――血液が、体温が。命が。流れ出していくのが判る。
麻痺しきった身体に訴えるのは、凍えるような寒さ。
四肢の先から、それは徐々に身体の内部までを侵蝕しようとしていた。
これが全身を支配したとき、おそらく、すべては終わるのだろう。
……なんて。冗談じゃ、ない。
真っ暗な闇のなか、力を振り絞って立ち上がる。
……立ち上がる?
そんなこと、今の状態で出来るわけがなかった。
では、ここは?
ふと見下ろせば、ほのかに輝く自分の身体が見れた。燐光を発して、闇の中に浮かび上がる自分。
「……あの世?」
つぶやいて、すぐ。違う、とかぶりを振った。
たぶん、ここは――
認識した瞬間、目の前にもうひとつ、輝く人影が現れる。
膝を抱えて丸まっているそれは、自分よりは何歳か年上の女性に見えた。……実際、そのとおりなのだろうが。
それではっきりと、確信する。
ここはたぶん、いわゆる、自分の深層意識とかそういうやつだ。しかも奥の奥――最奥。
殺されかけた衝撃と痛みから、こんなところまで、自分の意識は逃げ込んでまったんだろうか。
「……情けない」
不甲斐なさにため息をつく。でも、それも当然というくらい、あれは痛くて熱くて――本気で死ぬかと思った。
でも、ここにこうしてこの意識があるということは、まだ、身体を離れずにはすんでいるんだろう。
生きてる。そう思うと、外側から暖かい何かが流れ込んできていることに、今さらだが、気づく。
なじみのある、優しい気配。
……これは、アメルのちから?
……アルミネが、いるの?
「!」
指標もないまま頭上に向けていた視線を、ばっと戻す。
そこには白い輝き。――今の今まで眠りこけていたその人が、うっすらと、伏せた瞼を開こうとしているところだった。
「遅いー!!」
『ごめんなさい!』
思わず叫べば、それで、彼女ははっきりと目を覚ましたらしい。目をこすりながら、だけどしっかりした声で、そんな返答が返ってくる。……って、やけに庶民ぽいんですけど。
でも――何となく。守護者と呼ばれた彼女のそんな動作に、違和感は感じなかった。デグレアで彼女が一瞬だけ起きたときのことを、うっすらとだけれど覚えてるせいかもしれない。そうしてそれ以上に、これまで共にあった時間が、つながりが、受け止めることを容易にしてくれている。
そうやって沈黙するをどう思ったか、彼女は、きゅ、と眉根を寄せた。辛そうに。
『……ごめん、ね?』
痛かったでしょう? 辛かったでしょう?
こちらを気遣うような彼女のことばに、だけど、は苦笑して手を振ってみせる。
「あなたが気にすることじゃないって」
ところで。と、まだ何か彼女が云うより先に、つづけた。
「起きるの?」
『ええ』
問えば、殆ど間もおかずに返答がくる。
『彼が大暴走してるのが、わたしのところまで届くくらいだもの……目、覚めてしまうわよ』
愚痴の混じったことばに、そんな場合じゃないと判っていても、は思わず笑い出してしまった。
それからふと――思う。遠い記憶。はじまりの邂逅。
見つけたのはどちらだったか。
それは、問いかけからはじまった。
『どうして泣いてるの? 哀しいの?』
大切なものを、選べなかったの。
たゆたう嘆きは、そう云った。
たったひとつを、選べなかったの。
……置いてきてしまったの。たったひとりを。
世界か彼かしか、選べなかったわけじゃないのに。
くびきから逃れられなくても、わたしは良かったのに。
彼に、そう云えなかったの……
云って再び、嘆きに沈み込もうとした。
『えっと……ごめんね。云ってるコト、よく判らない』
もう逢えない……戻れない……
転生の資格を放棄してしまったから、あの世界とのつながりを絶たれた以上、わたしは彼のところに戻れない――
それを哀しいと――思ったのだと。思う。
『でも、泣かないで?』
……でも、わたしは……
『ひとりはだめだよ、きっと寂しいままになっちゃうよ』
だけど――
『だから』
手を伸ばした。
『一緒にいこう』
え?
『あなたがさみしくないように』
一緒に行こうよ。そう云った。
あたしはもうすぐ生まれるから。
こんなところで泣いていないで、一緒に生まれよう。
生きてたらきっと、何かきっかけがあるかもしれないよ。
だから――一緒に、行こうよ。
一緒に、いつか、あなたの帰る世界に行こう。
出来るの?
うん! だいじょうぶ!!
……呼びかけ。応え。
手をとり。とられ。
あたしたちは、一緒に、あたしの生まれる世界へ生まれた。
――それは、自身が生まれる前のこと。物心つくなんて以前の問題、遠い遠い、本来知り得ぬ魂の寄る辺でのことだった。
そんなの、覚えていろって方が難しい。
けれど、確かに魂に刻まれた記憶。きっかけさえあれば、引っ張り出すくらい可能だったのだ。――もっとも、きっちりはっきりしたのは、デグレアでビーニャに本気で殺されかかったときだけれど。
あのときまで殆ど自覚もなかったものだから、彼女の記憶が自分の方に流れ込んできて、相当同一視してた感が否めなくもない。
……ビーニャ様々、である。複雑だけれど。
だけれど。まいっか。
うん、とひとつ頷くの思考を知らぬ彼女は、不思議そうにこちらを見るばかり。そんな彼女へ、「ところで」と、は問う。
「……ずいぶん、あなたの記憶が流れてきちゃったんだけど。いいの?」
『いいの』ためらいもなく、彼女は微笑んだ。『だって、わたしとあなたは一緒にいるんだから』
そうしてすぐ、『ところで……』と、今度はためらいがちに、
『ずいぶん、その、迷惑も苦痛もかけてしまって……わたし、そろそろあなたと離れたほうがいいかしら』
同じ接頭詞を使って、問いかけてきた。
彼の傍には来れたことだし、わたしも起きられたことだし――彼女は告げて、それから、こう付け加えた。
大切なものを。守りたいものを。この世界に来たせいで、あなたはいくつもなくしてしまった。――わたしに手を伸ばしたせいで。
そもそも、過ごしていくはずだった世界からも、引き離された。
いまも、そんなに傷ついて。
『わたしが、進めなかったから……』
自分こそが泣きそうになってる彼女に対し、だが、は「気にしないの」ともう一度笑う。それから、努めて真剣な表情をつくると、かぶりを振った。
「第一、それじゃ鎖がまた出ちゃう。……エルゴに悪気がなくったって、あなたと世界のかかわりは、そういうふうになってるんだから」
戻ってきた以上、そのかかわりが復活してない保証はないのだ。
これまではおそらく、のなかにいて眠りつづけていたからこそ、気づかれずにすんでいたのだろうから。
『だけど……』
「だいじょうぶ」
まだ迷っている様子の彼女に、びっと親指を立ててみせる。
「あたし、この世界にこれてよかったって思ってるよ」
それにね、
「これが終わったら、みんながきっと幸せになるの。あたしはそう決めたから、そうしてみせる」
だから、信じて。もう少しだけ、待っていて?