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第54夜 伍
lll 一度きりの奇跡 2 lll




 聞きなれた少女の声だった。
 この旅の始まりから、ずっとずっと一緒にいた、小さな妖狐の女の子。
 だけどその姿は、見知っているそれよりも、ずっと大きくなっていた。
 ――でも、すぐに、その子だと判った。
 あまり大きな声で話すところは見たことがなかったけれど、今、マグナに届く声は、強い。
 確りと、はっきりと。
 意志の強さを具現した、その声。
「おにいちゃん、帰ろう」
 一緒に。
「ハサハと一緒に……みんなのところに帰ろう?」
 おねえちゃんのところに。
 約束したよね?
 無事で戻るって云ったよね?

 ねえ。

 おねえちゃんもみんなも、約束をきっと守るから。
 おにいちゃんだけが、破っちゃだめなんだよ。
 あの優しい人たちを、哀しませちゃだめなんだよ?
 ……ハサハだって哀しいよ。

 だから――還ろう?

 呼びかける、声。
 一生懸命なそれに混じって、キュラーであるはずの凝った闇が、力のようなものを放つ。
「邪魔をする気か!? 妖怪の分際でッ!!」
「ハサハ、逃げろ!」
 黒い黒い闇。
 今自分たちのいる空間から切り取られた、どよりとした淀み。塊。
 真っ直ぐに向かってくるそれを、けれど、ハサハはキッと睨みつけた。
「要らない!!」
 ――パァン。
 まるで風船の破裂するような音を立てて、塊は四散する。
「おにいちゃんの心も、おねえちゃんも」、僅かに瞼を伏せて。「――眠る人も」
 そうして再び持ち上げられた眼の輝きは、強く、気高い。
「ぜったい、貴方なんかに、渡したりしない……!」
 貴方なんか、ここには要らない。
「ハサハが、守るんだもの……」
 しあわせになって欲しい人たちが、いる。
 動揺故か、それとももはや、声を発するだけの力も残っていない故か。
 わだかまったまま、動けないでいる闇に向けて、ハサハが叫ぶ。

「おまえなんか要らない!」
「く……ッ!?」

 この場は闇。闇はマグナの意志。
 意志の只中、力を発揮するは、心そのもの。
 ハサハのことばは、強き意志持つ力の具現。――言霊。
「おにいちゃんの心から」
 力宿す、言の葉。

「――出ていけ――――ッ!!」

 語尾が、闇に吸われるより先に。
 キュラーの断末魔の叫びが、空間を満たした。
 そうして、それが消える頃。
 うっすらと。
「あ」
 それまで闇しかなかった場所に、うっすらと――けれどとても暖かい光が、姿を見せる。
「……あったかい……」
 凍えていたマグナの四肢に、ゆっくりと感覚が戻ってきた。
 手のひらで光に触れれば、少し熱いほどの熱を伝えてくる。
「なあ、ハサハ。この光、おまえが持ってた宝珠のものなのか?」
 自分の持っていたこの闇を、払拭してくれそうな。これは。だが、けして力任せに押しのけるようなことはせず、ただたおやかに、優しく――清水のように染み渡る。
 光は。
「ううん、違うよ」
 妖狐の少女は、首を左右に振った。
「これはね、お兄ちゃんの持ってる光なんだよ」
「……俺の……?」
 闇しかないと思っていた。
 淀みに汚れていると思っていた。
 けれど、その光がそうなのだと知らされた瞬間、触れていた部分から伝わる熱が、強くなる。
 そのとおりなのだと、教えるように。
 じっと光を見つめるマグナの横に、ハサハが、つと寄り添った。


「お兄ちゃんの心はね、強い光にあふれてる……だけど、光が強いほど、その下にできる影も大きくなるの」
 それは、生きている者なら誰もが当然の、仕方のないこと。

 ……あの人も、そうだった。

「え?」
 声にならない声さえかすかに届いたそのことに、ハサハは、少しだけ驚いた。それからすぐ、なんでもないとかぶりを振る。

「光も、闇も、両方がお兄ちゃんなの。片方だけ見つめては、ダメなの……」


 おねえちゃんのことばを、覚えてる?
 ハサハの声に、思い出したのは、ちょっと苦い思い出だった。
 クレスメントの血のことが明らかになって、相手にひどく取り乱してしまったあの日。
「……うん……」
 あのとき、本当に、どれほどの救いを感じたろう。
 クレスメントとか罪業とか。そんなの押しのけて告げてくれたことばは、何にも増して輝いていた。
「お姉ちゃんの光は、つよいよね……?」
「うん」
 頷いたら、ハサハは、ちっちゃく笑ってくれた。
「……お兄ちゃんが、お姉ちゃんの光を見れるのはね。お兄ちゃんも、負けないくらい、つよい光を持っているからなの……」
「そう――なのかな?」
「そうなの」
 普段の、首を傾げる仕草に似たそれではなく、ハサハは、確りと頷いてみせる。

「向かい合う、目は鏡なの。向かい合う、心も、だから、鏡なの……」
 つよい光を映し出せるなら、光を受け止められるだけの素があるということ。
「……そっか」
 静かに伝えるハサハの眼差しを受け止めて、マグナもまた、頷いた。
 先刻、シャムロックがキュラーに向けて放った怒号。いつか、がレイムに向けて叫んだことば。その意味を、今、彼は知る。

 人は弱い。
 闇をつくらずにいられないくらい。
 光だけじゃ保たないくらい。
 自ら生み出した影に闇に、飲み込まれる可能性もまた、消えはしない。
 それほどに、ひとは脆くて。弱くて。

「……だから強くなれるんだ」

 見えるものを認めろ。
 光も闇も自分のものだ。
 ――それを生み出すこの心、この己が、ここにある。
 きれいでも、きたなくても。大切な人たちと胸を張って逢うことが出来るなら、自分はこうしてここにいる。
 ただ、この自分がここにいる。

 静かに見つめてくれているハサハに、マグナは、そっと笑いかけた。
は、俺よりずっと先に、そのこと知ってたんだな」
「……」
 おや。
 返すハサハの頷きは、少し曖昧。
「……知ってるけど……きっと、お姉ちゃん、自分のことははっきり見えてないの……」
「…………」
 あはは。
らしいや」
 今度は声をたてて、マグナはまた笑う。

 ――
 大好きな友達だって、云ってくれたあの子。
 俺たち、あんなに闇に捕われて、ボロボロになって、の事拒絶までしたのに。

 ――そんな俺たちなのに、

 大好きだ

 って。
 ……云ってくれてたね。

 光だろうが闇だろうが。まるごと。全部。そうなんだって――
「大切なのはね、なにもかも含めて、まるごと好きでいることなんだよ」
 思いに被せてハサハの声。

 それはひどく難しい。
 光だけを見ていた人間が、急に闇を見せられて、受け入れることは、容易には出来ないだろう。
 正反対。極から極。
 それまで知っていたそれとは、まったく違う部分。
 だけど。
 それもまた、自身なのだ。

「だから、もう……自分を嫌いになんかなったら、イヤだよ?」
 ハサハもおねえちゃんも、みんなも、哀しんで、泣いちゃうよ?
 とつとつと語る少女の頭に、マグナはそっと手をおいた。
「うん……」
 髪の流れに沿って、数度、動かす。
 馴染んだその仕草に、ハサハは気持ちよさそうに目を細めた。 
 こんなに姿が変わっても、ハサハはハサハだった。
 心は変わらない。
 ……うん。
 改めて思う。
 俺は変わらない。
 この闇も光も、変える必要なんかない。消したりなんて出来ない。拒絶したってそこにある。それは俺が俺になるために、積み重ねてきたものなんだから。
 そんなの全部、まるごと含めて、受け入れてくれるひとがいる。手を伸ばしてくれるひとがいる。
「約束するよ、ハサハ」
 だから。

 ……俺は、俺でいる。
 この俺のまま、強くなる。


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