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第12夜 参
lll その時、聖王国の西の端で lll



「あれ? どうしたんです? 気分が悪そうですね」
「……うっせェ」
 もらい物らしい、ピンクのエプロンなど着けて(何度もやめろと云っているのに聞きやしない)食事を持ってきたカノンに、八つ当たりなのは判っていたが、仏頂面でそう答えた。
「1年前の後遺症ですかね?」
 そうとは思っていない口調で、カノンは笑う。
 『1年前』。
 苦い感情しか覚えないその単語に、バノッサの顔がますます不機嫌になる。
「ただの耳鳴りだ。さっきからしつこくしやがんだよ」


 ――1年前。
 死を覚悟していた。
 肉体のそれもだったが、むしろ魂の死の方を。
 魔王にすべてを食われ尽くす、覚悟を自分はしていたのに。
 ――声が。
 聞こえたのだ。
 『還りつく場所に生まれた者よ』
 『我は本来の守護者をこの地に得る。鏡像は壊され、実像の在るを得る』
 『力を与えよう。還りつく場所で生きる力を』
 『まだ汝は輪廻への安息を求めるべきではない』
 『誓約者の名において、守護者たりえた意志において、願われた。汝も、汝の犠牲となりし者も、ともにこの地に還るのだ』
 ひどく傲慢な声だった。勝手な声だった。
 問わずとも判った。あれは――世界の意志だ。
 魔王に飲み込まれたバノッサの魂と、今正にリィンバウムから輪廻の流れに飲まれようとしていたカノンの魂を、よりにもよって、再びこの世界に呼び戻したのだ。エルゴが。
 ふざけやがって、と思った。
 けれど世界の意志とやらは有無を云わさず、彼らをリィンバウムに押し返していた。

 ……はっきり云って、その後の大騒ぎについてはあまり思い出したくもない。
 カノンはまだしも、はぐれどもやらエドスやらフラットのヤツらやら……
「ケッ」
 舌打ちするバノッサの表情は、普段の十割増しでやさぐれている。

 それでも、まあ。
 南スラムの人間を。誓約者の4人を。
 目にしても、あの胸をかきむしりたくなるような衝動は、もう覚えない。
 何を血迷ったのやら――霊界サプレスの召喚術を扱うすべを、親切に『兄弟』たちが教え込んだせいでもあるが、何より。
 くだんの魔王――とはいえ、本当にそうだったのかは未だにはっきりしない――に、憎しみやらなにやらの負の感情を、食い尽くされてしまったせいも、大きい。
 が。
 あって当然のものがなくなってしまっても、生来の性格が入れ替わったわけじゃないですし、そのへんは全然変わりませんよね、とはカノンのことば。

 そのカノンが、いぶかしげに自分を覗き込んでいる。
「耳鳴り……ですか?」
 耳の後ろに手のひらを丸めて当て、小さな音を聞き漏らすまいと、そんな素振り。
「……もしかして、けっこう甲高い音じゃないですか? キィン、って断続的に」
「おまえもか?」
 そのとおりだった。
 キィン、リィンと甲高く、遠く、何かを呼んでいるような音。声?
 落ち着かない。
 いつか魔王に取り込まれたときの、あの醜悪なまでの感覚を思い出させる。
 そのものではなく、むしろ遥かに高潔な位置にあるもののような気はするが、基を同じにした音に思える。けれど歪められているように思える。それは。

 キィン、リィンと音がする。

 気になりだすと止まらない、鳴りつづける音に、カノンも眉をしかめた。
「小さくて気にしなかったんですが……なんでしょうね? お兄さんたちに訊きに行ってみましょうか?」
「あぁ? なんでそうなる!?」
 云わずもがな、お兄さんたちイコール誓約者たち(現在南スラムに居住中)だ。
「いえ……根拠はないんですけど、ボクとバノッサさんだけ聞こえるというのも変ですし」
 そう云われて、バノッサは周囲を見た。
 そのへんにたむろっていた手下たちのなかに、先刻から繰り広げられていたふたりの会話を聞いて耳に手を当てている者が何人かいたが、どれもこれも怪訝な顔で、あからさまに聞こえていなさそうである。
 いや、耳鳴りなんだから他人に聞こえればそれはそれでおかしいのだが、ではバノッサとカノンにだけ同じものが聞こえているというのが疑問になるわけで。
「チ」、
 舌打ちひとつして、
「行くぞ!」
「はい」
 しぶしぶながら、バノッサは立ち上がった。
 歩き出したその後ろを、カノンが小走りについてくる。


 キィン、リィィン、音がする。


 一行の中でそれに最初に気づいたのは、巫女の衣服を着て、髪を三つあみに編みこんだ少女だった。
 赤い袴をひるがえし、くるりと出所らしき方向を見る。
「森が泣いている? ……いいえ、これは呼び声?」
「カイナおねえちゃん、どうしたの?」
「しー……」
 問いかけてくるエルジンに、人差し指を立ててみて、それから、今まさに調査のため訪れようとしていた森を指し示す。
 耳を済ませて目を閉じた少年も、音に気づいたらしく、首を傾げた。
「音……? 何か魔力も感じる……」
「次第ニ大キクナッテイル。早急ニ調査シタ方ガ良イカモシレナイナ」
 赤い機体を持つ、ロレイラルの機械兵――エスガルドにも、その音は聞こえていた。
「そうですね。参りましょう」
「うん! 行こうエスガルド!」
「了解」
 少しだけ、進む方向を修正して、彼らは森に足を踏み入れた。


 キィン……リィン……音が鳴る。


 耳を突き抜けて頭にまで到達しそうな、強い音。でも、遠い遠い小さな音。
「なんなのかしら……ほんとうに」
 普段はおっとりしているクラレットまで、不快そうな表情を隠せないでいた。感情のはっきりしているハヤトやナツミなど、露骨に顔をしかめているし。
 南スラムのフラットの、この一室に集まっているのは誓約者4人に護界召喚師4人だ。
 それぞれが同時に耳鳴りを覚え、ふらふらと集まって、今のこの状態が出来上がったわけなのだが。
 3人寄れば文殊の知恵と誰かが云ったような気はするものの、この場合、8人集まっても特に打開案は出ていなかった。
「こないだといい今日といい……何か起こってるのかな」
「最近あちこちで頻発してるっていう、悪魔の大量出現に関係があるのかもしれない」
「……サプレスの?」
「一概には云えないが、俺たちに揃って聞こえてる事実もある……サプレス関係だと考えて間違いないと思うんだが」

 …………うーん。と、首をひねる一同。

 そんななか、ぽん、と。手を叩いたのはアヤだった。
「それでしたら、バノッサさんも聞こえてるかもしれませんね」
 訊きに行ってみませんか?

 おいおいおい。と、他一同。

 1年前の件以来、たしかに以前のような大きないざこざは起こっていないものの、北スラムと南スラムの関係は相変わらず険悪、というか微妙、というか。
 現に小競り合いなら、数度経験してもいる。
 そんな北スラムにはただでさえ行きづらいというのに。

 よりにもよってバノッサを訪ねに行くか!? と、アヤ以外一同。

 けれど、にこにこと笑っているアヤに、正面きって反対できる人間はいなかった。
 誓約者のなかでも大人しい、常に笑顔を絶やさないアヤだけれど、いや、だからこそ最強なのであって。
 張り合えるふたりのうち、クラレットは彼女に賛成するように、にこにこしている。もうひとりのトウヤも気は進まないようだが、積極的に反対意見を唱える気はないらしく、黙っている。
 結果は火を見るより明らかであることが、この時点で決定していた。
「……判った。俺もついていくよ」
 ため息をついて、ソルが両手をあげた。
 『お手上げ』のそれに見えなくもないが、気持ちは判るので、誰もつっこまない。
「じゃああたしも行くわ。キールもくるでしょ?」
 同じ世界からきた女友達という連帯感か、ナツミが次に手をあげた。隣のキールが小さく頷く。

「まぁ、4人もいれば、バノッサが何かぶちかましてもどうにかなるだろう」
「いってらっしゃい。万一があっても街を壊さないようにね」
「広範囲のは使うなよ。ブラックラックさえ使えば半死半生くらいで沈黙効果あるからそれでいってくれよ」
「間違っても一般の人たちに被害は出さないでねー」

 ……と、実に頼もしく間違った声援を受け取って、誓約者ふたり護界召喚師ふたり、計4人は北スラムへと出発したのである。


 ……キィィン、リィィン、キィン……音がする。


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