あたしは、。他のなんでもないの。
この物語の幕が開く前、そう云って笑った少女がいた。
――今、リューグの目の前にいる当人だ。
夜半過ぎ、湯浴みを終えて部屋に戻る途中、廊下で遭遇したは白い寝間着を着ていた。
月明かりに淡く輝くその姿は、かつてのアメルを思わせるような儚さ。
一瞬、心臓が本気で止まるかと。消えてしまうんじゃないかと、思ったくらいだ。
「明日」、
ふわり。は笑う。
「頑張ろうね」
「……ああ」
そんな彼女を覆う月明かり。――それはまるで、白い陽炎。
「じゃ、おやすみっ」
そう云って、笑みを軽やかなものに変え、は身を翻そうとしたけれど、
「?」
咄嗟に伸びてきて彼女の腕を掴んだリューグの手を、不思議そうに見下ろした。
なんら警戒も不安もない視線と仕草に、リューグのほうがどぎまぎしてしまう。こちらとて、そういう意図があったわけではないのだが。
「……あのよ」
「何?」
既視感。不意に。
いつだったろうか。たしか此処に似た場所で、こんな風に、の腕をつかんで引きとめた。
その腕の細さに、驚いた。
今もたぶん、そんなに変わっていないだろう。
これまでの戦いで、お互い、鍛えられた分はあるかもしれないけれど。
……変わらない。
この子は出逢ったときと同じ眼をして、自分を見上げている。
腕をつかんでいた手に、力を入れて引き寄せた。
とん、と、胸に軽い衝撃。かすかな香りが鼻孔に届く。
少し――くらり、とした。
そのやわらかさも。ぬくもりも。
そうだ。あの日に思った。守ろうと。守りたいと。
……記憶があろうがなかろうが、彼女が彼女であるのなら。
守ろう。そして生き、歩き出すのだ。
だから告げる。
「――生きて帰るぞ。絶対にだ。俺もおまえも、全員」
「うん!」
「約束だからな。守れよ?」
「守るよぅ」
信用ないなぁ、つくづく。
ぱっと顔をあげて笑うを解放してやると、もう一度、夜着が月明かりを散らして翻った。
戻ってきたいつもどおりの空気のなか、リューグも普段するように応えを返す。
「前科がありすぎなんだよ、おまえは」
「ごめんごめんごめん」
謝罪にならぬ謝罪をして、は、明るく笑ってる。
「でも今度ばっかりは頑張るよ! ちゃんと還ってきたいもんねっ!」
――微妙なニュアンスの差異には、気づかない振りをして、リューグも笑った。
「なあ」
そうして、それぞれの部屋に戻るべく歩き始めたの背へ。
これで今日は最後にしようと、声をかけた。
「おまえはさ、自分が誰だったか詳しく云わねえけど、つまり――」
昔話。紡がれる欠片たち。
リィンバウムの守護者と、悪魔たち。
白い陽炎。
顕現した力。
イコール?
「あたしはだよ」
は、笑う。
「他の誰でもない」
夜色の双眸に、真っ直ぐリューグを映し、そこに立つ。
「あたしは、。この気持ちを持ってる、ここにいる、だよ」
そう云って。
いつかすべてが始まる前、笑った少女がいた。
それは、目の前で同じように笑い、そうして歩き出しただった。
その答えに、どうしてか大きな安堵を覚えて。リューグもまた、足を踏み出した。