覚えがある。この闇は。
禁忌の森で自分の血が明らかになったとき、沈んでた闇に。似てる。
だけど知らない。この闇を。
こんなにどろどろと、まるで自分を飲み込もうとしているような、こんな淀みを。
……知らない?
自分は。
……ここは、どこ?
そう、疑問を覚えたときだ。
ククククッ、どこかで聞いたような笑い声がした。
「……キュラー……」
姿は見えない。
目の前に広がるのは闇ばかり。
それでも。つぶやきに応えるように、闇が淀んだ。その一角だけが、より異質な闇となる。
「――ここはどこかと申されましたな? お答えしましょう」
ここは貴方の心のなか。
「貴方のどす黒い感情が、淀みが、積もりに積もった、もっとも深い底の部分なのですよ……」
目を見開いたのは。
驚愕のせいだけだったか。それとも。
咄嗟に胸を押さえてしまったのは、もしかして?
「……これが!?」
だけど。そんなこと。
一片の光さえ感じられない、この闇。淀み。どす黒い――飲み込まれる、突き動かされる、衝動。
これが、俺の心?
一角にわだかまった闇が、どより、頷く気配。
「ウソをつくなっ!! 俺は――」
信じられない。信じたくない!
「……おまえが、俺に取り憑くために仕組んだものじゃないのか!?」
ククククククッ……
闇は、嗤う。
「残念ながら、今の私では貴方に取り憑くだけの魔力が残っていません……」
このまま朽ちて滅びる身故。
「ですから、私は最後の力を使って、貴方に仕返しをしようと思うのです」
「なっ……!?」
「この生々しい闇。淀み。自分の中に息づくそれを前にして、貴方はどうなりますかな?」
鬼となるか、狂い死ぬか。
いずれにしても、貴方のその有り様を、メルギトス様はいたくお喜びになるでしょうなぁ……?
ただ見ているだけではどうしようもない。
だけど、不用意に刺激を与えればマグナの精神が破壊されると聞かされては、いったいどうすればいいというのか。
「カイナ殿、なんとか出来んのか!?」
「無理ですっ……! 彼が向かい合っているのは、鬼ではなく、自分の心の闇……取り除くことは出来ないんです!」
アグラバインの問いに答えるカイナの表情は、すでに泣き顔に近い。
鬼ならば祓える。
それは、その人にとっての異物だから。
けれど。
今、マグナを飲み込もうとしているのは、本人の心にわだかまる――いや、人ならおそらく誰もが抱いたこのあるだろう、そして目を背けているだろう、黒い部分。
けれどそれもまた。
「ではどうしろというんだ!? このまま鬼になるのを見ていろというのか!!」
「下手に手を出したらマグナの心がバラバラになるのよ! そうなったらキミは責任もてるの!?」
イオスの問いも、ルウの返答も、すでに叫びに近かった。
「……」
きゅ、と、ハサハが口元を引き結ぶ。
黒。――黒い黒い、淀み。深い深い、闇。
知っている。この黒いものを。
……俺は知ってた。
感じてた。あのころから。
「……トリスが泣いてたんだ……」
かつて暮らしていた。それは、遥か北にある小さな街。その道端に落ちていた。好奇心で触れた石は、サモナイトの名を冠する石。
触媒。刺激。暴発。
――それは召喚術だった。
そうして、俺たちは蒼の派閥に連れていかれた。
取調べのために引き離されたトリスが、一生懸命、俺に手を伸ばしてたのに。
手をとってやれなかった。泣き止ませてやれなかった。
――お兄ちゃん――!!
闇のなか。残ってた。
よく笑うようになった彼女。蓄積されていく優しい記憶。……その最下層。この闇の深遠に。悲痛な叫びは、まだ残ってる。
……そう。
あの時初めて、人を憎んだ。
「殺してやりたいって……」
思った。それが、自分を掴んでいた召喚師の持っていた、サモナイト石を反応させて。
彼はたしか、半死半生になったのだっけ?
それを聞いたのは、牢のなかだった。
やっと一緒にいることを許された、泣きつづける妹を抱きしめて。ただそれ以外、何も出来ない自分が情けなかった。
不条理に自分たちをこんなところに閉じ込めた彼らを、そうだ。
殺したい。
と。
思った。
――思って、る?
昔だけじゃない。
成り上がり、と、自分たちをバカにしつづけた嫌な奴。
ネスティを酷い目にあわせていた、フリップ。
――ああ。
だけど、これは認めたくないな……
そんな自嘲も、闇が喰らい、増幅させているのが判る。
。ごめんね。
俺、が誰か他の男と笑ってるの見るの、ちょっと嫌だったんだ。
だから、抱きついたり引っ張ったりして自分のほうに取り返してた。
ごめんね。……嫉妬してたんだ。
たぶんこれからも、しちゃうんだ。
憎しみ。怒り。嫉妬。殺意。
深い深い場所に、それらすべて押し込めた。積み重なるそれに、知らん振りしてフタしてた。
それらの感情を表に出すと、ますます難癖つけられることが増えると知った。
自分だけならともかく、トリスまで、その巻き添えになるってことも。程度が過ぎれば、ネスティやラウルまで。
そんな感情を持った自分が。
大事な妹まで傷つける、醜いもの持った自分が、嫌だった。
……だから押し込めて。フタをした。
ええ、そうでしたな、と、闇が嗤う。
「そのフタを開けたのは私……」
ですが、この淀みも闇も、貴方が生きてきた分の時間をかけて育ったモノ。
……貴方の生み出した、醜く黒く、淀んだ衝動。
「……うん」
見えてるものを受け容れろ。
あの子もたしか、そう云ったね。
「……みんな、俺がつくった……」
視界は闇。
触れるも闇。
こんな黒くて汚い淀みを。俺がつくった。
「……俺の心って、汚いものばっかりなんだな」
こんなの嫌だよ。見たくない。
でも見える。
受け入れなきゃ、だめ?
でも、こんなの認めちゃったら。こんなに醜いんだって、突きつけられたら。もう俺、に逢える資格、ないよ。
また、トリスのことも傷つけるよ。
拒絶したい。
にあわせる顔もなくなるけど、受け入れても逢えないから、いい。
同じ結果なら。拒めば、受け入れる苦痛はなくて済む。
そしてもう誰にも逢わないで――そうしたら楽に――
「クククッ……」
闇が、嗤う。
「……ちがうよ……!」
その合間を縫って、入り込んできた、
「きたないものだけじゃないでしょう? きれいなものだって、ちゃんと、あったよね……?」
それは、小さな少女の声だった。
「闇は、影。……でも、影をつくるのは、闇じゃない……」
見えないものを見て。
いつだってそこにあるそれを。気づかずにいたそれを。当たり前すぎて目を向けることしなかっただけの、それを。
今、気づいて。
「こころをとじないで……うつむかずに、前を見て……!」
光が迸っていた。
諦めと苛立ち、焦燥が入り混じった地下室に。
倒れたマグナの前に膝をつき、まるで祈るように宝珠を掲げるハサハの身体から――光が、迸っていた。
「ハサハ……!?」
「……みんな、泣かないで」
力強いそれは、普段の彼女からは考えにくいが、ハサハのものだった。
「ハサハが、おにいちゃんを、守ってみせるから……!」
「なんて魔力……」カイナが、光から目をかばいながら、つぶやく。「ハサハちゃん、あなた……!?」
その瞬間、より一層強い光が、場を満たす。
光はハサハの身体を覆う。
妖狐の少女の輪郭が、光に飲み込まれて揺らいでいた。
揺らいだ輪郭は、徐々に、姿を変える。
肩までの長さだった黒い髪は、背中の中ほどまで伸びて。あどけなかった表情は、少し幼さを残した女性のものに。
「……大人、に……!?」
驚愕を宿した声に、ハサハは頷いてみせる。
「宝珠の力を借りたの……ハサハが人間になるために、この宝珠に集めていた魔力……」
頑張っていた。
ずっとずっと集めてた。
昔出逢った優しい人へ、いつか手助けをするために。
この主と出逢ってからは、この人の力になるために。
彼らに、共通して馳せる、想いがあるから。
……泣かないで。哀しまないで?
しあわせに。なって。
しあわせに。なろう。
「守ってみせる」
そのためならば。
きっと。きっと、誰もは強くなれるのだから。
守りたい。ただそのために。
「……だって、ハサハは、護衛獣なんだから……っ!!」