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第60夜【朔】 参
lll それは砕け散る lll




 黒い黒い、淀み。
 深い深い、闇。
 怒り、悲しみ、恐怖。断末魔の絶望。
 大平原で繰り広げられる戦いから生まれる、行き場をなくした感情のうねりは、ちょっと手を加えてやるだけで、彼のもとへと流れ込む。
 ニンゲンならば発狂しかねないその奔流は、彼にとって甘露でさえあった。

「ふふふふ……っ」

 アルミネスの森。
 その奥に続く、結界の前に立ち、彼は、ひとり笑う。
 自らの力となる、黒い淀みを一身に受けながら――嗤う。
「……ふむ」
 笑みを貼り付けたまま、ふと、森の奥に意識を走らせた。
 感じる。
 召喚兵器の放つ脈動。
 機械遺跡の冷たき気配。

 かつて、天使アルミネとの戦いによって失った、己の力の残滓。

 以前訪れた、あのときと変わらぬままに。
 それがそこにあることを知り、そうして、口の端を吊り上げる。

 ふと。
 何事か思いついたように、彼は手を伸ばした。
 その先には、当然のように結界が在る。
 そしてこれも当然のように軽い火花が生じ、手は弾かれた。
「……よくもまあ、こうも長い間、たゆたい続けていたものです……」
 それでも、死者として残滓としてでなく、生者として守りつづけた彼女の心には比べるべくもないのでしょうけれど。

 彼女も、天使も。
 どうしてこんなにしてまで、ニンゲンを守ろうとするのか。
 脆弱であり、狡猾であり、さもしくもあり……
 自らの保身のためならば、他のあらゆる矛盾に背を向け、ただ与えられる平穏を甘受する。

 彼女も、天使も。
 どうしてそれでいいと、微笑んでいたのだろう。

 ――遠い昔に、彼女は、

  わたしはそれでも

 その答えを告げてくれた気がするけれど……?

 ――かぶりを振った。
 もはやどうでもいい。
 自分は力を取り戻す。それ以上の力を手に入れる。
「その方法は、ただひとつ……この先に」
 自分目掛けて押し寄せる、負の感情のうねりを、すべて力と変えて。膨張させ、肥大させ、糧とする。
 自分は力を取り戻す。強大な力を手に入れる。

 ……それは、何のためだった?

 リィンバウムを手に入れる。
 いや、この力を以ってすれば、他の四界さえもを手中におさめることも、難しくはないだろう。

 ……手に入れて、どうするの?

 いつかの夜、占い師と話した詩人は、どこにもいなかった。
 ここにいるのはサプレスの悪魔。
 うねる負の感情を吸い尽くし、力と変え、そうしてリィンバウムを手中におさめんとする、悪魔がただ、いるばかり。

 ……その願いを抱いた礎、最初の望みは、なんだったの?

 そうしようとしている、悪魔の。
 望みは――

「さあ、受けるがいい」
 忌々しき、天使の結界よ。

 問いは届かない。
 遠い王都で、酒を前につぶやいた占い師のことばは、ここには届かない。
 願いは届かない。
 彼の手首で悲しく揺れる、銀細工の音は、彼の耳に届かない。
 視線は交わらない?
 追いつこうと走ってくる少女を、待つことさえも、しやしない。

 力を収束させる。
 淀んだ光が、手のひらを中心に迸る。
「天使よ……これが、貴様が守ろうとしたニンゲンの感情だ」
 彼女が守ろうとした、ニンゲンの醜さだ。

 思い知れ。
 守ろうとした存在たちの、醜さを。
 思い知りなさい。
 守ろうとした存在たちの、愚かさを。

 ――さあ、

「砕け散れェェェェェェッ!!」

 何もかも。そう、最初に抱いた、その望みさえも。



 パァン、と、実にあっけない音を立てて。


 砕け。そして散った。


 ――リィン、
 手首に揺れる銀の音は、哀しそうに泣いていた――


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