風には、ささやかに潮のにおいが混じっていた。
軍隊と遭遇しては元も子もないので、大平原をというよりは、海岸沿いに西へ進んでいるためだ。
ギエン砦よりもデグレアよりも位置としては近いせいか、さして急がなくても済んだのがありがたいと云えばありがたいか。
トリスもも強行軍だろうなあ、と、くじ引きの結果とは云え、一番楽なものをとってしまったことに、マグナは、ちょっと後ろめたさを感じないではない。
でも。――うん、まあ。
屋敷辺りにたむろってるだろう、軍だか残党だかを倒して、それで時間が余ってるなら、どっちかの加勢に向かえばいいのだ。
そう考え直して、マグナはふと、少し後ろを歩いているルヴァイドたちを振り返った。
「なあ、ルヴァイド」
「……なんだ?」
かつて敵意びしばし向けられていたのがウソのように、ルヴァイドの返答は淡々としたものだ。
もっとも、その敵意も怒りも、向ける矛先が変わっただけで、相変わらず背筋が凍るほどの迫力を彼が持つこと自体は、なんら、変わりない。
意外なのは、ハサハがなんとなくルヴァイドに気を許してる様子があるってこと。
今も、マグナの傍にくっついているけれど、ルヴァイドを振り返って、少しおずおず、で、にこり。なんて、笑ったりしてる。
ルヴァイド、根は優しいってことなのかな。やっぱり。
そりゃがあんなに好いてるんだし、悪い奴じゃないよな、うん。
「用ではないのか?」
じっと見ているマグナを不審に思ったか、ルヴァイドが怪訝な顔になる。
「あ?」
くるくるまわってた考えを、慌てて手元に引き戻す。
「あっ、ごめんごめん。――でもさ、ほんとにについていかなくて良かったのか?」
そんな案が、持ち上がっていたことは持ち上がっていたのだ。
やはりアレだ。父としては、娘から目を離したくないんじゃないかな、と。家族さんたちへのささやかな配慮。や、まあ、血のつながりはないんだけどね。
しかし、それは当のルヴァイドが辞退した。ついでに、もそこまでしなくていいと云った。
なので結局、当初の予定通り、今に至っているというわけだ。
「……マグナ。君は、何か勘違いしていないか?」
別に年がら年中くっついていなければいけないとか、そういうものではないんだが。
ため息混じりに答えたのは、ルヴァイドではなくイオス。
そういう彼の方が、実はよほどのこと心配そうだったのは、この場の全員が知っている。
だがやはり、彼も、わきまえるべきものはわきまえていた。決まったことだから、と、特に不満そうな様子もなく、こうして屋敷に向かっている。
「……そういえば」、
何を思いついたのか、カイナも会話に参加してきた。
「ルヴァイドさんにお伺いしたかったのですけれど」
「なんだ?」
短く応えるルヴァイド。
シルターンの巫女は、僅かに首を傾げてみせた。
「さんがデグレアに召喚された原因は、本当に、メルギトスではないのでしょうか?」
「そうよ。メルギトスはに執着してるんだから、そもそも喚んだのは彼ではないの?」
切り出された気になったらしく、ルウまでもが、位置していた後方から早足にやってきて加わった。こうなってはもう、行軍の配置もへったくれもない。旅路の雑談だ。
リーダーたるマグナとしては、やはり諌めるべきなのだろうが――
「……」
まあいいや。
話、楽しいし。
などとあっさり現状を楽しめる彼は、ある意味つわものだった。
「……それは……ないだろうな」
過去を思い出しているのだろう。
顎に手を当て、少し遠い目になって、ルヴァイドが答える。
当時、レイムは往復に数日かかる地に遠征していた。
ルヴァイドは、まず、そこから彼らに説明する。
そのあたりの経緯を詳しく話したことがなかったせいか、イオスもが、興味を隠さずに、彼の話に耳を傾けた。他の一行はいわずもがなだ。
さて、数日かかるといっても、今にして思えばあの男は悪魔なのだから、それ程度の距離など瞬時に移動できるだろうという反論もあるだろう。が、デグレアの兵から供を連れて行っていたから、それはまずない。顧問召喚師は最初から最後まで軍に同行していたと、当時の記録もある。
それに。
デグレアに戻り、ルヴァイドの傍にいたを見たレイムは、尋常でなく驚いていた。きっと、あれ以上はないだろうというほどに。
ただ純粋に。
ただひたすらに。
いるはずのない人間がそこにいることに対しての、驚愕。
あれが演技だとは――いつかののセリフではないが――とうてい、思えないというのが、今になっても思う、ルヴァイドの本音だ。
「……尤も」、
続く声は、重く、低く、ちょっぴり怖い。
「驚きから復活した直後にに踊りかかったときには、叩き斬らせてもらったがな……」
「ル、ルヴァイド……?」
思い出しているうちに、当時の怒りがよみがえったのだろうか。
ルヴァイドの背後に、ふつふつと炎――いや、溶岩が滾り出した気がして、マグナは、慌てて他の話題を捜す――までもなかった。
「主殿、ミエテキマシタ」
レオルドのことばに、
「え! 何が!?」
助かったとばかり、視線を転じれば。
「――――」
今自分たちのいる丘陵から、ちょうど見通せる位置に、その屋敷はあった。
そうして、その周囲に所狭しと存在している、鬼人と化した兵士たちの姿もまた。
「――」
トライドラか。デグレアか。
かつて彼らが生きた地がどちらなのか、どちらもでもないのか――判らないけれども。ルヴァイドとイオス、シャムロックが、刹那の僅か、目を伏せた。
徒歩なら最低一日かかるかと思われたギエン砦までの道のりは、蒼の派閥から強制徴求した召喚獣車のおかげで、半分ほどの道程を消化できている。
マグナたちは徒歩で事足りるが、トリスやだと日数的に不安だったためだ。
蒼の派閥本部にねじ込んで急遽用立ててもらったものなのだが、さすがに、彼らを戦場にまでお供させるわけにはいかない。
結局、御者役含め、車の方には街道途中で待機していてもらっている。あんまり実現してほしくないけれど、もし戻らないなら、報を持って戻る手はずも打ち合わせ済み。
「……おそらく、そのギエン砦を拠点として兵を進める作戦でしょうね」
軍隊が通ったあとらしい、荒れ果てた街道を歩みながら、シオンが云った。
草の根一本、というと大げさかもしれないが、そう云いたくなるくらいに、街道は荒らされていた。いや、荒らそうとしたわけではないのだろう――少なくとも、意図的には。
ただ通る、それだけで、通った場所を蹂躙するような存在が、ここを通過したのだ。
「この足跡、やっぱり魔獣たちのかしら……?」
踏みしめる地面の、所々異様にくぼんだ箇所を見て、ミニスは顔をしかめっぱなしだ。
「こんなに踏み潰されて……かわいそう……」
一方、踏まれて潰れたり、毒気に当たったのだろうか、枯れている植物たちを見て、嘆いているのはアメルだった。
屍人たちの足跡らしきそれに混じって、大きな爪やらを連想させるものが見られる。
彼女たちの想像はおそらく正解だろう。
となると。
この先にいる相手もまた、自然と予測が出来るというもの。
「私たちの相手は、ビーニャってわけね……」
弓を手にとって、時折弦の調子を確かめながら、ケイナがつぶやいた。
「ケッ、上等だぜ」
「依り代とされた方はもう亡くなってるんですよね? だったら遠慮は要りませんね」
物騒だな、双子。
「おいおいおまえら、今から気ィ張り詰めすぎてると、本番でコケるぞー」
「あんたは気を抜きすぎなのよッ!」
フォルテの茶化しに、すかさず飛ぶケイナの裏拳。
何気に普段より力が入ってるぽいのは、やはり気負っているからなんだろうか。
そうして、気負っていると云えば――
「……レシィ? だいじょうぶ?」
少し青ざめた顔で、先刻から黙りつづけている護衛獣に、トリスは、そう声をかけた。
「え?」
はじめは、きょとん。ややあって、レシィは飛び上がる。
「あ、は、はいっ、だだだだいじょうぶですっ!?」
「……どこがだよどこが……」
ぴょんっ、と飛び上がった挙句、どもりまくりなレシィの姿にツッコミを入れたのはリューグだ。
直後、余計なコト云うんじゃない、と兄にどつかれていたが。
それを横目で見ながら、そ、とレシィの背に手を添えるトリス。
「……怖かったら、離れたトコから見ていてもいいからね?」
バルレルに対しては結構平然と接することが出来るようになったとは云え、この子は元来、穏やかで優しい性格だ。
誰かが傷つくことを嫌うその部分は、アメルと似ているのかもしれない。
だからこそ出たトリスのことばだったのだが、それを聞いたレシィは、まず、小さくかぶりを振って答えに代えた。
「がんばります……ッ」
握りしめたこぶしは震えている。隠そうとして、隠せぬほど。
それでも。レシィは、強く、そう云ったのだ。
遠いといえば、こちらの一団が最遠方だった。
当然のように現時点最高の召喚獣車を蒼の派閥から徴求して、それこそ死に物狂いでかっ飛ばさせて――その後の経過は、今西を目指すトリスたちと同じ。
ただ、稼げた距離は、最速を借りてなお、向こうとどっこいってところか。
「……レヴァティーンが喚べればなぁ……」
ぶつくさぶつくさ。
「嫌味かそれは」
どうせオレはレヴァティーンなんざ喚べねぇよ。っつーか喚びたくねぇよ天使系なんざ。
かなり雪の混じってきた道を歩きつつつぶやくの声に、バルレルが仏頂面になる。
「というより、誰もレヴァティーンと誓約出来ていないんだから喚びようもないだろう」
新たに誓約の儀式を行なうための時間さえ、今は惜しいだろうしな。
時折地図を見て進路を確かめながら、ネスティが云った。
まったくもって、そのとおりである。
そもそも、誓約の儀式というものは、手間も金もかかるものらしい。最近でこそ簡略化されたものが――特にトリスとかマグナとか。ぶっ飛んだところで誓約者とか――見受けられるが、そうお手軽なものじゃないってのが、大方の見解なんだとか。
では蒼の派閥の誰かなら、もう誓約してて喚べるんじゃないかと期待してはいたのだけれど、あいにく、どなたも、そんな偉業を成し遂げた人はいなかった。
だからして一行は、召喚獣車の強制徴求に至ったのである。
……ああ、綾姉ちゃんが恋しい……
結局、エルジンとエスガルドが戻るより先に、戦いは始まってしまった。
彼らの帰還を待つ余裕はなく、必然的に助力も期待できないということだ。
「でも、これならあとしばらくも歩けば到達できそうですよ?」
なんだかんだ云いつつ、かなり近くまで送っていただきましたからねえ。
「……ねえ。パッフェル、モーリン」
ほのぼのと告げるパッフェルに、ユエルが声をかけた。
なんですか? と見下ろす彼女の横にモーリンも並ぶ。
ふたりの疑問の視線に、ユエルが何を云ったかというと。これ。
「寒くないの?」
と、実にピンポイントなおことば。
そう。
前回もそうだったが、雪がちらつくほど気温の低いなかでの進行だというのに、パッフェルは相変わらずのメイドさん服だ。
しかもモーリンも、トレンチコートがあるからとかなんとかではなく、肩出し腹出し足出し。
「……たしかに、見てるこっちが寒いわなぁ……」
わざとらしく身震いして、バルレルが云った。
けれどそれに答えたのはパッフェルでもモーリンでもなく、さっきから黙々と歩を進めていたカザミネ。
「心頭滅却すれば火もまた涼し。逆も然りでござるよ」
……そういうカザミネも、考えてみればなかなかの薄着である。
「サムライってやつか……」
それにしても、ぱっと見異様な一行だよなあ。
妙にしみじみとしたレナードのことばに、改めて見やればそのとおり。
まず服装で分けてみると、
それなりに寒さを凌げそうな、ネスティ、レナード。
ちょっと寒くないか? の、バルレルとユエル。
心頭滅却なパッフェルとモーリンとカザミネ。
しかもこれで職業出身別にすると、さらにすごい。
メイドさんとか悪魔くんとか入り混じってる。なんともはや、実にバラエティ溢れる一行だった。
「曲芸団でも作れそうだねー」
「寒さで頭イカレたか、テメェは」
「……バカなことを云ってないで、進むぞ」
というか、口でも動かしてないとなんとなく凍えちゃいそうな気がして。
いや、別件でも凍える、というか、空気が重くなりそうな気がして――
「あ、またある……」
額に手でひさしを作って、先を眺めていたユエルが顔をしかめた。
それを聞いた一行も、それまで会話を繰り広げていた口を閉じ、その横を通り過ぎざま、軽く黙祷する。
時折、街道の端に打ち捨てられたらしい、使用期限切れ――とか云うと失礼だけれど、朽ち果てた兵士。
それは鬼人よりもどちらかというと、スルゼン砦で見た屍人たちに似ていた。
その事実が判明するまで、遺体を見つけるたびに面を確認していたが、気づいたのだ。
つまり、この先にいるのはガレアノだという可能性が高い。いや、ほぼ確定的と云ってもいいだろう。
レナードとパッフェルにとっては、因縁のある相手。
ふたりとも理知的な大人だから突っ込んで行くような心配はしてないけれど、それでも、複雑なんじゃなかろうか。
だけど、そのを、時折バルレルが、それこそ複雑な――意味ありげな視線で見ていたことには、誰も気づかないでいた。
残る鍵はふたつ。
そのうちのひとつがあきらかになるときは、もうすぐそこだったのだと。
気がつくのはやっぱり、事が終わったあとなのだけれど。