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第60夜【破鏡】 参
lll 目は覚めた? lll




 ――血液が、体温が。命が。流れ出していくのが判る。
 麻痺しきった身体に訴えるのは、凍えるような寒さ。
 四肢の先から、それは徐々に身体の内部までを侵蝕しようとしていた。
 これが全身を支配したとき、おそらく、すべては終わるのだろう。

 ……なんて。冗談じゃ、ない。

 真っ暗な闇のなか、力を振り絞って立ち上がる。
 ……立ち上がる?
 そんなこと、今の状態で出来るわけがなかった。
 では、ここは?
 ふと見下ろせば、ほのかに輝く自分の身体が見れた。燐光を発して、闇の中に浮かび上がる自分。
「……あの世?」
 つぶやいて、すぐ。違う、とかぶりを振った。

 たぶん、ここは――

 認識した瞬間、目の前にもうひとつ、輝く人影が現れる。
 膝を抱えて丸まっているそれは、自分よりは何歳か年上の女性に見えた。……実際、そのとおりなのだろうが。
 それではっきりと、確信する。
 ここはたぶん、いわゆる、自分の深層意識とかそういうやつだ。しかも奥の奥――最奥。
 殺されかけた衝撃と痛みから、こんなところまで、自分の意識は逃げ込んでまったんだろうか。
「……情けない」
 不甲斐なさにため息をつく。でも、それも当然というくらい、あれは痛くて熱くて――本気で死ぬかと思った。
 でも、ここにこうしてこの意識があるということは、まだ、身体を離れずにはすんでいるんだろう。
 生きてる。そう思うと、外側から暖かい何かが流れ込んできていることに、今さらだが、気づく。
 なじみのある、優しい気配。
 ……これは、アメルのちから?

  ……アルミネが、いるの?

「!」

 指標もないまま頭上に向けていた視線を、ばっと戻す。
 そこには白い輝き。――今の今まで眠りこけていたその人が、うっすらと、伏せた瞼を開こうとしているところだった。
「遅いー!!」
『ごめんなさい!』
 思わず叫べば、それで、彼女ははっきりと目を覚ましたらしい。目をこすりながら、だけどしっかりした声で、そんな返答が返ってくる。……って、やけに庶民ぽいんですけど。
 でも――何となく。守護者と呼ばれた彼女のそんな動作に、違和感は感じなかった。デグレアで彼女が一瞬だけ起きたときのことを、うっすらとだけれど覚えてるせいかもしれない。そうしてそれ以上に、これまで共にあった時間が、つながりが、受け止めることを容易にしてくれている。
 そうやって沈黙するをどう思ったか、彼女は、きゅ、と眉根を寄せた。辛そうに。
『……ごめん、ね?』
 痛かったでしょう? 辛かったでしょう?
 こちらを気遣うような彼女のことばに、だけど、は苦笑して手を振ってみせる。
「あなたが気にすることじゃないって」
 ところで。と、まだ何か彼女が云うより先に、つづけた。
「起きるの?」
『ええ』
 問えば、殆ど間もおかずに返答がくる。
『彼が大暴走してるのが、わたしのところまで届くくらいだもの……目、覚めてしまうわよ』
 愚痴の混じったことばに、そんな場合じゃないと判っていても、は思わず笑い出してしまった。
 それからふと――思う。遠い記憶。はじまりの邂逅。


 見つけたのはどちらだったか。
 それは、問いかけからはじまった。

『どうして泣いてるの? 哀しいの?』

  大切なものを、選べなかったの。

 たゆたう嘆きは、そう云った。

  たったひとつを、選べなかったの。
  ……置いてきてしまったの。たったひとりを。
  世界か彼かしか、選べなかったわけじゃないのに。
  くびきから逃れられなくても、わたしは良かったのに。
  彼に、そう云えなかったの……

 云って再び、嘆きに沈み込もうとした。

『えっと……ごめんね。云ってるコト、よく判らない』

  もう逢えない……戻れない……
  転生の資格を放棄してしまったから、あの世界とのつながりを絶たれた以上、わたしは彼のところに戻れない――

 それを哀しいと――思ったのだと。思う。

『でも、泣かないで?』

  ……でも、わたしは……

『ひとりはだめだよ、きっと寂しいままになっちゃうよ』

  だけど――

『だから』

 手を伸ばした。

『一緒にいこう』

  え?

『あなたがさみしくないように』
 一緒に行こうよ。そう云った。

 あたしはもうすぐ生まれるから。
 こんなところで泣いていないで、一緒に生まれよう。
 生きてたらきっと、何かきっかけがあるかもしれないよ。

 だから――一緒に、行こうよ。
 一緒に、いつか、あなたの帰る世界に行こう。

  出来るの?

 うん! だいじょうぶ!!


 ……呼びかけ。応え。
 手をとり。とられ。
 あたしたちは、一緒に、あたしの生まれる世界へ生まれた。


 ――それは、自身が生まれる前のこと。物心つくなんて以前の問題、遠い遠い、本来知り得ぬ魂の寄る辺でのことだった。
 そんなの、覚えていろって方が難しい。
 けれど、確かに魂に刻まれた記憶。きっかけさえあれば、引っ張り出すくらい可能だったのだ。――もっとも、きっちりはっきりしたのは、デグレアでビーニャに本気で殺されかかったときだけれど。
 あのときまで殆ど自覚もなかったものだから、彼女の記憶が自分の方に流れ込んできて、相当同一視してた感が否めなくもない。
 ……ビーニャ様々、である。複雑だけれど。
 だけれど。まいっか。
 うん、とひとつ頷くの思考を知らぬ彼女は、不思議そうにこちらを見るばかり。そんな彼女へ、「ところで」と、は問う。
「……ずいぶん、あなたの記憶が流れてきちゃったんだけど。いいの?」
『いいの』ためらいもなく、彼女は微笑んだ。『だって、わたしとあなたは一緒にいるんだから』
 そうしてすぐ、『ところで……』と、今度はためらいがちに、
『ずいぶん、その、迷惑も苦痛もかけてしまって……わたし、そろそろあなたと離れたほうがいいかしら』
 同じ接頭詞を使って、問いかけてきた。
 彼の傍には来れたことだし、わたしも起きられたことだし――彼女は告げて、それから、こう付け加えた。

 大切なものを。守りたいものを。この世界に来たせいで、あなたはいくつもなくしてしまった。――わたしに手を伸ばしたせいで。
 そもそも、過ごしていくはずだった世界からも、引き離された。
 いまも、そんなに傷ついて。

『わたしが、進めなかったから……』
 自分こそが泣きそうになってる彼女に対し、だが、は「気にしないの」ともう一度笑う。それから、努めて真剣な表情をつくると、かぶりを振った。
「第一、それじゃ鎖がまた出ちゃう。……エルゴに悪気がなくったって、あなたと世界のかかわりは、そういうふうになってるんだから」
 戻ってきた以上、そのかかわりが復活してない保証はないのだ。
 これまではおそらく、のなかにいて眠りつづけていたからこそ、気づかれずにすんでいたのだろうから。
『だけど……』
「だいじょうぶ」
 まだ迷っている様子の彼女に、びっと親指を立ててみせる。
「あたし、この世界にこれてよかったって思ってるよ」
 それにね、

「これが終わったら、みんながきっと幸せになるの。あたしはそう決めたから、そうしてみせる」

 だから、信じて。もう少しだけ、待っていて?


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