはトリス。
蒼の派閥の見習い召喚師であり、
「マグナ兄さん、さんがどこか遠く見てるよ〜〜!?」
同じく蒼の派閥の見習い召喚師である、マグナの妹だそうだ。
そういえばふたりで森を散歩していたら、アメルに逢って何やら話したらしい。
木の上から降ってきたと云っていたけれど……何をしてたんだろう、アメルって。
「さん……おーい、さーん……?」
数度に呼びかけたマグナは、だが、三度繰り返さぬうちに、そっと目元をぬぐって妹へ告げた。
「だめだ、そっとしておいてやろう、トリス」
危険人物かあたしは。
ツッコミは心のなか。
目線だけはあらぬ方向を彷徨いながらも、は改めて、紹介された一行の情報を頭に叩き込んでいた。
そう、この何気にかわいい兄妹がマグナとトリス。蒼の派閥の召喚師(見習い)。
剣士と弓使いの絶妙な漫才コンビは、フォルテとケイナ。
ひとり優雅に我関せずと茶をすすっている色白の眼鏡が、マグナとトリスの兄弟子である、ネスティ。
もはや慣れっこなのか、この弟妹弟子のノリは。
水晶玉を抱えて、ちょこんと、白い尻尾と耳を生やしてるのがハサハ。
シルターンの召喚獣で、マグナの護衛獣。
さっきからみんなが騒いでるのをいいことに、さりげにアグラ爺さんに酒をねだっているのが、トリスの護衛獣でサプレスの悪魔であるバルレル――
彼らは、先日召喚師として認められたばかりのマグナとトリスの見聞の旅の途中らしい。
そうしてたまたま仲間になったフォルテのケイナが、聖女アメルに用事があるためこの村を訪れた、と。
よし、記憶完了!
いささか間違った人物像が散見されるが、要は本人が覚えられりゃいいのである。
力強く頷いたは、そうして、それに気がついた。
「……ん?」
ふっと気がつくと、アグラ爺さんに酒をねだっていたはずのバルレルと、マグナにくっついてたハサハが並んで、を見つめていたのである。
神妙なまなざし――普通には見えないものを見透かすような眼、そんな不思議な視線だった。
疑問の意味をこめて、首をかしげてみせる。
「どうしたの?」
「おねえちゃんは、どこの世界から、きたの……?」
「……へ?」
唐突なハサハのつぶやきは、幸い、わいわいとやっている他の人々には聞こえなかったようだ。
けれど、の耳にはしっかりと届いた。
何処の世界から来たの――
サプレス、ロレイラル、シルターン、メイトルパ。
昼間ネスティから教えられた、召喚獣たちの住まうという世界の名前が、頭のなかでぐるぐるとまわる。
「? ? ?」
だが、記憶のないに答えられる由もない。
けれど、それにさらに追い討ちをかけるようにして、バルレルが告げる。
「――おまえ、この世界と違う匂いがすんだよ」
「……へ?」
思考能力停止寸前の脳が、再び同じことばをつむがせた。
この世界と違う……
って。
ことは。
あたしは、この世界の人間じゃない、ってことよね?
もしかしてこの子達と同じに、何処からか召喚されたの?
そして、停止した反動のように、急回転する思考回路。
でも。でもですよ。
じゃあなんで、リューグに拾われたとき、あたしはいかにも旅装束ですーって格好でこの村を見下ろす場所に居たんだろう。
召喚獣ならもっとそれらしく、ほら、そこにたたずんでるふたりみたいに別世界っぽい姿してるものじゃないんだろうか。
いやそもそも、あたし、なんで旅装束なんかでレルムの村に?
この村に用事があったのかな?
ぐるぐるぐるぐる、の頭のなかで踊るのは『?』マーク。
自分の思考の海に沈み、そろそろオーバーヒートしかけて蒸気が出そうになったとき。
ふぅわりと、ハサハがに擦り寄ってきた。
「え? え?」
「おねえちゃん…なんだか、空っぽで不安な感じ……」
「あ、あぁ、うん。記憶ないから…」
いい加減、自分で云っていて言い訳のように聞こえ始めていたりするのだが、事実は事実。なので、やはりそう云うしかない。
紹介のときに、自分の記憶がないことはとっくに告げていた。
昼間の時点ですでにネスティに知られていたし、隠すようなことでもないと思ったからだ。
彼らの同行のケイナも、同じように記憶喪失だと聞かされたときには驚いたが――
だからこそ、彼女もまた、聖女の奇跡を頼ってここまできたのだろう。
先んじてそれを受けることになったは、果たしてうまくいくのだろうかと疑問を感じずにはおれなかったけれど。
「おねえちゃん…?」
また思考があらぬ方向に飛びかけていたが、それを無理矢理引き戻し、は改めてハサハとバルレルを見やった。
ハサハは、椅子に座ったの膝に両手を置き、ちょこんとこちらを見上げている。
バルレルは立ったまま、を見て動こうとしない。
さすがは……と、云うべきなのだろう。
他の人間が感じない、そういう『気配』というものを感じる力は、召喚獣の特質なのだ、きっと。
でも。
「――ごめん」
は小さく謝罪をつぶやき、頭を下げた。
判らないのだ。何も。
自分の名前以外ほんとうに、何もかも。
たまに、不思議な既視感に襲われることはあっても、それはすぐに、霞のように消えてしまう。
雲みたいにあやふやな、今の自分の立ち位置。
もしも自分を知っている人に逢えれば、また違ってくるのだろうけど……
「あたし、ほんとうに何もわからないんだ」
「おねえちゃんが、謝ること、ないよ」
一生懸命に、ハサハが云った。
「おねえちゃんは……」
「何してるんだ、ハサハ?」
つむがれようとしたハサハのことばは、マグナのそれにさえぎられた。
つづいて、
「バルレルー!? さんいじめてたんじゃないでしょうねー!?」
「誰がするかー!!」
トリスのつっこみに、バルレルが全力で叫んで否定を返す。
「なんだってバルレル! いつかはそんなことするんじゃないかと思ってはいなかったけど、俺は悲しいぞ!」
「テメエに云われる筋合いはねえッ!!」
挙句にマグナまで彼らに絡み、とたんにの周りは賑やかしくなってしまった。
先ほどの雰囲気はどこへやら、だ。
ハサハも、召喚主であるマグナの裾にしがみつきにいってしまい、本当に話を蒸し返せる状態ではなくなっている。
「……なんだかなー」
くすくすと。
笑って、もまた、マグナたちに加勢するべく席を立って、彼らのもとへと向かった。
もしも自分を知っている人に逢えれば――
そのの願いはこのすぐ後、思いもよらぬ形でかなうことになる。
惨劇を伴って。