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第55夜 伍
lll 問いをひとつ lll




 ひゅうひゅうと、まるで隙間風のような音。
 それはまだ、ビーニャが絶命していない証だった。
「イタイ……イタイッ……イヤ……ッ」
 単語と単語の間に、その音はする。
「なんで・どうして・アタシが……こんな目に……ッ」
「……戻ってきただけだよ、ビーニャ……」
 召喚主たるビーニャが魔力を失いかけているせいだろう、次々とメイトルパへの光に包まれる魔獣たちを見ていたミニスが、振り返った。
 その足元には、先刻の戦いで命果てた魔獣の屍もある。
 すぐにそれも、こちらは輪廻への光に覆われようとしているけれど。
「魔獣たちに、それに、黒騎士たちに……レルム村の人たちに与えた苦しみが、まわりまわって、戻ってきたの」
「……イヤ……たすっ……け……ッ、レイムさ……」
 ミニスの声が聞こえていないのか、虚ろな双眸を天に向け、ビーニャはそう繰り返していた。
 苦い思いでそれを見守り、双子はアメルと顔を見合わせる。
 ――復讐なんて、本当に、後味が悪いばかりだ。
 ましてや黒騎士にそれを行った日には、もっともっと苛まれるような感情があったかもしれない。
「トリスさん?」
 レシィをフォルテにおぶってもらい、倒れたままのビーニャに足を踏み出したトリスを見て、シオンが声をかけた。
 小さく頷いてみせ、トリスは、ビーニャの横に片膝をつく。
「……ビーニャ。ひとつだけ教えてくれる?」
 それは小さな小さな、疑問だけれど。
「彼の名はメルギトスなんでしょう? どうして、あなたは隠す必要がなくなっても、レイムと呼んでいたの……?」
 違和感を覚えたのは、ついさっき。
 気づいたのも、ついさっき。
 『レイム』
 その名前は、今ではとビーニャが呼ぶだけなのだと。
 は判る。6年分の習慣というものがあるんだろうから。でも、ビーニャは? メルギトスという大悪魔がサプレスにいたその頃から仕えていたのだろう彼女は――どうして?

 問いに、ビーニャは、呼気とも笑いともつかない音を零した。
「……決まってる……」
 つむがれる答えは――答えかどうかさえも、さだかではない。
「そ……が、今……レイ……前…………から、……よ……」
「え? ビーニャ、もう一度……」
 だが、重ねたトリスの問いに、ビーニャは応えない。クク、と、かろうじてだと判る笑みをこぼし、
「…………アンタ……ちに、……少し、だ……感謝……げる」
「――ビーニャ?」
 ビーニャは云った。
「……、ちゃ」、
 常にあった哄笑の欠片もなく、ただ静かに、ゆるやかに。
 呼ばわるその名は――数年を共にあった、少女の名。
「壊れ……、は……見た……」主の絶対を信じている。あの存在の目覚めを確信している。けれど。「……なか、た……から……」


 ――ちゃん。
 呼ぶ。振り返る。呼び返し、そして笑った。笑いあった。
 雪降る街で過ごした数年。
 アタシとアンタ。ニンゲンと、ニンゲンのふりした悪魔。
 ――それは、トモダチってモノ、だったのかな――


「―――」
「……トリス」
 ミニスが、トリスをビーニャの傍から離した。
 同時に巻き起こる、赤い黒い、淀みの風。
 中庭の砂利や土を巻き上げたその風は、顔を覆ったトリスたちが腕を解いたときには、ビーニャの姿をも消し去っていた。
 最後の砂が地に落ちる際、リューグが、かすかに目を細めてつぶやいた。
「……悪かったな」
 前言撤回するよ。
 テメエは、きっと――



 魔獣の名残もビーニャの屍も消えたギエン砦の中庭に、トリスたちはしばらく留まった。
 レシィの回復を待つ意味もあったし、西に進軍しているはずの屍人の軍勢のこともあったからだ。
 ふと――そちらを見上げる。
 中庭から行ける見晴らしのいい物見台に立ち、目をこらし、耳を澄ましているアメルを。
 何やら捜すようにしていた彼女は、やがて、耳に当てていた手をおろすと、地上のトリスたちに手を振ってみせた。
「……問題なし、みたいね」
 その手の動きを読み取って、ケイナが、ひとつ息をついた。
 緊張していた空気が、そこでようやっと、緩和し始める。
 が、我関せずと緊張感など放り出していたらしいフォルテが、
「おい、リューグ〜……」
 地の底から響きそうな声でもって、アメルを見上げていた双子の片割れを呼ばわった。
 いぶかしげに振り返るリューグへ、
「さっきおまえ、もんのすごい力で俺の剣の上に、斧、叩きつけてくれたなぁ〜……?」
 愛用の剣に傷がないかどうか念入りに眺めつつ、ずずいと詰め寄っていく。
 そのおどろおどろしたフォルテの様子に、先ほど悪魔に向かって盛大な啖呵を切った彼は僅かに後ずさり、しどろもどろにこう応じた。
「い、いや……悪かったよ」
「もし折れてたら、弁償しろよな!?」
「な――おい、本気か!? 俺たちは、ろくに稼ぎも――」
「はっはっは、なんだったらいい闘技場紹介してやるよ。おまえの腕なら即優勝だ!」
「闘技っ……!?」
「がんばってこいよ、リューグ」
 あっという間に今後の人生まで決められかけている弟の窮地をさらに追い詰めるべく、にこやかに、ロッカまでもが割り込む始末。
 いつもなら裏拳かますケイナも、さすがに今回のそれは正当だと思っているのか、苦笑して見守るばかり。……シビアだ、傭兵。
 そんな騒ぎの真っ只中、シオンに抱えられるようにして物見台から下りたアメルがやってきた。双子+1のやりとりを微笑ましく眺め、その他一行に話を切り出す。……聖女もシビアだった。
「屍人の気配はありませんでした」安心させるように、少しだけ哀しそうに、彼女は微笑んだ。「――もう、還ったんだと思います」
 それに、とシオンが付け加える。
「もしまだ姿を保っている者が西に辿り着いても、かの地には方々が勢揃いしていますからね」
 力の減じた屍人兵など、彼らにかかれば一網打尽でしょう。
 頷き――それから、ふとその場の視線が集中したのは、トリスの膝で健やかな寝息を立てているレシィ。
 傷の方は、アメルの力やトリスの回復召喚術で全員がなんとかなったため、体力さえ回復すればあとはよし。
 ただ、光の角は消えてしまっていた。あれは、彼の心が生み出した、いっときの幻だったのだろうか。今はただ、折れた角が元通り、その頭にあるばかり。
 ――でも。角が折れていようが輝いていようが、そんなもの、なんの関係があろう。
 ただ彼を、誇らしく思う。
「レシィ、がんばったわね」
「……うん」
 にこにことしたミニスのことばに、トリスもやはりにこにこと頷いた。
「そうだ」
 今度サイジェントに遊びに行くときには、一緒に行かない?
 ちょっと気の早い提案に、どうして? と問えば、ミニスは何やら楽しそうなことを思いついたように笑う。
「サイジェントの私の友達の住んでる処にね、レシィとおんなじ種族の子がいるのよ。族長の娘なんだって」
「へえ、そうなんだ。じゃあ、いい友達になれるかもね」
 にこにこと会話するふたり。
 が。
 ミニスのことばが発されたとき、ピクリとレシィの耳が動き、うっすらと脂汗が浮かんだのを、たぶん誰も知らない。――そんな条件反射を起こすよーな何を、彼が経験したのか。それもたぶん、誰も知らない。
 そうして、誰かがレシィの悪夢に気づくより先に、フォルテがこんなことを云い出した。

「で……どうすんだ?」

 いつになく真剣に見えるその表情に、一同は、きょとんと彼を見る。
 これ以上、何か今後の動向で、この場において相談しなければならないことがあっただろうか。
 疑問の視線に応え、再びフォルテは口を開く。
「レルム村の事件だよ」
 ――炎の夜。彼らにとって、すべてのはじまり。
「……あいつの云ってたことが本当だってんなら……」
「いや、云わねえでおこうぜ」
「リューグ?」
 ことばを選びつつ話すフォルテよりを遮って、リューグが一言、つぶやいた。
「でも、は気にしてるのに」
 いいの?
 アメルの問いには、ロッカが応じる。
「黒騎士なら、きっとこう云うよ。『その命令に従い、実際に手を下したのは自分自身だ』とか……ね」
 そして困惑するだろう。
 魔獣使いは――ビーニャはもういないのだ。
 と共有する、いささか奇天烈に富んだ故郷での記憶もある。
 ふたつの要素でもって、おそらく。
 第一、それ以上に、今さらそんなことを皆に話すとしても――それでわだかまりが一気になくなるかといえば、首を傾げる要素が多すぎた。逆に、よけい微妙な空気が広がりそうな気がする。
 ……それに。
 そんなクッションを置かなくても、いつかはきっと。
 そう思う。思えるようになっている。

「だから、もう、いいんだよ」

 ロッカのことばに、
「……うん」
 ゆっくりと、アメルも微笑みを浮かべて頷いた。

「それに、は結局ルヴァイドのこと、全面的に信じてるもんねぇ」
 もっともそれが、兄さんにとっては最大の難関なんだけどなぁ。
「……」
「……」
 方向違いのことで悩むトリスに、呆れたような視線が集中したのは、とりあえず当然のことだったといえるだろう。


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