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第10夜 弐
lll お蕎麦に感じる懐かしさ lll



 とりあえず、ちゃんと身支度を整えようということで、一度道場に帰宅したとアメルは、幸い誰にも見つからずに再度抜け出すことに成功した。
 ちゃんと奥の手もゲットして。
「うぁぁぁん、アメルさん寝てないとだめじゃないですかぁぁぁ」
 じたばたじたばた。
 腕のなかで暴れるレシィを、ぎゅーっと抱きかかえる。
 緑色のくせっけが、ふわふわ頬に当たって気持ちよいやらくすぐったいやら。
 捕われの身のレシィとしてはそんなん知ったこっちゃないらしく、しつこくじたばたばた。

 そう。
 マグナとトリスの知り合いのお蕎麦屋さんなら、ふたりと行動を共にしている護衛獣だって知っているはず。
 洗濯物を干していたレシィがちょうどひとりきりだったので訊いてみたら、案の定だったというわけだ。
 この際、素直に『知っている』と答えた自分の迂闊さを呪ってもらうことにし、はレシィをかっさらってきたのだった。
 当然、質問している間、アメルは目立たない場所に隠れていた。
 だってレシィの性格だから、寝込んでいたはずのアメルが歩き回っていたら絶対騒ぐ。
 ていうか、出てきたアメルを見た瞬間叫ぼうとしたし。もちろん、その前に口ふさいだけど。

 道場からもけっこう離れたし、飲食店街は騒がしいから、ちょっとやそっとじゃ誰も注目しないというところまできて、はレシィを下ろしてやった。
 ただし逃げられないように、しっかりお手手を繋いだままで。

 カーン、とどこかでゴングが鳴る。
 レッツ説得開始。

「あたしたち、別に街の外に出て戦おうってわけじゃないんだから」
「そうそう、トリスさんとマグナさんが話してた、美味しいお蕎麦のお店に行ってみたいだけなんです」
「でもでもでもっ、アメルさんは寝てないとご主人様たちが心配しますっ」

「……そりゃあ、あたしも当初は心配故に寝てろと云いましたが」
「でしょう!? だったら今から一緒にアメルさんを」
「そう思うなら今ここでこうして、アメルと一緒に君を説得してると思う?」
「説得なんですか!?」

 レシィが涙目で訴える。

「両側から微笑みながら見下ろしながらするこれは、説得なんですかー!?」

 は笑顔で頷いた。

「云いきったほうの勝ち」
「……」

「ね、レシィくん。今日だけですから」
「君の分のお蕎麦もおごってあげるから」

 観念して案内しなさい。

「…………」
 とアメルに真正面から並んで迫られたレシィに、もはや、逃げ道は残されていなかった。

「……判りましたぁぁ」

 説得完了。
 カーン。試合も終了。


 そうして奥の手の同意も得られたので、またファナンの街を3人は歩く。
 飲食店街を抜け、商店街を抜けて、いつぞやがお世話になった占い屋(ちなみに留守だった)を通り過ぎて。
「こちらですよー」
 腹をくくったのか、はたまた単純なのか、単に歩くうちに気分が晴れたのだろうレシィが、笑顔でその店を指した。
 赤い暖簾に『あかなべ』と書かれた、木でつくられている素朴な店。
 『屋台』と云うのだと、レシィが自慢げに教えてくれる。
 なんとなく、懐かしい感じ。

「――――おや。あなたはたしか……」

 暖簾をくぐったレシィを、カウンターに立っていた主人らしい男が見つけて声をかける。
 どこかで聞いた覚えのある声だったが、どうしても思い出せない。
 ごく最近に、聞いたような気はするんだけど……それにしても初対面のはずだし。
 思いながら、店主を見た。
 髪を肩までたらして、料理にほこりが入るのを防いでいるのか布で頭を覆い、ケイナのものと感じの似ている服を着た男性。
 にこにこ笑っている目のせいか、なんとなく猫のような印象を受けた。
「こんにちは、シオンさん!」
 元気良く挨拶するレシィを、シオンは微笑ましく眺めて。
 それから、たちに視線を寄越す。
「レシィくんのお友達――ですか?」
「あ、はい! 初めまして、あたし、といいます」
「あたしはアメルです。はじめまして」
「……おやおや。これはご丁寧にありがとうございます」
 問いに応えて頷くとアメルへ、シオンはにこりと笑んだ。
「改めて――はじめまして。私は、ここ蕎麦処『あかなべ』の大将、シオンです」
 うーん、この異様なまでの懐かしさはなんなんだろう……
 シオンの挨拶を耳にしつつも、相変わらず、妙な懐かしさにぼんやりとするだった。
 記憶があったら、過去に置いてきたはずの故郷を思ってさぞかし感涙したろうが、あいにくその引出しはまだ真っ白けである。
 どこかで見た気がする、ちょっと背を丸めて蕎麦をすすっている人たちの姿。立ちこめる湯気や、立てられた割り箸――
「どうしたんですかさん? 座りましょう?」
「あ、うん」
 きょとん、と見上げてくるレシィの声に我に返る。
 笑ってうなずくと、は促されるままにカウンターに腰かけた。

「何になさいます?」

「あたし天ぷら蕎麦」
「月見蕎麦、お願いします」
「…………」
「レシィ?」
 最後のひとりが答えないので何かと思えば、お品書きとにらめっこしつつ、なにやら途方にくれた顔でたちを見ているレシィがいた。
「……レシィ君」
 目の前のちっちゃい護衛獣が何を考えているのか察して、はぽむぽむと頭を叩く。
「何頼んでもいいんだよ? おごりなんだから」
 ぱあぁ、とレシィの顔が輝いた。目がうるんでるようにも見える。
「あっ、ありがとうございますー!!」

 そこまで感激されると、あたしたちがよっぽどどケチかど貧乏みたいなんですが。

 とか云ってせっかくのレシィの感激を台無しにするのもなんなので、は黙っていた。
 こんなときにぴったりの格言を、記憶があったら思っていたかもしれない。曰く、沈黙は金。

 たちこめる匂いで増幅される空腹感と戦いながら、待つことしばし。
「おまたせしました」
 と、蕎麦がみっつ、たちの前に並べられた。
 白い、ほかほかの湯気。両手に持てるくらいの器は、どんぶりと云うんだそうだ。
 割り箸を割るのに少々戸惑ったけれど、それでも3人声を合わせて元気良く、

「「「いただきまーす」」」

 ずずっ、と、しばらくは無言で蕎麦をすする音が響く。
 自分たちは無言でも、周囲の賑やかな話し声があるから、沈黙もそんなに気にならない。
「美味しいです、大将さん!」
「ありがとうございます。そう云っていただけるのが、何よりの励みですねぇ」
 隣で、アメルが楽しそうにシオンと話しているのを聞きながら、も幸せな気分で蕎麦をすする。
 懐かしい味。暖かさ。
 ちょっとだけふりかけた唐辛子が、ぴりっと舌や喉に利く。

 ……懐かしいな。

 ルヴァイドやイオスや、ゼルフィルド。彼らに感じるような、近しいものとはまた違う気持ち。
 どこか遠い場所に置き忘れてきた、もうひとつの大切なものに通じそうな。
「こんなお料理初めて見ました。大将さんの故郷のお料理なんですか?」
 アメルの問いに答えたのは、シオンではなくレシィ。
「シルターン特有のお料理なんだそうですよー。リィンバウムでは、シオン大将さんしかつくれないんだそうです」
「……シルターン……」
 何度かその世界の名を耳にしたことはあったけれど。
 今感じているものを知りたくて、知らず、つぶやいていた。
、もしかして聞き覚えがあるの?」
 声に含まれる微妙な響きを感じ取ったのか、アメルがを覗きこむ。
「おやおや、お客さん? 目元に……」
「え?」
 つい、と。
 アメルとの間に身体を入れて、シオンが腕を伸ばした。
 頬をなでる優しい感触。
 細い指だなぁ、と、ふと思い、同時に、いつの間にか目じりが濡れていたことに、遅まきながら気がついた。
「シオンの大将……」
 顔を上げると、にっこり微笑む蕎麦屋の店主。
「風で張り付いたんでしょうね。小さなゴミがついていましたよ?」
 目に入ると大変ですから、今度から用心しましょうね。
 やっぱり笑顔で、そう告げられて。
 それから、今の一連の出来事に気づいていない様子の、アメルとレシィを見て。
「……はい」
 は、笑ってうなずいた。
 それからアメルに向き直り、シルターンという名前自体には覚えがないことを答える。
 けれど、この蕎麦という食べ物には、なんとなく、懐かしい感じがすることも付け加えて、
「そうなんだ……でも、一歩前進した感じかもね」
 うん、と彼女のことばにうなずいた。
 まるで自分のことみたいに、レシィもうれしそうにうなずいてくれた。
 そのあとは、もう、の記憶については一時お休み。
 レシィのおかげでシオンとも仲良くなれたこともあって、4人で賑やかなひとときを過ごしたのである。



 久しぶりの、元気なお客さんたちが帰る後ろ姿を見送ったあと。シオンは、壁にかけてある時計を眺めた。
「……そろそろなんですが……」
 云いかけて、微笑を深くする。
 ちょっと離れたところから近づいてくる、見知った気配を察して。
「お師匠っ、おひさしぶりですっ!」
 先ほどの客4人分の元気をひとりで表現できる愛弟子が、やってくる日だったのだ。
 ちょうど客もいなくなっていたので、椅子をすすめて蕎麦を食べさせる。
 お師匠のお蕎麦はやっぱり最高ですー!! などと云いつつぱくぱくとたいらげる弟子を、楽しそうに眺めていたシオンだった、が。
 ふと、表情の変わった師匠の様子に気がついた弟子が、意気込んだ様子でなんだなんだと見上げてくるのを、苦笑して手で制する。
「サイジェントの皆は、元気にしていますか?」
「はいっ!」
 打てば元気に寄越される返事。
「あの方々も息災でしょうかね?」
 いつぞや、魔王降臨なるかという大事件に巻き込まれるもとになった少年少女を思い出しながら問うと。
「はいっ、それはもう!!」
 やっぱり元気に寄越される返事。
 けれど、そのことばをつむいだ後、じっと師匠が自分を見つめているのに気がついて、弟子は困惑したらしく、つっと視線を落とした。
 見られる理由が判らずに、戸惑っている様子の弟子に、シオンはもう一度問いかける。

「……たしか、あの人たちの故郷にも、『蕎麦』や『ラーメン』があるという話でしたね、アカネ?」

 興味のなさげな振りをして、しっかりたちの会話を聞いていたシオン。
 やはり上忍、あなどれない。
 そんなことも云ってたっけ、と、叱られたりする類の話題ではなかったことに安堵し、記憶を掘り起こしている弟子を見る彼の目は、微笑と苦笑のミックスジュース。
 それからふと思い出したように、
「アカネさんは、いくつになるんでしたっけ」
「お師匠! 弟子の年を忘れちゃったんですか!?」
 あんまりだ! と顔にでっかく描いた彼女の剣幕に、「いえいえ」と、笑顔で手を振った。
「やはり一年も経つと、人間、どこかしら変わるものですよねえ」
 そのことばをどう勘違いしたのか、
「え? あ、そーですか? あははっ、やだなあお師匠、アタシもそろそろ房術の勉強しなくちゃなーって思ってたんですよ!」
 頬を染めて笑う弟子を、「いえいえ、アカネさんはまだまだ純粋でいられますよ」と撃沈させたシオンは、涙に濡れるカウンターから視線を逸らし、口元に指を当てて首を傾げたのだった。
 はて、これでも記憶力には自信をもっていたんですけれども……――どこかいぶかしげに、唇だけを動かしながら。
 ただ、思考して判断するために必要な手持ちの材料はあまりに少なかったため、彼は結局、小一時間もせぬうちにそれを切り上げ、弟子にカウンターの拭き掃除を云いつけることになるのだが。



「美味しかったね〜」
「また行こうねっ」
「今度はこっそりじゃなくて、堂々と行きましょうね〜?」
 満足げな女の子ふたりに、ちょっと心配そうで、それでもやっぱり楽しそうなメイトルパの少年は、またファナンの道を歩いていた。
 特に目的があるわけでもないので、アメルの体調も考えて、ゆっくりゆっくり。
 とはいえ、実は、途中でなにやら食べ物屋めぐりをしているフォルテとケイナに出逢ったので、内緒で出てきたのも台無しになってしまった。
 まあ、いざ見つかってしまえば、もうこそこそしなくていい。

 それに今日はアメルも一緒だし、云い訳はふたり一緒にやればこわくないっ!

 ……ボクはおふたりが怖かったです。
 拳を握りしめて力説したに、レシィは目を潤ませてそう告げた。


 そうして、ファナンの名物であると云う水道橋に差しかかったときだった。
「そこのあなたたちっ!」

 聞き覚えのある、けれど二度と聞きたくないと思っていた声が、横手からたちの耳を打った。


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