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第55夜 壱
lll 砦で待ち受けていたもの lll




 辿り着いた目的地――ギエン砦は、静かだった。
 静かというよりも、気の重くなるような静寂に包まれている、と云った方が、より詳しいかもしれない。
 荒らされたような感じはしないが、人の気配がまったくない。
 いつか、何度か見たものを、否応なく思い出させる光景だった。
「……もう、軍は西へ進んでしまったんでしょうか?」
 解がどちらにせよ、西へと抜ける街道へ出るには、この砦を通り抜けなければならない。
 人っ子ひとりいない、開け放たれた門を抜けて歩きながら。不安そうなアメルのことばに答えるのは、シオンだ。
「いえ、そうではないようですよ」
「なんで、そんなことが判るんだ?」
 時折あたりを確認しながら、リューグが問う。
 ――が、やはり本職のほうが、そういったことの察しは鋭いようだった。
 ちらりとリューグに目をやり、シオンは腕を持ち上げる。そうして、砦の一方を指し示した。
 一行が歩いていた中庭の、反対側の出口に通じる門――その上に佇む、人影を。
「もしも進軍したのであれば、指揮者がこんなところにいるわけもありませんからね」
 軍隊は屍人。操り人形。
 操る者がいなければ、その場に佇むばかりの木偶。
 操る者は? ここにいる。

「キャハハハハハハッ、いらっしゃい! トリスちゃん、聖女ちゃん?」

 一行が気づいたのを見てとって、人影――ビーニャが、高らかな笑い声をあげた。
「ビーニャ!!」
「こんなトコまでわざわざ死にに来るだなんて、ご苦労様だねェ?」
「それはこっちのセリフだぜ!」
 云うが早いか、リューグが斧を構えて駆け出そうとする。
 が。
「待て!」
「ぐぇっ。」
 カエルの潰されたような声をあげて、襟首をひっつかんだロッカの手によって、リューグは引きとめられた。良い子も悪い子も危ないから真似するな。
 さてそんな理不尽な目に遭わされた弟は当然、兄にくってかかるわけだ。
「何しやがるテメエ!」
「考えなしに特攻するなと、何度云えば判るんだ!」
「先手必勝って言葉を知らねぇのか!!」

「……アンタら何しにきたのヨ。」

 唐突に始まった双子漫才に、冷め切ったビーニャのツッコミが入る。
 敵方にツッコまれた双子が固まった横を抜け、一歩前に出たミニスが、びしっと彼女を指差した。
「勿論! 西に向かった軍隊を止めにきたのよ!」
「――ふゥん?」
 にやにや、ビーニャが含み笑いを浮かべて一行を見る。
「一応訊くけどォ、どうやって止めるつもりなわけ?」
「どうせ軍の指揮は貴女が握ってるんでしょう?」
「なら、おまえさんを倒せば、俺たちの目標は達成されるってわけだ」
「あ、そうなんだ」
 にーっこり。
 フォルテとケイナのことばに、ビーニャは口元を極端に吊り上げ、笑みをますます深くした。
 その表情のまま、つ、と腕を持ち上げる。
「それなりの覚悟はあるわけね? ――じゃァ、アタシも思いっきりやらせてもらおっかなァ」
 ちゃんが来てたら困ったけど、いないみたいだしねェ?
 そう、ビーニャは告げ、

 パチン、

 指を鳴らした。

 とたん。

「……っ!?」

 トリスの横にいたレシィが、一瞬にして青ざめ、身体を震わせた。
 それに遅れること少々、トリスたちの背にも、おそらくレシィが感じたものと同じような悪寒が這い上がる。
「――魔獣!?」
 あたり一帯を埋め尽くすような数の魔獣が、そこに出現していた。
 トリスたちの周囲はもちろんのこと、中庭を囲むように張り巡らされた壁の上にもその影は見える。
 魔獣たちの咆哮が、あちらこちらから轟いた。
 多重音声極まれリ、とでも云えばいいんだろうか。変な風に反響して、鼓膜がおかしくなりそうだ。
「なんて数……っ」
 四方八方、正に魔獣が埋め尽くす。
 せめてビーニャからはと思いながら、トリスはレシィを後ろにかばう。
 そこに響く、ビーニャの笑い声。

「キャハハハハハハハッ! ばーか? 待ち伏せしてたのに気づかないなんてねッ!!」

 みぃぃんなまとめて、壊れちゃいなァッ!!

『グガルルアアアァァァッ!!』

「――チィ!」
 ビーニャの声を皮切りに、魔獣たちが一斉にトリスたちめがけて飛びかかる。
 迎え撃つべく、双子とフォルテ、ケイナが、まずそれぞれの武器を構え――
 けれど。
「退きなさい!!」
 煙玉を地面に叩きつけたシオンの声に、臨戦体制は解かれる。
 その瞬間に、全員が察した。
 まともに戦ったのでは、この数の魔獣には勝てないということを。
「あっちに!」
 魔獣たちの包囲が比較的薄かった出口を指し、ミニスが叫ぶ。
 その声に従って、一同は走り出した。
 トリスもまた、レシィを促して足を踏み出そうとした。
 けれど、
「レシィ!?」
「うっ……ご主人さま……っ」
 そのレシィは小刻みに震え続けるばかりで、足を動かそうとしない。――いや、動かせないのか。
 膨大な殺気を伴って、一斉に襲いかかってきた魔獣たちの衝撃から、立ち直れていない。
 だけど、ここで留まっていては。
 足元のおぼつかないレシィを背負って逃げるべきかどうか迷いながら、グイ、と腕を引っ張る。
 少し薄くなりかけた煙が気になるが、まだ魔獣たちはそちらに気をとられているらしく、狙いを定めての攻撃はない。
 ミニスの指差した方向は、と、首を動かした瞬間。

「ギャウゥゥッ!!」
 めくらめっぽうに攻撃を繰り返していた魔獣が一匹、どういう偶然の悪戯か、真っ直ぐにレシィに向かって突っ込んできた。
 ――なんて、最悪のタイミング。

「レシィ!!」
「あっ……――ご主人さまっ!?」


 魔獣の咆哮と、トリスとレシィの叫び。
 煙のなかから聞こえたそれに、ビーニャはうっすらと笑みを浮かべた。


 ――煙が晴れる。
 周囲に人の気配はない……悪魔と魔獣の気配なら、むせ返りそうなほどに充満し尽くしているが。
 すぐ横に、メイトルパの気配。メトラルの少年のものだ。
 他のみんなは、ちゃんと安全な場所に行ったんだろうか?
 そんな懸念がよぎるも、
「……ッ」
 噛み千切られた足の痛みに、トリスは地面に横たわったまま、身体を折り曲げた。
 漂う血のにおいが、鼻孔をつく。
 魔獣にとってはさぞや芳香だろうが、ビーニャが改めて命令を出したのか、彼らはそれ以上襲いかかる気配を見せない。
 それでも、血を欲しているような唸り声が、そこかしこから聞こえてくる。
「ご主人さまっ、ご主人様ッ!?」
 それらをかき消して間近で繰り返されるのは、涙声で叫ぶレシィの声。
「あーらら、おいてけぼりになっちゃったわねぇ?」
 少し離れた位置から、優越感満載なビーニャの声。
 トリスの身体に手をついていたレシィが、少し、後ずさる。
 とん、と、軽い足音がした。
 痛みを堪えながら顔をあげると、たった今着地したばかりのビーニャが、きゅぅっと口の端を吊り上げて笑っているのが、視界に入った。
「っ……、……――」
 自由にならぬ足を引きずり、腕と上体を使って、ずる、ずる、と、距離をとろうと試みる。
 懐に入れた手に気づいたのか、ビーニャが口を開いた。
「いいわよ? 治療ぐらいやっちゃえば?」
「……余裕ね」
「トォゼン。これだけの数の魔獣相手に、たとえ傷負ってなくたって、アンタたちが勝てるわけないもの」
「……」
 両目に涙を溜めているレシィに、だいじょうぶだからと声をかけた。
 ――なめられているのは正直悔しいけれど、もらった治癒の機会は惜しみなく使うべきだ。
 手短に呪を唱えて、リプシーを喚び寄せる。
 リプシーは、ビーニャの姿を見て、少し怯える様子を見せたけれど、それでもちゃんと、トリスの傷に癒しの光をくれた。礼を述べたあと、送還する。光はすぐに、リプシーをサプレスへと送り返した。
 ――サプレス。
 そういえば、と、トリスはビーニャを振り返った。こいつは、サプレスの悪魔なのだ。
「ねえ、ビーニャ」
「何? 命乞い?」
「……そうじゃないんだけど……」
 云いよどみ、口を閉ざす。
 すわ苛立ちで攻撃が来るか、とも思ったが、ビーニャは、少なくともことばをつむがせてはくれるつもりらしい。軽く首を傾げる仕草で、先を促す。
 その合間に浮かんだことばを繋いだトリスは、それを声にして告げる。
「貴女、を好きなんじゃないの? ……どうして、あの子が苦しむようなコト、するの?」
 ――問うのには、理由がある。
 デグレアの日々を、たまには話してくれた。問わず語りに、時折自分たちからもせがんで。
 軍人として戦争に関わっていたとは云え、一部の変態と父親の攻防があったとは云え、それは幸せな日々だったんだな、と、思ったものだ。
 そのなかに、ビーニャたちの名前だって出てきた。
 悪魔だなんて知らなくて、隠された事実も知らなくて、それでも笑いあっていたんだって、少し哀しそうにだけど、教えてくれた。
 ……それなのに。どうして?
 トリスの問いに、ビーニャは少しだけ、笑みを引っ込める。
「だァって」、少しだけ――悔しそうに。「違うって仰るんだもん」
「え?」
「だから――」
「……だっ……だめです!」
 疑問符を浮かべて訊き返したトリスに、ビーニャが何事か云おうとしたときだ。
 それまで震えていたレシィが、急に声を張り上げる。
 張り上げて、すぐ。
 はっとしたように、口を両手で覆った。
 どこか淡々としていたビーニャの表情が、見る見るうちに不愉快なものに変わる。
「……何。アンタ?」
 その視線に、レシィは竦みあがる。
 竦みあがって、
「だ」、
 ……だけど。
「ダメなんです……! 絶対、絶対に、ダメなんですっ!!」
 ただそれだけを、繰り返す。
 そうして、泣き出しそうな顔もそのままに、メトラルの少年は、トリスを振り返った。

 だめなんです。まだ。
 さんが自分から口にしない限り、だめなんです……!

 ただ切々と、伝えられる。それは、強い感情。懇願。

 だけど。トリスは思う。
 そう告げる根拠――の何を、この子は知っているんだろう?
 メイトルパの民として? いや、それとも。妙にこの間から、護衛獣たちが結託していたようなのと、何か関係があるんだろうか?
 ……それとも……
 レシィを喚びだしたあの夜、彼女が魔力を導いたときに、その何かに触れた、とか?
 疑問は山ほどわいて出る。
 自分の知らないの何かを、レシィが知っているんだってことは、正直ちょっと悔しいのかもしれない。
 だけど、その感情がはっきりするより先に。
「――ねえ、トリスちゃん?」
 何やら思いついたらしいビーニャが、再び笑みをたたえてこちらを覗きこんできた。

「もしさァ、この場で降参してアタシたちに忠誠を誓うんだったら、アンタは助けてあげてもいいよ?」
 アンタがこっち側にきちゃえば、ちゃんだって全力で抵抗できないだろうしね?
「それに、レイム様、クレスメントの血族のコトは、基本的にお気に入りだしィ?」

 とんでもない誘いを聞いたトリスの意識へ真っ先に浮上したのは、だが、恐怖でも怒りでもなかった。
「……?」
 違和感。
 ――どうして、ビーニャは、メルギトスのコトを未だにレイムと呼ぶのだろう? それは、彼が人間として世を欺いていた間の、仮の名前じゃないのだろうか?

 そう思って、だけどすぐ、それよりも強く引っかかりを覚えたことばがあった。
「……レシィはどうなるの」
 アンタは、とビーニャは云った。
 アンタたち、とは云わなかった。
 問いながらも、その答えは予想していたけれど、
「モチロン、アタシのオモチャにして、壊れるまで遊ばせてもらうよォ?」
 それ以上に信じ難い回答が、ビーニャの口から告げられる。
「ひ……っ!?」
 ぬらり、と、残虐な彩りに満ちた双眸を向けられたレシィは、先ほどまでの強硬さも失って後ずさる。
 その彼をかばうように、トリスは、まだ少し痛む足を引きずってビーニャとの間に身体を入れた。
「だったら、絶対に降参なんてしないわよ……!」
 レシィを、あんたのオモチャになんてさせない!
 敵意が仄見える彼女のことばに、魔獣たちがこちらに向けて動こうとした。
 が、それはビーニャの視線で阻まれる。
 まだだ、と、その視線は魔獣たちに命令していた――『まだ』がいつ『今』になるか、判ったものではないが。
「……ご主人様……」
 背中に、レシィがしがみつく。
 彼の震えが伝わってくる。
 レシィも感じているんだろう。どんなに虚勢を張ってみても、この状況はどこまでも絶望的なんだと。
 みんなはどうしたろう?
 トリスたちがこないことに気づいて、引き返してくれるだろうか。
 今、ビーニャがこちらにだけ意識を向けているこのときなら、不意打ちも可能かもしれないけれど――
 けれど、そうして周囲の動向に、意識を向ける余裕はない。
 全霊で全力で。気を張り詰めていなければ、即座に飲み込まれるだろう危機感が、トリスの全身に満ちていた。


 出るなってどういうことだ!!
 ――そう叫びかけたリューグを押さえたのは、やはり弟の行動を読みきっている強みだろうか、ロッカだった。
 その一瞬前に走り出そうとしたフォルテの鳩尾には、ケイナの見事な裏拳が決まっていた。
 おかげでフォルテは悶絶中である。
 トリスの予想通りと云おうか、ふたりがついてきていないコトに気づいた彼らは、魔獣の襲撃を警戒しつつ砦内を走り抜けた。
 最初にくぐった門からはまずいと、探索の結果、死角の位置にある、小さな通用門を発見。
 そうして移動したのち、その状況を目にするなり走り出そうとしたフォルテとリューグが、上記のような状態になったというわけだ。
「下手に刺激してはなりません」
 手のひらを握り締めて、シオンが告げる。――その声は、硬い。
「……今、突っ込んだら、ビーニャは間違いなく、トリスとレシィを襲わせるわ」
 彼女らの話している声までは聞こえないが、魔獣たちが時折、飛びかかりそうになっているのは見てとれる。その都度、ビーニャが僅かな仕草で魔獣たちを制しているということも。
 あの場はすなわち、魔獣使いの胸先ひとつで状況を変える。
「……ケイナさん……」
「シルヴァーナで奇襲はかけられないの?」
「……無理だよ。いくらワイバーンとはいえ、あの数の魔獣を一撃で焼き払えるかい?」
 ペンダントに手をかけていたミニスの動きは、ロッカのことばで止められる。
「今はなりません。ですが、いつでも飛び出せるようにしてください」
 淡々としたシオンのことばは、聞いているうちに、なんとなく、逸る心を落ち着かせる効果があるようだった。
 ――つむいでいる当人は、反して、葛藤を覚えているのかもしれないけれど。

「機は必ず来ます。……勝利を得ようというのなら、今は耐えるべきです」


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