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第55夜 参
lll 勇気の在り処 2 lll




 足元に落としていた視線を上げた瞬間、こちらに向けて走ってくる人たちが見えた。
 みんなだった。
 呼びにいって、と、頼まれた人たちだ。
 来てくれた。
 助けてくれる。
 そう。助けて、って、お願い――するために、みんなのところに。

 逃げる?

 ……違う!

「レシィ!?」

 驚愕も露、自分の名を呼ぶ声を背に、レシィは走り出した。


 ほのかに感じる、あたたかい何か。
 それが、トリスを守っていた。
 なんだろう?
 よく知っている力のような気がするけれど、ひどく微弱でよく判らない。
 その暖かい何かは、軽傷程度ならすぐに癒してしまう。
 ほんのわずかだけれど、体力の消耗が予想より少ないのも、それのせいなのだろうか。
「ギャウウウゥゥッ!!」
 けれど、疑問をつきつめる暇はない。
 飛びかかってきた魔獣の姿が視界の端に入るや否や身をかがめたトリスは、その喉を狙って、短剣で一気に貫いた。
 唾液と血が腕を汚すけれど、そんなの気にしてもいられない。
 もうすでに、自分と魔獣の血と土で、服なんてぼろぼろだ。
「……なんかつまんないなァ――」
 こちとら充分に死に物狂いであるというのに、まだ足りないのか。ふざけたことを云いながら、ビーニャが雷を落とす。
 避けた先に大口を開けて待っていた魔獣の口内には、ロックマテリアルを叩きこんだ。
「やけに粘るけどォ、いい加減諦めたらァ?」ことばをつむぐ間に、彼女のテンションは上昇していく。「 それとも諦めるってコトバ自体知らないワケ? キャハハハハハッ!!」
 自分で自分の云ったコトがそんなに面白かったのか、しまいには、爆発的な笑い声まで伴なった。
 笑って――けれど、はたと何かに気づいたようにトリスを見ると、ビーニャは不快げに眉を潜める。
「……何よそのカオ」
 と、云われても。どんな顔してるんだろう。
 もはやそんな感覚さえないけれど、
「諦めくらい知ってるわよ。諦めたりなんかしないけど」
 云い返さずにはいられない、これも性分なんだろう。

 ――だって、ほんとうに、自分たち兄妹ってば諦めが悪かったりするのだから。

 思い出す。
 マグナがいつもにこにこしてて、何云われてもたいていのことはさらっと流して済ませてたこと。諦めてるみたいなそれが悔しくって、何かと云い返すのは、幼い頃から自分の役目だったこと。
 最終的に自分が負けてしまって、結局マグナがかばってくれていたということも。
 でもいつからか、判ってしまった。
 兄は諦めていたんじゃなくて、ただ、不必要な騒動は起こしたくなかっただけなんだって。
 誰かを傷つけるって、傷つけた本人も辛いんだ。
 だから、自分たちが我慢すれば。それだけ、騒ぎも痛みも起こらない。
 それは諦めともとれるだろう。
 けれど、少なくともマグナは、いつも飛びかかりたくなる衝動と戦っていたのだと――そう。いつからか、トリスは知っていた。
 知らずにいれる、わけがない。
 だって、この世でふたりきりの、兄妹なんだから。

 そして兄妹は、諦めなどしなかった。
 騒動を避けるしたたかさも、苦手な勉強を逃げ出すすばしっこさも、兄弟子をやりこめる生意気さも。少しずつ、時間をかけて手に入れた。
 ――召喚師は目標だ。だが、それを人生のすべてにする気はなかった。
 あの派閥においてさえ、そんなもの、自分たちの存在になんら障害を与えるものではないのだと。
 まあ、そんな不真面目見習いでも、試験とおってしまったのだから、某師範が腹立てたのも……今なら少しだけ、判らないでもないかな。

 諦めたことなど、ありはしない。
 兄と引き離された幼い日でさえも。力尽きるまで、求めて望んで喚いてた。

 ……諦めかけたのは、あの闇に落ちかけた一度だけ。その一度だって、手を伸ばしてくれた人がいた。
 だから、

「諦めたりなんか、しないわよ」

 兄妹は、ここにいる。

 繰り返す。諦めない。と。
 そうして歩きつづける人たちを知ってるから。
 傍で見てきたから。
 ――これからも、傍にいるから。いるために。

「あたしは絶対に、諦めたりなんかしない!!」

 叫んだ瞬間。
「――!!」
 それまでの比でない強大な魔力が、トリスの真横を薙いでいった。
 起こった静電気が、髪にぱちぱちとまとわりつく。
 不機嫌全開の表情で、ビーニャが無造作に手を振った。
「……いい加減、アンタで遊ぶのも飽きちゃった」
 アンタなかなか倒れないし。つまんない。
 にいぃ、と。
 浮かべた嗤いは目にした相手に絶望を投げるか。だがそれでも、トリスは短剣を放さず、四肢に、出来る限りの力をたくわえる。

「そろそろ、本格的に壊してあげるゥッ!!」
「やめろおォォォッ!」

 そして。
「え」
 走りこんできた人影を見て、トリスは目を丸くした。

「……レシィ!?」


 傷だらけ、泥だらけのその人を庇うように、対峙するビーニャとの間へ身体を入れた。
 心臓は、走ったせいだけではなく、ドキドキしてる。
 緊張。怯え。恐怖。消えてない。まだ胸にある。
「バカ! どうして戻ってきちゃうのよ!?」
 だけど。
 背中側のその人のことばに応えて、レシィは口を開く。
「ボクが、護衛獣だからです」
 怖い。恐ろしい。戦いは嫌だ。怪我は痛い。消えてない、負の感情。
 そんな何もかもを、だが、消えぬならそれでいいと。覆って凌駕するものが、こんな自分の心にもたしかに存在することに、気づけたから。
「護衛獣の使命は、主人である召喚師の傍にあってお守りすることです」
「……レシィ」
「みんな同じです。みんな大切です」
 でも、と、つづけた。
「ボクは何より先に、貴女の護衛獣なんです!」
 あの夜を覚えている。導き出してくれた、の手のひらを。
 だけど、喚びかけの声はこの人だ。
 ボクは護衛獣として、この世界に喚ばれた。喚ぶ声は、この人のものだった。

 ――ボクが、それに、応えたんだ。

 他の誰でもなく。ボクが応えた。
 誰に決められるわけじゃない。この在り方を選ぶのは、ボク自身。

「ボクは逃げない!」

 そのために。
 ここで選ぶのだ。

「逃げないで、貴女を守ってみせる!!」

 キッ、と、睨みつけた先。
 メイトルパの召喚術を弄ぶビーニャが、嗤う。
「キャハハハハハハッ! 角の折れたメトラルに何が出来るってのさ? ばーか!!」
 作り出しかけていた魔力球へ、彼女はさらに力を注ぐ。
「アンタが先に壊れちゃえェェッ!!」
 投げつけようと、振り上げられる手を、視認した瞬間。
 ドクンドクンと脈打っていた心臓の鼓動が、一気にはねあがった。
 目の前が白く霞んで、全身の血が噴き出すんじゃないかってくらい身体が熱くなって、熱くなった何かが頭に一気に集まって――

「うあああああああぁぁぁぁぁあぁぁあ―――――!!」

 光が、力が、迸る。


 そのまばゆさに、トリスは思わず両腕で目を庇っていた。
「……なっ……!?」
 まるでこちらの気持ちを代弁しているかのような、驚愕に染まったビーニャの声。それが聞こえるのと同時に、ゆっくりと、腕をおろす。
 ――そうしてトリスもまた、同じように、驚愕を覚えて固まってしまったのである。
「グギャ……ッ、グルルルッ……!?」
「ガルアァァッ……!」
 ぴき、ぱき。
 聞こえるはずもない、そんな音まで聞こえだしそうな。
 錯覚も、だが、仕方がない。その場にいたすべての魔獣たちが、余すところなく、その身を石に変えだしていたのだから。
 もだえ、抵抗しても、彼らの石化は止まらない。
 トリスとビーニャ、ふたりが期せずして、ともに呆然と見守るなか、魔獣たちの鳴き声は、次第に小さくなり――そうして、まったく聞こえなくなった。
 そうなってから、
「メトラルの魔眼……?」
 ぽつり。つぶやいたビーニャが、「違うッ」と、己の考えを否定していた。
「こんな、いっぺんになんて……そんな桁外れの力……ッ」
 ぶつぶつと、彼女はなお、は何かをつぶやく。
 そうして。ハッ、と、何かに気づいたように、レシィを振り返った。

「まさか……今までに一匹しか使えなかった、伝説の審眼ッ!?」

 つられ、トリスもレシィを見た。
「――レシィ」
 いつの間にそうなったのだろう。
 折れた角があったはずの場所に、光り輝く大きな角を出現させたレシィの姿がそこにあった。
 彼の姿を見たビーニャが、初めて、恐怖にも似た感情を露にした。
 その彼女に向けて、レシィが一歩踏み出す。やわらかな弧を描いていた眉を、キッ、と鋭く吊り上げて。眼光もまた、それに相応しく力強い。
 放つことばも、同じく。
「……ご主人様は、ボクが守る」
 誰にも、傷つけさせない!
「く、くるなッ!! イヤアアァァッ!!」
 レシィの背中側になってしまったトリスからは、もう、彼の表情は見えない。
 恐怖に表情を歪め、身悶えるビーニャの姿が映るばかりだった。

「くるしィッ……息がッ! 血がァッ!? 止ま……ッッ!?」
「レシィ!!」

 苦しみつづけるビーニャを、呆然として見ていたトリスは、だが、はっ、と気づいてレシィの肩に手を置いた。
 そのまま、半ば力任せに自分のほうを振り向かせる。
 ――若草の双眸。
 ビーニャに向けられていた敵意も鋭さもなく、その眼が、不安げな色に揺れているのを見て、何故だかほっとした。
「あたしは無事よ。だから、レシィ。もういいの……」
 ごめんね。
 戦いの只中で、こんなこと云っちゃいけないかもしれないけど。
 この子に、誰かを殺めることを覚えてほしくなかった。
「ごしゅじ……さま……?」
 息も荒く。
 目はどこかかすみ。
「……よかったぁ……」
 疲れきった様子――それでも、レシィは微笑んで――ふ、とそのまま意識を失う。
 心地好い重みがトリスの腕にかかったと同時、
「――ハァ」、
 レシィのそれよりずっと荒い息が、前方からこぼれた。
「はッ……ハァ……っ……な、なによ、驚かせちゃって……体力切れで倒れてんじゃない、バーカ……」
 一命をとりとめたビーニャが、息を整えつつ、そう云った。
 視線を転じ、トリスは目を見開く。
 まだ魔力が残っていたというのか、魔獣使いは新たな僕を召喚するために、淀んだ若草色の光を放つ――!


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