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第12夜 壱
lll ただ、君のことばだけを lll



 君のことばじゃないとだめ。
 君のことばがないとだめ。
 いつも元気にそのことばをくれたときの、君の笑顔がないとだめ。

 …………君が、いないとだめ。


 時は少し遡る。
 ロッカがの部屋になだれこむ、少し前の時間まで。

 そこは軍隊の陣営地。三砦都市トライドラの砦のひとつ、ローウェン砦からからあまり離れていない、黒の旅団の野営地。
 もう少しほども進めば、砦も一望できる距離に、彼らはいた。
 時折砦から放たれる見回りの兵の周回範囲から、少し離れた外側に。

「ルヴァイド様。兵に作戦の通達完了しました。現時点で進軍に問題はありません」
 報告とともにルヴァイドの天幕を訪れたのは、腹心であるイオス。
「判った。ご苦労だったな」
 ねぎらいながら、おかしなものだと今さらだが思う。
 数年前まで、目の前の男から感じる感情は復讐心と憎悪でしかなかったというのに。いつの間に、自分に対してこうも穏やかに接するようになっていたのだろう。

 ……考えて。
 ひとりの少女の姿が、刹那、浮かんだ。

 戦の前に何を考えているのかと苦笑して振り払おうとするが、一度浮かんだその影は、そうあっさりと消えてくれはしなかった。
 こぼれた苦笑を見ていたイオスが、心なしか表情を曇らせて、ルヴァイドを見る。
「……ですか?」
「ああ」
 否定する必要も覚えなかったから、頷いた。
 その上官の姿をどう思ったのか、イオスは気の重い表情を崩さず、同じように苦笑してみせる。
「どうしているでしょうか……」
「さあな」
 最後に逢ったのは、あの夜。ゼラムから逃げ出そうとしていた聖女を捕えようとした、あの大平原。
 泣いていたな、と、ふと思い出した。
 が記憶をなくしてからというもの、泣いた顔や怒った顔ばかり見ているような気がする。
 ……ちゃんと覚えているのだけど。陣営につれてこられていた日の、いつぞやの湿原の。笑みもちゃんと覚えているのだけど。
 共に暮らしていた頃には見ることのなかった表情ばかり見たせいか、すっかりそちらの印象が強くなっている。

 ちゃんと知っているのだけど。
 デグレアにいたころの、も。今敵対している、も。
 同じ人間なのだと判ってはいるのだけど。

 今ここにいない。ただそれだけが。

 不意に。まだ苦いものは混じっていたけれど、イオスが笑みらしきものを浮かべた。
「初めてですね。が出て行ってから、聖女がらみ以外での任務は」
 たった一時とは云え、聖女捕獲から離れた自分たち。
 と戦う可能性のある道から、少しだけでも離れていられる、今。

 大平原で聖女を捕獲できなかった彼らに下された命は、来るべく聖王国との全面戦争に備え、三砦都市トライドラの一角、ローウェン砦を落とすことだった。
 ひとつだけ落としてどうするのだと思ったが、残るふたつのうちスルゼン砦に関しては顧問召喚師に全面的に任されたらしい。
 加勢していただけるのでしたら、ありがたくお受けしますが?
 そう云うレイムのことばには、当然首を振ったが。
 どうにも虫の好かない、あの顧問召喚師に関りたくないのが本音だが、ここで彼が失敗するようなら、それに対する議会の評価も下がるだろうと少しだけ考えたのもある。
 ……実際は、聖女捕獲に関する黒の旅団の不手際に対する議会の反応のほうが、よほど珍しい。
 数度失敗している。
 デグレアの宿願に関る鍵を手に入れるための、最重要機密にして最優先事項に、数度失敗している自分たちを、それでもなお、議会は任務から外さずにいる。
 それは、それだけ信頼されていると判断してよいのか――だが、裏切り者との烙印を押された一族が率いる部隊に、それほどの何を見出しているのかが判らない。
 よしんば他の理由があるにせよ、皆目見当もつかなかった。


 気づくまい。
 元老院議会がすでに、その本来の役割を失っていることなど。

 気づくまい。
 忠誠を誓った祖国がもはや、国としても機能できない状態であることなど。

 ……気づくまい。気づけない。今はまだ。


「そうだな……の激励が聞こえない準備期間も初めてだな」
 だから、ルヴァイドは思考をそこで打ち切って、今目の前の現実に心を戻した。
 そうして口にしてから、改めて気づく。

 だいじょうぶ。

 戦いに出るようになって、はいつも、ことの始まる前にはそう云いながら、兵たちを励ましていた。
 『だいじょうぶ』の根拠はと問われると、「だってルヴァイド様が指揮官なんだよ?」と、彼にしてみれば苦笑いするしかない、かわいらしいものではあったが。
 それが、今回はない、――思えばただ、それだけのこと。
 なのに。
 ……何を考えているのかと。
 少女ひとりに心を揺らがせてどうするのかと。
 振りきろうとしても、逆に自覚してしまう。
 改めて。彼女の存在は大きかったのだと、気づいてしまう。

 。今頃、どこでどうしているのか。
 大平原で蒼の派閥の召喚師に邪魔されてから、すぐに今回の任務に移ったために、消息はつかめないでいた。

 だから、まさか、今まさに彼らの目指している禁忌の森に迫っているなどと、ルヴァイドは思いもしない。
 人には遠くを見通す力などないのだから。

 ……だが、人ではないとしたら、それも果たして可能なのだろうか。

「こんにちは、ルヴァイド」

 ふとした沈黙の訪れた天幕の入り口を優雅にめくって、顧問召喚師殿が微笑みながらルヴァイドの前に姿を現した。
 とたんに感じる冷ややかな空気。
 一気に、周囲の雰囲気が重さを増したような感覚。
 それでなくても気の食わない相手だが、今それを表に出したところで意味はない。
 逆に、いいようにあしらわれるだけだ。
 そう判っているから、ルヴァイドは努めて無表情に、予定外の来客を迎え入れる。
 隣にいたイオスなど、敵意丸出しでレイムを見ているが、その視線は軽く受け流されていた。
「何の用だ?」
「ええ、別に用というほどのことではないのですが」
「用がないならさっさと立ち去ってくれ。こちらの兵たちは行動前で気が立っている」
 くだらないことで時間を潰して、戦意を削ぐ真似はするな。
 ことさらゆるやかに答えるレイムがますます気に入らないのか、イオスの視線が険しくなるが、
「おやおや……気が立っているのはイオス、貴方のほうでしょう」
 見た目だけは穏やかな笑みと口調に、毒気を削がれて口を閉ざしていた。
 妙に口達者なこのレイム、吟遊詩人の真似事をしているというのもうなずけない話ではない。
 そして口の立つ人間というのはことほどさように、他人の意表をつく会話の展開を心得ていることが多い。
 今回も、それは例外ではなかった。
 あくまでも、どこまでも、にこやかに。
 レイムは淡々と、告げる。

さんがデグレアを離脱したそうですね」

「…………!!」

 レルム村での際、を陣営に連れ帰ったことも含めて、兵たちには固く口止めしていた。兵たちは頷いた。それは十分、信頼に足り得る。
 当然、上層部には一文字たりとも、あの子の名前など出していない。
 それなのに。
 逢ったというのか。
 なおかつ、ここでそう云うということは。知っているのか?

「長い有給休暇をとっておられると聞いていましたが……おかしな話ですねぇ。聖女たちの一行とともに、旅をしていたようでした」

 当然だ。それは。
 はそのためにデグレアを離れたのだから。
 何よりも強くそうしようとした彼女自身の心が、をその道に進ませたのだから。
 さすがに、記憶をなくすことまでは予想外だったが。

 それでも心に残った気持ちそのままに、今では大切な友として、はそう決めているのだろう。
 直に答えを聞いたわけではないけれど、いつかの湿原のことばは、そうなのだと悟らせるだけに充分の、意志の具現だった。

「しかも記憶を失っておられるようで……?」

 ここにキュラーがおれば、鬼人と化した忍を放っていたのだと、もしかしたら説明したかもしれない。
 だが現在、この天幕にいるのはルヴァイド、イオス、レイムのみ。よって答えは得られない。
 なおも微笑みつつ話すレイムに、とうとうルヴァイドの忍耐が底をつく。
「何が云いたいの、かはっきりしてもらおうか」
 かなり、いやとんでもなく険の含まれたルヴァイドの声にも、レイムは動じる様子など見せない。
 浮かべた微笑に伴なうは、友愛などではなく、敵意にも似た冷気。
 デグレアで、街で、道で。にはけして見せることのなかった、これがレイムのもうひとつの姿だった。

「連れ戻さないのですか? 記憶がないとは云っても、貴方たちへの感情は残っているかもしれませんよ?」

 そんなことは知っている。
 記憶をなくしてなお、あの子は自分たちに笑いかけたのだから。
「……連れ戻す気はない。そう云ったらどうするつもりだ」
 の行動は、何も知らない者からすればあからさまに裏切り行為だ。
 もし、それをレイムが元老院議会に持ち込めば、ルヴァイドと同じように、烙印を押されるだろう。
 けれど。
 そうだとしてもあの子は動いたのであり、結果は今のこの状況。
「私としても、さんを裏切り者にするつもりはありませんよ」
 なんといっても将来を誓い合った仲なのですから?
「……世迷言は聞かなかったことにしてやる。続きはなんだ」
「……せっかちな男ですね」
「黙れ!」
 イオスがちゃきっと槍に手をかけるが、頭を押さえたルヴァイドは、空いた片手でそれを制した。
 それを見たレイムの笑みが、一層深まる。
「ただ、お教えしておこうと思ったまでです。貴方たちも、大切なさんのことはさぞや心配でしたでしょうからね……?」
 不快感。
 背筋が総毛立つほどの、寒気と嫌悪感。
 微笑というのは、もともと相手を和ませるためのものだろうに、この男が放つそれはどうしてここまで薄ら寒いものになるのか。
「優秀な黒の旅団のことですから、たとえ身内が敵対したとしても、任務達成のために尽力していただけると、私は信じておりますよ」
 ひいては元老院議会も、そう願っておりましょうとも――


 云うだけ云って、きたときと同じように唐突に、レイムは去っていった。
 けれど、あの男の残した空気はまだ、ルヴァイドとイオスをして渋面をもたらしたまま。
「……監視している、と、いうことなのでしょうか……」
 が相手方にいるからと云って、手加減をするようなら、議会に通達する準備は出来ているぞと云いたいのか。
「判らん。だがもとよりそのつもりだ。我々は何も変わることはない」
「ルヴァイド様……」
 何やら云いたげなイオスのことばを故意に意識から除外し、ルヴァイドは天幕を出た。
 気づけば、先刻まで薄闇のかかっていた空は、すっかり夜が明けていた。
 あとを追って出てきたイオスに、感情を殺した声で告げる。
「今は、ローウェン砦を落とすことだけを考えろ。我らの現在の任務はそれなのだからな」
「…………はっ」

 ことばを聞きたかった。何故か無性に。

 だいじょうぶ。と。
 あの子のことばを。

 君のことばがないとだめ。
 いつも元気にそのことばをくれたときの、君の笑顔がないとだめ。

 …………君が、いないと。――だめなんだ。……


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