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第60夜【朔】 伍
lll ただ、走れ lll




 さわさわ、さわさわ、世界が騒ぐ。
 ゆらゆら、ゆらゆら、陽炎が揺れる。
 リィン、リィン、銀が泣く。――泣きつづけてた。泣きつづけてる。

 走りつづける間も感じていたそれは、目的地に近づくにつれ、どんどん大きくなっていった。
 騒いでいる。揺れている。泣いている。
 世界が、結界が、天使の残滓と、それから、ひとつの願いが。
 そこに待つものの予想はしていた。
 そうなっているだろうとは、考えていた。

 だけど。

「うそっ……!?」

 その光景を目にした瞬間、否定を零してしまったのは、そうであってほしくないという希望があったせいだろうか。驚愕したのだけは、たしかだけれど。
 あまりに驚きすぎて、思わずたたらを踏んで転びそうになったところを、イオスがすかさず支えてくれた。いや、支えたというよりか、腰を掴んで引き寄せられたと云った方が近いかもしれない。
 とん、と胸元にを引き寄せたイオスの表情は、だが、驚きというよりも不思議そう。
「どうした?」
「見えないの!?」
 何事かという感じで問うイオスを見上げ、は、思わずそう叫んでいた。
 少し離れた場所では、と同じものを目にしたらしいアメルが、やっぱり同じように、双子に支えられていた。
 遅れることしばらく、追いついてきたルウもまた、蒼白になる。
「……結界が、消えてる……!?」
 ――そう。
 この場にあった天使の結界。
 かつてアメルと感応し合い、黄金の羽によって解かれ――そうして結びなおされたはずの結界が、いまや無残に失せていた。
 どうして自分がそんなもの見えるようになったのか、考えたって判らない。
 ただ判るのは、ここにあった薄いカーテンのようなものが、何か外側から強大な力で引きちぎられた残滓が漂っているということだけ。――実に、無残。
 おそらく仲間のうち、召喚術の心得のある数人は、それを目にしているんだろう。
 トリスやマグナにネスティは云わずもがな、護衛獣たる彼らもそうだ。
 カイナにケイナ、ミニス。ユエルがいぶかしげにしてるのは、召喚術にうとくても、召喚獣という立場からだろうか。
「……おまえさんたちの予想が、当たっちまったのか?」
 レナードのことばに、ぎゅ、とロッカが拳を握り締める。
「手遅れだったということか……!?」
 結界を壊した本人は、先へと進んだのだろう。
 この、身も凍るような禍々しい魔力の残滓を、ここにおいて。

「――レイムさん」

  レイム

 間に合わなかった? 追いつけなかった?

  手は、もう届かない?

 ざわり、と、騒ぎ出すそれを、なんとかなだめなければと思ったときだ。

「いや、だいじょうぶだ!」

 いつになく、強い声でネスティが云った。
「ネス?」
 きょとんとした、マグナとトリスを振り返り、
「メルギトスは、遺跡の内部に入る方法を持っていないはずだ」
 あの転移システムは、ライルとクレスメントの一族にしか反応しない代物なのだから。
 ネスティは、力強く、そう告げた。
 それでも、漂う冷気に凍えそうだった四肢へ、力が戻ってきたのを感じる。ざわつきかけていた、奥のものも落ち着いたようだ。
「ということは、野郎が足止めされてる間に追いつけれりゃ……」
「まだ希望はある、そういうことですね!」
 光を見出し、表情をほころばせるフォルテとシャムロック。
「……ビビらせやがって」
 リューグが苦笑して、斧をかつぎなおした。
 それから彼は、

「おい待てテメ――――ッ!!」

 安堵を確かめ合う暇も惜しいと走り出したの背を、盛大に怒鳴りつけたのである。

 勿論、その後一同全力ダッシュにとりかかったことは云うまでもない。



 後続の人たちの気配が、ついでに一部の怒声が、だんだんと遠くなるのはわかっていた。
 いつどこから、悪魔が出てくるか判らないことにも、危機感を覚えはしていた。

 ……だけど。

 気は逸る。心は急く。

 比例するように、周囲を過ぎ去っていく景色は申し訳程度の残像を網膜に残していくばかり。無造作に伸びた木の枝が、顔や剥き出しの肌の部分に小さな傷をつけていく。
 その痛みを感じる間さえ惜しくて、ただ足を動かした。
「ッ!?」
 弾んでいた髪の一房が、枝と葉に絡め取られる。
 解こうと手を伸ばしたものの、急ぎすぎているせいか、まともに動いてくれやしない。
 それどころか、よけいにもつれさせているような気さえする。
 だもので、諦めた。枝を放した手で、腰の短剣を引き抜く。

 ブツッ、と、髪を切り落とす。

 未練のかけらもなくそれを一瞥して、再び走り出す。

 急がないと。追いつかないと。
 今心を占めるのは、ただ、それだけだった。

 遠い昔に途絶えたままの歌の結末を、今度こそ。
  応えきれなかった答えを今度こそ

 あのとき自分が応えたことの責任を、今度こそ。
  こうしてここに生きてきた意味を今度こそ

 遥かな魂たちの寄る辺で、出逢って。嘆く彼女に、自分は確かに手を伸ばしてしまったのだから。
 だから、彼女は自分と共にここに在る。
 
 【彼女】は、この世界に在るのだ。

  わたしは

 だから。

「――――レイムさん、待って!!」

 機械遺跡の前に立つ、そのひとの後ろ姿に。は、全身の力をこめて叫びかけた。


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