――夢を見ていた。
遠い遠い、なつかしい夢。
頭をなでてくれる、優しい大きな、大好きな手。
――笑ってた。
あたしも、それから、その人も。
優しい世界でただ、一緒にいられるそのことが、ずっと続くと信じてた……
目を覚ますと、とっくに、太陽は山の端から離れていた。
のろのろと手を伸ばして、窓から入り込む光に手を透かしてみる。
「――『あたしの』手」
つぶやく。そう、これはの手だ。
……。
声には出さず、もう一度、唱える。
あたしは、だ。
今はそれ以外、何も判らない。自分がであるということ以外は。
ああそうだ、それから――
ふと目を移すと、隣で眠っていたはずのアメルはとっくの昔に起きてたらしく、着替えてベッドの淵に腰かけ、を覗き込んでいた。
「おはよう、」
にっこりと微笑むアメルに向けて、も笑みを返す。
「おはよう」
それから目をこすりつつ起き上がり、アメルのお古らしい洋服に着替え始める。
人の目の前で着替えるのは恥ずかしいなと思っていたら、アメルはさりげなく窓際に寄り、こっちは見ないでくれた。
――が。
「あ……の、アメル」
「なんですか?」
困りきった顔で、は着終えた自分の服を指差していた。
アメルのお古であるその服は、早い話がまぁ、今アメルが着ている服とデザイン的にもそっくりさんで。
故に。
足が見える。どーんと。
「スカートはきらいですか?」
問われて、真剣に悩んでしまう。
アメルの厚意はうれしいのだけど、どうにもこの服は落ち着かないのだ。
なんとなくスースーするし、ひらひらして歩きづらい。
頭を絞って思い出してみれば、自分が昨日着ていた服はたしか上下が黒で揃った旅用の上着とズボンで――
しどろもどろにそのあたりを告げると、アメルは、
「判った! じゃあ、あたしリューグかロッカの服借りてきますね!」
「え!?」
なんでリューグかロッカ!?
「だってあたし、ズボン持ってないから」
裾曲げちゃえば、丈のほうは大丈夫ですよ!
いや、そういう問題でもないんですが……がしどもどと云う前に、アメルはとっとと駆け出していってしまった。
……えーと。
取り残されたは、中途半端に前へ出した腕を、所在無くひらひら。
……まぁ、いいや。
せっかくの厚意なのだから、甘えさせていただきましょう。
それに、何か懐かしかった。
あれこれとかまってくれるアメル――彼女を見ていると、どこか遠くにおいてきてしまった大切なものの、欠片が手のひらに降って来るような気がして。
記憶をなくす前の自分にも、もしかしたら、アメルのような存在がいたんだろうか……
結局ロッカの服を借りたは、アグラバインさん――アグラお爺さんと向かい合って朝食を食べていた。
頂いた服は、けっこう大きめの白いシャツに、黒のズボン。
その上から、これはアメルのものだという、若葉色の薄手の上着を羽織って。
もしかせずとも、結構似合ってると思う。なんて、自画自賛。
とはいえ、アメルも、似合いますよと褒めてくれた。いくら記憶喪失だって、お世辞と本音の区別くらいつく。
で、当のアメルは服を持ってきてくれたあと、聖女としての務めが今日から再開だとかでお付の女性とやらに連れて行かれてしまっていた。
ロッカとリューグは自警団として、村を訪れる人々の整理や監視があるそうだ。
早々と出て行ってしまった双子とアメルの代わりに、きこりに出る時間を遅めてまで一緒に席についてくれたお爺さんに感謝しつつ、料理に舌鼓をうつ。
「お芋料理っておいしーっ」
自らお芋さん好きと公言するだけあって、アメルが作り置いていった朝食は、ふんだんに芋が使われていた。
むしろ使われていない料理の方が少ない。
けれど、ひとつとして同じ味の物はないあたり、彼女の料理の腕の良さを示している。
「あまり急いで食べると、腹を壊すぞ」
急にやってきたを、警戒しなかったわけでもないだろう。
それをおくびにも出さず、アグラお爺さんは、ひたすらに食事を進める少女を苦笑していさめた。
「だって、おいしい、ん、だもん」
妙にことばが途切れるのは、食べながらだからだ。
行儀の悪い居候もいたものだとこっそり笑う。
自分のことだろうがよ。
「まあ、アメルの手料理も久しぶりだからな……」
少し表情を曇らせたお爺さんのつぶやきを、耳ざとくは聞きつけた。
「どういうことですか?」
「アメルがこの村で聖女と崇められているのは聞いただろう?」
「はい。今日から、お仕事なんですよね?」
「あの子がこの家にいるのは、何日かに一回の休養日だけでな」
だからアグラバインと双子にとって、アメルのつくる料理が食べられるのは、彼女が家に戻っている、その何日かに一度なのだ。
「……ああ」
食事を進めるペースを落として、は小さくつぶやいた。いや、いっそ手を止めろよという感じだが、そうはいかない。食欲は人間の三大欲求だ。
食い意地が張ってるとか云うな。
「アグラバインさん――」
――だから、そんなにさびしそうなんだ、と、思う。
記憶はたしかにないけれど、から見ても、感じたから。
アメルのことを、彼らがどんなに大事に思っているかは感じていたから。
そんな大事な人に家族として逢えるのが数日に一度という状況を、どんな気持ちでこの人たちは受け止めているんだろう。
思わずうつむいたをみてどう思ったのか、アグラお爺さんは、
「気にするな」
と、優しく頭をなでてくれた。
妙に安心できるその感触に、が目を細めたのが判ったのだろう。
もう一度頭をぐしゃぐしゃ、とかきまわし、食器の後片付けを頼むと、彼も斧をかついでまた、自分の仕事へと出かけていった。
そうして、一気に。
は暇になった。
「ひま〜ひま〜、ひまだよう〜〜〜」
食器も洗った。洗濯物も干した。
壁に立ててあったほうきとちりとりを持ち出して、家中掃除してまわった。
自分には家事の才能があったのかもしれない、と、また記憶に関してのかすかな希望を抱いたのもつかの間で。
暇。
なのである。
たしかにこちとらただの客であるのだし(たとえ事故でいきなり押しかけたのだとしてもだ)、そうである以上、これ以上に家のなかをひっかきまわすのも気が引ける。
つーかやっちゃいかんだろう。
しょうがなく、ベッドでだらだらとしていたのだが……二時間もしないうちに、飽きた。
「散歩くらいなら、してもいーかなあ……」
それに、運がよければ、ロッカやリューグに逢えるかもしれないし。
その考えに、気分が一気に上昇して、はがばりと起き上がる。
――とたん。
「……?」
なんだろう、と思った。
窓から吹き込む風に混じった、平和な山中の村には似つかわしくない気配。
――鉄錆に似た、物騒な気配――
もし。そのときのの表情を双子やアメルが見ていたら、驚いたろう。
記憶をなくした、けれど前向きで元気な少女の顔はなりをひそめ、眼光も鋭く敵を感知しようとする、軍人としてのそれだったのだから。
――が、それも一瞬。
「まぁいいやっ」
おかしな気配を感じても、今のはそれを何かと関連付ける根拠――すなわち知識はきれいさっぱり、頭のどこか。
だから、彼女はすぐに表情を戻し、元気よく村の探検、もとい散歩に出かけたのであった。
優しい世界に包まれていたよ
大切な大切な人たちに手を差し伸べて 差し伸べられて
あたためながらあたためられながら
――ずっと続くと思っていたのに
リューグはすぐに見つかった。
村の入り口のところで、何やら数人のお客さんともめていたからだ。
「りゅーぐさーん……」
たしかに言動から、ちょっぴりケンカっぱやい感じかなー、と勝手に性格予想なんかしてみたりしてたけど!
思いっきり的中させなくてもいいじゃないかっ!
かなり距離を置いた場所で、届かぬ裏拳を空中にかましつつ、ツッコむ。
見つかったら、それでもし暇そうだったら、警備がてら村の案内なんてお願いできないかな、なんて思っていたのだけれど。すっごい剣幕で怒鳴ってるのが遠目にも判るものだから、ちょっと、近寄り辛い。
そうこう思いながら、そのまま足を止めて、は彼らの様子を伺った。
知らない人は、ちょっと苦手かもしれないなあ、と、客人たちを見ながら考える。
これも、自分の生来の性格なんだろうか。判らないけど。
見ているうちに、少し離れた場所から騒ぎを聞きつけたのだろう、ロッカが走ってやってきて仲裁に入る。
それでもまだ、揉め事そのものはおさまらないようだ……
って。
「うっわ」
お客さんのひとりが、相方らしいお姉さんにどつかれた。
冷や汗一筋額に垂らし、は、知らず知らずのうちに、ぽつり。
「……ないす、つっこみ」
尊敬してしまうかもしれない。あの巫女装束のおねえさん。
そうしてリューグはそのまま、ロッカに一撃八つ当たると、彼らの元を足早に去り――かけて、そこでようやく、物陰から覗いてるに気がついたようだ。
足を止め、ちょっと呆れた声で首を傾げ、
「何してんだ、おまえ」
そう云うと、斧をかついだままの方へ小走りにやってくる。
斧、わりと重いんじゃなかろうか。それをかついで来るなんて、体力あるよなあ、このひと。
「……」
そういえば初対面のときも、斧かついだまま、あたしを抱っこしてたよーな…………
……抱っこ……
――……うひゃああぁぁぁぁ。
「……何してんだよ」
の顔は耳まで真っ赤になっていた。
それをどう思ったのかはともかく、リューグの二度目の問いは、完璧に呆れ声だった。
あちゃあ、と心の中で舌を打ち、は半歩、身を退いた。
「村の散歩……退屈、だったから」
ダメだった?
むすっ、とした顔のまま、リューグはあいまいにうなずく。
一応の客であるが、勝手に家を出てこんなところにいることに、リューグはあまりいい気はしていないようだった。
でもそれを補ってあまりある、退屈を打開したかった情熱の炎に、どうかどうか気づいてください。
そんなもん情熱じゃねえ。
完全に、完膚なきまでに呆れ返った声で熱い情熱を打ち砕くと、リューグはに向けて、「ほら」と手を差し伸べた。
「?」
いきなりな行動に先が読めずに戸惑うをじれったく思ったのか、ちょっと眉を上げて。
「退屈なんだろ? 村の案内してやるよ」
俺の警備範囲内でよければ、だけどな。
「いいの!?」
やったぁ!
飛び上がりかねないの喜びように、今度はリューグの方が戸惑いを見せる。
――おや。
心なし顔が赤いような?
と、気づかれぬ程度に首を傾けて覗きこんでみるが、その時点では、とっくに顔色は元に戻っていた。いや、そもそも赤くなっていたのかどうかも。
錯覚だったのかもしれない。
「――さんが喜んでるところ悪いんだが、リューグ」
「ロッカさん?」
「ンだよ、バカ兄貴」
いつの間やらたちの傍にきていたロッカが、にこにこしながら声をかけてきた。
……背後に何か、黒いものが見えるのは気のせいか?
そうして彼の左隣、半歩ほど後ろに下がった場所にもうひとり、見覚えのある人。
どこで見たんだろうと考えて、すぐに思い出す。
さっき、リューグと何かもめてた一行のなかに、いた人。たしか。
黒い髪に、病的に白い肌。あと、眼鏡。
肌は顔以外出してなくて、手に持った杖とマントが彼が召喚師であることを示していた。
――召喚師?
不意に頭に浮かんだ単語に、は首を傾げる。
今、何の疑問もなしに思いついたけど……召喚師ってなんだっけ?
そんなの疑問もそっちのけ、双子はその召喚師のお兄さんも交えて会話に入ろうとしていた。
「騒ぎの顛末はネスティさんから聞いたんだが、一応おまえの話も聞いておこうと思ってな」
ほう、この眼鏡の色白お兄さんはネスティさんとおっしゃいますか。記憶記憶。
道理にかなったロッカの提案を、けれどリューグは不機嫌に、
「話すことなんかねぇよ」
と、一蹴。
昨日は自分のことで手一杯だったけど、まさかこのふたり仲が悪いんでしょうか? と、心の中だけで思う。
声に出してつっこんだら、何云われるか判ったもんじゃないというのもあった。
記憶が無くても、保身本能はしっかり働くらしい。
なんとなく額に青筋が見えそうな、いわく形容しがたい迫力をたたえた笑顔でロッカが云う。
「またそんなことを云う……さんが怖がってるじゃないか」
「に関係ねーだろ」
ってこら。いきなし呼び捨てですかい、リューグさん。
だがしかし。
それでも、なんでも。
もしかしたらさっき、に案内してやると云った手前とっととそっちに行ってしまいたかったりするんだろうか?
とにもかくにも、リューグはロッカの笑顔からぎこちなく目を逸らすと早口に、
「あいつらの一人が割り込もうとしたから、それを止めただけだ。――……出て行け、は、さすがに言い過ぎたと思う。悪かったよ」
最後のそれは、ネスティに向けてのもの。
「いや……最初に割り込もうとしたのはこちらだからな」
云われたネスティは、ちょっと驚いたように目を丸くし、それから小さくうなずいた。
そうして、リューグのいらいらも、そのやりとりで少し収まったらしい。
眺めていてなんとなくそれを察したは、ちょっとだけ、口元を上げて笑みを形作る。
ロッカは案外、双子の弟の性質をよく知っているから、こうやってわざわざリューグ自身に謝らせたのかもしれない。
なんとなく、自分から謝るのは苦手っぽそうだもんね、リューグって。
思わずのほほんと和んでしまっただったけれど。
『こいつは誰だ』と云いたげなネスティの視線に気づいて、固まってしまう。
そういえば初対面だよね、この人。あたしのことなんて知らなくて当然で……
……初対面。
つまり、面識、今このときまで一切ナシ。
「〜〜〜〜〜〜ッ!!」
がばっ!
「うわ!?」
「おい、!」
はたとそれに思いいたったは、そのとたん、どうしていいか判らなくなっていた。
電光石火の素早さでリューグの腕を引っ張りロッカの隣に引きずると、そのままふたりを壁にしてネスティとの間に立たせる。
で、その隙間からこっそりと、眼鏡の人を伺ってみたり。
「……」
眼鏡の人ことネスティは、いぶかしさの中に僅かに険を含ませて、含めた三人を眺めていた。
ごめんなさい睨まないでください、だって初対面の人は苦手だしあたし記憶ないし、ってそれは無関係だけど、もはや条件反射的に身体が動いてたんですー!!
と、いうの嘆きなど、当然聞こえるわけがない。
ロッカとリューグを間に挟んで睨み合うもとい見つめ合う、とネスティ。
見かねたロッカがぽんぽんとの頭を叩かなければ、きっと硬直したまま陽が暮れていたに違いない。
ちなみにリューグは、あまりにいきなりの出来事に半ば放心していた。修行が足りない。
どこの異星の修行だとか云ってはいけない。きっと世界は広い。
「さん」
「は……はい」
ことばでもう一度促され、何はともあれ、自己紹介を試みる。
といっても、からしてみれば自分の名前以外に云うことはない。
「あ、あの。あたし、です」
「……ネスティ・バスクだ。見て判っていると思うが、蒼の派閥の召喚師で――」
「あ。」
彼の発言をさえぎって、は声をあげた。
「召喚師って、なんですか?」
そうそう、これを訊きたかったのだ。
やっと解答が手に入る、と、わくわくしているを見て、けれど失礼にもネスティは目を見開いて固まった。
と思った矢先。
「――召喚術を知らないのか!?」
「っ!」
いきなり怒鳴るかこの眼鏡!?
ネスティがひどい剣幕で怒鳴ったおかげで、はさらに吃驚して、いよいよふたりの影に身をちぢこませる。
……もしかして、知ってなきゃだめなことだったんだろうか?
でも、知らないもんはしょうがないと思う。記憶ないし。
ええい、訊くはいっときの恥だ、がんばれ自分!!
「あたし記……」
「こいつ記憶がねえんだよ。自分の名前しか覚えてなかったんだから、召喚術とかそういうことも、忘れてたってしょうがねえだろ?」
リューグ。
さりげなくを隠すように動きながら、ネスティに向かって彼は告げた。
ロッカが、縮みこんでしまったを励ますように優しく、何度か背中をなでてくれる。
「……」
あぁ。まただ。
いつかどこかで感じた感覚。
優しく包み込んでくれた、誰かの手――
さすがに、ネスティも記憶喪失と聞いては自分の非を認めないわけにはいかなかったよう。
あっさり頭を下げて、ついでに召喚術についてちょっとだけ、話してくれた。
曰く。
この世界はリィンバウムという名前であるということ。
ちなみには、そんなことさえ知らなかった。忘れていたと云うのが正解だが。
そしてその周りを囲むように、霊界サプレス、機界ロレイラル、鬼妖界シルターン、幻獣界メイトルパなる四つの異世界が存在するんだそうだ。
本題である召喚術とは、呪文と儀式により、それらの世界から召喚獣を呼び寄せ自らの力とするわざ。
それを行使できる者が召喚師。
ロッカやリューグの補足によれば、一般人には扱えぬ力を持つ彼らは、尊敬の対象であると同時に畏怖を覚えられる存在だという。
ざっとこれらのことを教えてもらったは、忘れないようにそれを頭に叩き込みつつ、うんうんとうなずいた。
これでまた、知識の補完が出来たわけだ。
やっぱり恥を忍んで訊いてよかった。人間、基本は度胸と根性だ。
人見知りが何を云うかな。
ともあれ、なんとか丸く収まったと安心したは、当初の予定通りリューグに村の案内をしてもらうことにして、ロッカたちと別れたのだった。