おなかもくちて、さあお風呂に入ろうと、廊下を歩いている途中だった。
庭に面した窓の方から声が聞こえて、なんだなんだと覗いてみたら、ユエルとミニスがなにやら訓練していたのだ。
「ちょっと、ふたりとも、お風呂あがり? 風邪ひくよ!?」
庭につけられた小さな灯り。
それに照らされたふたりの髪が、ときおりきらきらと輝いている。
決戦前に湯冷めする気かと、あわてて声をかけたけど、どうやらそれは杞憂だった。
「ああ、違うわよ。まだ私たち入ってないわ」
これは、さっきユエルがローレライを喚ぶのに失敗して喚んじゃった、メイトルパの海の水。
そう云われて、は、「ローレライ?」とおうむ返し。
そのままよいしょと窓を乗り越え、近寄って、くん、とにおいをかいでみた。
――なるほど、かすかに潮のにおい。
「うう〜、召喚術ってやっぱり難しいよぅ」
曰く、失敗しちゃったというユエルが、耳をふせてしょげている。
が、
「何云ってるのよ。召喚術をちゃんと使えるようになりたいって云ったのは、ユエルでしょ?」
それにユエルはメイトルパに縁が深いんだから、ちゃんと集中できればきっと応えてくれるわよ!
ミニスのはげましに気をとりなおしたらしく、うん! と頷いて、ユエルは再び、両手に抱んだサモナイト石をじっと見つめ始めた。
「誰を喚ぶにしても、イメージが大事だわ。喚ぶ声、開く門、そして応える声。それらを思い浮かべて、感じ取らないとだめ」
だから、召喚獣と誓約するに必要なのは、そのものが持つ名前。
喚び出そうとしている、メイトルパの人魚が持つ――もしかしたら、後につけられたかもしれないその名前は、ローレライ。
名前は固体を認識させる。より細かいディティールを覚えるための、とっかかりにもなる。
ミニスがにそう説明している間に、ユエルの手のひらから、若草色の光が零れだした。
「――おいで、ローレライっ!」
「だめ、ユエル早いっ!」
喚ぶ声と、ミニスの制止が重なって、
――ばっしゃああん。
……どうやら、ふたりが水滴にまみれているのは、これが原因らしかった。
ユエルの喚び声によって現れたのは、人魚ではなく海水そのもの。
3人の立つ場所から少し離れた場所に浮かんだ水球は、次の瞬間、その形を崩して一気に地面に落ち、盛大な水溜りをつくっていた。
今度はふたりだけでなく、当然、も水しぶきの犠牲になる。
が、霧雨が降ってきたようなそれは、濡れるというより逆に気持ちよかった。
「もう! また我慢できなかったのね?」
もうちょっとしたら、ローレライが応えたかもしれないでしょ!
「で、でも、光が強くなってきたから、もういいかなって」
「目で見た光景はほっとくの!」
ビシィ! とサモナイト石を指差して、ミニスさん、指導開始。
「それじゃダメなのよ。ちゃんと応える声を聞いて、それから喚びかけてあげなくちゃ」
一歩間違えたら、ローレライを界の狭間に放り出しちゃうかもしれないんだからね?
界の狭間。それは、リィンバウム、そして他の四界、いずれにも属さない場所。名前のとおり、界と界の狭間にある――空間、と云うべきか。何があるか何がいるか、そうしてどのような場所なのか……具体的に知る者はたぶんいないだろう。と。いつだったか、マグナやトリスがネスティから授業受けてる傍らで、漏れ聞いた気がする。かなり、うろ覚えではあるけれど。
故に、召喚獣に限らず、そんなところにほったらかしてはどうなるか。想像は出来ないが、実行はもっと出来るものではない。させてはならじ、してはならじ。
――とばかりに、ユエル、もう一度、気合いを込めなおしたようだ。
「う……うん! ユエル今度こそがんばるよ!」
「その意気よ、頑張って!」
「……えーと……」、
燃え上がるふたりに水を差さないかと不安になりつつ、は横手から一応、辞去のために一声かけた。
「頑張ってね、ふたりとも。……お風呂のお湯冷める前まで」
「判ってるわよ、もう。ってお母様みたいなコト云うのね」
「……う」
それは、あたしが老けてるってコトですか?
と問おうとしたけれど、それはなんだかファミィさんに悪い気がして(っていうか電撃きそうで)、はそのまま口篭もる。
その様子がおかしかったのか、ミニスはくすくす笑って、
「悪い意味じゃないわよ。それに私、には感謝してるんだから」
「へ?」
「……シルヴァーナのペンダントを捜すの、励ましてくれたでしょ?」
「ユエルもっ! がいてくれたから、ユエル、あの男から自由になれたんだよっ!」
こちらの会話を聞いていたのか、ぱっと顔をあげてユエルが云った。
そこにミニスの叱咤が飛ぶわけだ。
「こらっ、ユエル! ちゃんと精神集中するの!」
「はっ、はぁい!」
再び目を閉じたユエルを満足そうに見て、ミニスはに向き直る。
ユエルの邪魔をしては難だと思ったんだろう。手振りで身をかがめるように示すと、の耳元にこそっと唇を寄せた。
「ユエルの分も。――ありがとうね、」
それから。
「頑張ろうね」
トリスやマグナや、ネスティやアメル……貴女たちの決着をつけるために。
「あっはははは、頑張るねぇちびっこたちも」
中庭の秘密の特訓を聞いたモーリンが、風呂中に響く笑い声をあげた。
ルウはモーリンみたいに爆笑しなかったけど、ローレライの代わりに海水を喚んだっていうのがウケたのか、話の途中から肩を震わせている。
あまつさえ、
「でもよりは見込みあるんじゃない? 少なくとも、メイトルパのものは喚べてるんだもの」
とまで仰る始末。
「どうせあたしは召喚術の適性ゼロどころかマイナスですよーだ」
判っちゃいるけど妙に悔しくて、湯船に浸かっているルウの顔に水鉄砲。ぷしゅ。
「きゃっ!?」
「やーい、引っかかった引っかかった」
「、それどうやるんだい?」
ルウが文句を云うより先に、興味をひかれたらしいモーリンが、ざばざばと、波を立てつつこちらにやってきた。
に仕返ししたいのか、ルウも、まじまじとの手元を覗き込んでくる。
二人分の視線を受けて、は「えーとね」と、一度開いた手を再び組み合わせた。
「こう、手を組んで」
親指の重ね方がポイントかな。云ってる横で、ふたりが真面目な顔して倣ってる様子が、いとおかし。
「それから、一気に、ぷしゅっとお湯を押し出す感じ」
「こうかい?」
見様見真似らしいモーリンの水鉄砲は、果たして、の見せた見本よりもきれいに遠くまで飛んだ。
……なんだか悔しいぞ?
でも、反対隣のルウには難しいようだ。
水鉄砲というより、ちょっと勢いのない噴水って感じの水があがるばかり。
それをがからかってルウがムキになり、モーリンが煽ってよけい不機嫌になって、結局ふたりがかりでなだめにかかる。
ひとしきり、3人できゃいきゃいと、まるで街の女の子たちみたいに遊んだ。
「――ああ、楽しい」
結局最後には、3人そろって笑顔で湯船に肩までつかる。
身体を伸ばしてリラックス。
「何人かでお風呂に入るのって、本当に楽しいわね。毎日はちょっと困るけど」
「あはは、たまにだから楽しいんだよ、こういうのは」
それにこの屋敷の風呂が広いから、こうやって数人で入るなんてことも出来るわけで。普通の民家だったら、まず無理。
「こうなったら、モーリンの家でも是非やらなきゃね」
そう云って、ルウが伸びをした。
「え?」
「ああ、には話してなかったかい?」
きょとんとふたりに向き直ったの表情を見て、モーリンが、ぽんっ、と手を叩く。
「あたいんち、とにかく広いだろ。だから、ルウとユエルに部屋を貸してやろうってことになってるんだ」
「ルウは、ファナンに行ったときに泊り込みで遊びに行くくらいだけど」
「ユエルにはやっぱり、ちゃんと住むトコロがないとね」
だから話し合って、こうすることにしたんだ、と。
ユエルに対する街の人たちの誤解はかなり薄れているから、今からはおいおい解いていけばいいし、何より、おじちゃんとおばちゃんが、またおいでと云ってくれてるらしい。
だけど急に戻るのは、というのもあって、しばらくはモーリン預かりになるんだそうだ。
ファナンの街で信頼されてるモーリンが預かる、という方面の効果もちょっと狙ってるらしい。
「……へー……」
「ユエルは筋がいいからね、あたいも稽古相手が出来るし、願ったりだよ」
だからあんまり、召喚術の方に傾かれると困っちまうんだけどさ。
そのことばに、今まさに召喚術のためにがんばってるユエルを思い出し、は笑った。
触発されたのか、ルウも、結局モーリンも笑い出す。
それから、
「あんたたちもさ」
つと。モーリンが静かに微笑んで、云った。
「え?」
聞き返すと、モーリンは「ルヴァイドやイオスや、も」と、云いなおす。
「もしお努めが終わった後、アテがないなら、身の振りどころが決まるまでうちに来ていいからね」
お努め――とは、ルヴァイドたちの刑、というか。
悪魔に操られていた面を見てそう厳しくはならないだろうが、敵方だったし、レルム村の虐殺もあるし、ローウェン砦の攻め落としもある。
実刑は、まあ、まぬがれないだろう。
でも、そんなに重いものにはならないはずだ。何より、蒼の派閥が減刑に尽力することをエクスがこっそり約束してくれたと、ギブソンとミモザが教えてくれた。
その代わりとして、フリップの凶行の口止めを仰せつかりましたが……それくらいなら、どんとこいである。
「うん。そのときはお世話になります」
だからも、にっこり笑って、その案に同意させてもらったのだった。
――そう。
来るといいね。そんなふうに、優しく楽しい時間を。
みんなで、この手に出来るといいね。