聞きなれた少女の声だった。
この旅の始まりから、ずっとずっと一緒にいた、小さな妖狐の女の子。
だけどその姿は、見知っているそれよりも、ずっと大きくなっていた。
――でも、すぐに、その子だと判った。
あまり大きな声で話すところは見たことがなかったけれど、今、マグナに届く声は、強い。
確りと、はっきりと。
意志の強さを具現した、その声。
「おにいちゃん、帰ろう」
一緒に。
「ハサハと一緒に……みんなのところに帰ろう?」
おねえちゃんのところに。
約束したよね?
無事で戻るって云ったよね?
ねえ。
おねえちゃんもみんなも、約束をきっと守るから。
おにいちゃんだけが、破っちゃだめなんだよ。
あの優しい人たちを、哀しませちゃだめなんだよ?
……ハサハだって哀しいよ。
だから――還ろう?
呼びかける、声。
一生懸命なそれに混じって、キュラーであるはずの凝った闇が、力のようなものを放つ。
「邪魔をする気か!? 妖怪の分際でッ!!」
「ハサハ、逃げろ!」
黒い黒い闇。
今自分たちのいる空間から切り取られた、どよりとした淀み。塊。
真っ直ぐに向かってくるそれを、けれど、ハサハはキッと睨みつけた。
「要らない!!」
――パァン。
まるで風船の破裂するような音を立てて、塊は四散する。
「おにいちゃんの心も、おねえちゃんも」、僅かに瞼を伏せて。「――眠る人も」
そうして再び持ち上げられた眼の輝きは、強く、気高い。
「ぜったい、貴方なんかに、渡したりしない……!」
貴方なんか、ここには要らない。
「ハサハが、守るんだもの……」
しあわせになって欲しい人たちが、いる。
動揺故か、それとももはや、声を発するだけの力も残っていない故か。
わだかまったまま、動けないでいる闇に向けて、ハサハが叫ぶ。
「おまえなんか要らない!」
「く……ッ!?」
この場は闇。闇はマグナの意志。
意志の只中、力を発揮するは、心そのもの。
ハサハのことばは、強き意志持つ力の具現。――言霊。
「おにいちゃんの心から」
力宿す、言の葉。
「――出ていけ――――ッ!!」
語尾が、闇に吸われるより先に。
キュラーの断末魔の叫びが、空間を満たした。
そうして、それが消える頃。
うっすらと。
「あ」
それまで闇しかなかった場所に、うっすらと――けれどとても暖かい光が、姿を見せる。
「……あったかい……」
凍えていたマグナの四肢に、ゆっくりと感覚が戻ってきた。
手のひらで光に触れれば、少し熱いほどの熱を伝えてくる。
「なあ、ハサハ。この光、おまえが持ってた宝珠のものなのか?」
自分の持っていたこの闇を、払拭してくれそうな。これは。だが、けして力任せに押しのけるようなことはせず、ただたおやかに、優しく――清水のように染み渡る。
光は。
「ううん、違うよ」
妖狐の少女は、首を左右に振った。
「これはね、お兄ちゃんの持ってる光なんだよ」
「……俺の……?」
闇しかないと思っていた。
淀みに汚れていると思っていた。
けれど、その光がそうなのだと知らされた瞬間、触れていた部分から伝わる熱が、強くなる。
そのとおりなのだと、教えるように。
じっと光を見つめるマグナの横に、ハサハが、つと寄り添った。
「お兄ちゃんの心はね、強い光にあふれてる……だけど、光が強いほど、その下にできる影も大きくなるの」
それは、生きている者なら誰もが当然の、仕方のないこと。
……あの人も、そうだった。
「え?」
声にならない声さえかすかに届いたそのことに、ハサハは、少しだけ驚いた。それからすぐ、なんでもないとかぶりを振る。
「光も、闇も、両方がお兄ちゃんなの。片方だけ見つめては、ダメなの……」
おねえちゃんのことばを、覚えてる?
ハサハの声に、思い出したのは、ちょっと苦い思い出だった。
クレスメントの血のことが明らかになって、相手にひどく取り乱してしまったあの日。
「……うん……」
あのとき、本当に、どれほどの救いを感じたろう。
クレスメントとか罪業とか。そんなの押しのけて告げてくれたことばは、何にも増して輝いていた。
「お姉ちゃんの光は、つよいよね……?」
「うん」
頷いたら、ハサハは、ちっちゃく笑ってくれた。
「……お兄ちゃんが、お姉ちゃんの光を見れるのはね。お兄ちゃんも、負けないくらい、つよい光を持っているからなの……」
「そう――なのかな?」
「そうなの」
普段の、首を傾げる仕草に似たそれではなく、ハサハは、確りと頷いてみせる。
「向かい合う、目は鏡なの。向かい合う、心も、だから、鏡なの……」
つよい光を映し出せるなら、光を受け止められるだけの素があるということ。
「……そっか」
静かに伝えるハサハの眼差しを受け止めて、マグナもまた、頷いた。
先刻、シャムロックがキュラーに向けて放った怒号。いつか、がレイムに向けて叫んだことば。その意味を、今、彼は知る。
人は弱い。
闇をつくらずにいられないくらい。
光だけじゃ保たないくらい。
自ら生み出した影に闇に、飲み込まれる可能性もまた、消えはしない。
それほどに、ひとは脆くて。弱くて。
「……だから強くなれるんだ」
見えるものを認めろ。
光も闇も自分のものだ。
――それを生み出すこの心、この己が、ここにある。
きれいでも、きたなくても。大切な人たちと胸を張って逢うことが出来るなら、自分はこうしてここにいる。
ただ、この自分がここにいる。
静かに見つめてくれているハサハに、マグナは、そっと笑いかけた。
「は、俺よりずっと先に、そのこと知ってたんだな」
「……」
おや。
返すハサハの頷きは、少し曖昧。
「……知ってるけど……きっと、お姉ちゃん、自分のことははっきり見えてないの……」
「…………」
あはは。
「らしいや」
今度は声をたてて、マグナはまた笑う。
――。
大好きな友達だって、云ってくれたあの子。
俺たち、あんなに闇に捕われて、ボロボロになって、の事拒絶までしたのに。
――そんな俺たちなのに、
大好きだ
って。
……云ってくれてたね。
光だろうが闇だろうが。まるごと。全部。そうなんだって――
「大切なのはね、なにもかも含めて、まるごと好きでいることなんだよ」
思いに被せてハサハの声。
それはひどく難しい。
光だけを見ていた人間が、急に闇を見せられて、受け入れることは、容易には出来ないだろう。
正反対。極から極。
それまで知っていたそれとは、まったく違う部分。
だけど。
それもまた、自身なのだ。
「だから、もう……自分を嫌いになんかなったら、イヤだよ?」
ハサハもおねえちゃんも、みんなも、哀しんで、泣いちゃうよ?
とつとつと語る少女の頭に、マグナはそっと手をおいた。
「うん……」
髪の流れに沿って、数度、動かす。
馴染んだその仕草に、ハサハは気持ちよさそうに目を細めた。
こんなに姿が変わっても、ハサハはハサハだった。
心は変わらない。
……うん。
改めて思う。
俺は変わらない。
この闇も光も、変える必要なんかない。消したりなんて出来ない。拒絶したってそこにある。それは俺が俺になるために、積み重ねてきたものなんだから。
そんなの全部、まるごと含めて、受け入れてくれるひとがいる。手を伸ばしてくれるひとがいる。
「約束するよ、ハサハ」
だから。
……俺は、俺でいる。
この俺のまま、強くなる。