結局――その後フリップの捕り物が繰り広げられたせいで、たちの件自体は有耶無耶のまま、蒼の派閥は門を閉ざした。
それがいささか不燃焼気味なものを残しているが、まあ、こればかりは仕方ない。
――それに。
エクスは、告げようとしていたことの大方を告げていたのだろう。
あれ以上話をしても、あと出てくるものは、謝罪だけだったのではないだろうか。
「……あたしも、なんだか煮え切らないけどね」
「……」
ギブソンとミモザの屋敷の書庫。
腰かけたネスティの真正面に座って、は云った。
やりきれないかも。そうつぶやいた人物に、その場の一同の視線が集まる。
テラスでそれぞれ好みの茶など口にしながら、実はあまり味も判らないくらい放心気味な彼らだったけれど、そのことばにはやけに素早い反応をしていた。
無理もない。
つぶやいたのはトリスであり、彼女を見て頷いたのはマグナであり、アメルであり。
――護衛獣たちは、今、傍にはいない。
この場にいるのは、クレスメントの末裔と、豊饒の天使だった彼女だけ。
気を取り直すためにか、テーブルの上にはケーキを始めとしてお菓子が所狭しとあるけれど、今のところ手のつけられたものはない。
「……だよなあ……」
ふぃ、と、ため息になりきれぬ呼気を吐き出し、マグナがぼやいた。
アメルもまた、応じてうなずく。
「いつかメルギトスが云っていたのは、このことだったんですね……」
――貴方たちは知らないだけですよ
――ニンゲンというものが、自分たちの都合だけでどれほど残酷になれるのか
クレスメントの魔力を奪い、ライルの知識も奪った。
そうしておいてなお、ふたつの一族を迫害しつづけた、それがニンゲンなのだと。
あのことばの裏づけが、今日の、総帥の証言。
……でも。
「でも……」
トリスの頭をくしゃっとなでて、マグナが小さく笑う。
「……でも、俺……だからって、他の人間を嫌いになんかなれないよ」
それはただ、自分も人間だからという、それだけなのかもしれない。
だけど、それを差し引いても、レイムが云い捨てたニンゲンのなかに、大好きな人たちがいるから。
「そうですね……」
マグナの答えを聞いて、穏やかな満ち足りた笑顔で、アメルも頷いた。
そんな兄と聖女を交互に見て、トリスも表情をほころばせる。
「……そうだよね。もう、過去のことなんだもんね……」
そう、彼女は云った。
ネスティは云った。
「僕にとっては、過去じゃない」
薄暗い書庫のなか、表情は見えないけれど、たぶん浮かべているのは苦痛だろう。
屋敷に戻ったあとのことだ。部屋に移動しようとしたら、こちらに直行しているネスティを見かけた。それを追って、はここにきた。
ここにきて――
何が出来る? 何も出来ない。
それでも、放っておけなかった。
そう云ったら、途中で別れてきたルヴァイドとイオスが、らしいな、と笑っていたのが妙に印象に残ってる。
世話焼きでもお節介でも、まあ、なんとでも云ってくれとは答えてきたけど、事実、九分九厘、そうなのだろう。
「マグナたちや、アメルの云うことが正しいのは判ってるんだ」
だけど、ネスティは、が後を追ってくるのを判っていて、それを止めなかった。一度振り返って、ついてくるの姿を確認したきり無反応。
放っておいてくれとも、一人にしてくれとも云わなかった。
ただ黙って、ここへやってきた。
「隠していれば済んだ事実を、彼らはあえて僕らに明かした」
……それだけでも、エクス総帥たちが深い罪悪感と誠意をもって謝罪したのは間違いではないんだろう。
「だが――」
そう云って、ネスティは手のひらを握りしめる。
「理解することと、納得することは、違うんだ……!」
彼は告げる。融機人である自分は、一族の記憶のすべてを、この身体に受け継いでいるのだからと。
「――……融機人の血は、濃い……」
いつか、悪魔たちが云っていたことばを思い出して、ぽつりとはつぶやいた。
それがネスティを余計に追い詰めると察したのは、生憎、ことばがこぼれたあと。
けれどが謝るより先に、ネスティ自身が頷いて、それを肯定する。
「そう。祖先たちの受けた苦難を、僕は【覚え】ている。……それに比べたら、僕の受けた仕打ちなど、本当にかわいいものさ」
口に出せないほど、むごい苦痛と屈辱のなか、誰もが絶望しきって死んでいった。
その今際の記憶さえ――死んだ者が実感しているかどうかも怪しい部分さえ、この血には、鮮明に焼きついている。
「そうした記憶を持つ僕が、彼らの罪を、そう簡単に許せると思うか?」
「……」
「できるわけがないだろう……!!」
問い――彼に対して何が云えますか?
解答――何も云えません。
自分は部外者だ。そんなこと判ってる。
名もなき世界で生まれ、10まで過ごし、リィンバウムにやってきて、ついこの間までデグレアにいた。
何も知らない。彼の受けてきた苦痛も、宿しているという記憶も。
旅を通じて、その一端を垣間見ただけだ。
想像は出来るけれど、知ることは出来ない。たとえネスティが筆舌を尽くしても、それはことばという媒介を通した結果、不鮮明になる。
だから――何も知らない自分に、何かを云えるわけがない。
だから、ただ黙って、はネスティのことばを聞く。
悲鳴にも似た叫びを最後に、ネスティはしばらく黙っていた。
荒げた息を整えて、彼は顔をあげ、を見る。
「……何も云わないのか?」
「うん」
「……」
沈黙は、呆れかそれとも別の何かか。
「……君は本当に、変だな」
「……まあ、うん」
笑みを浮かべたわけではないけれど、ネスティの表情が少し変わったのが、この薄暗いなかでも判った。
不貞腐れている、のか。
拗ねている、のか。
どちらにしても、少しだけ、書庫の空気は和らいだ。
吐き出してしまえば楽になる、とは、誰のことばだっただろう。
少なくとも、目の前の子が今云ったのではないのは、たしかだけど。
うながされたわけでもないのに、ただ、先刻派閥で起きた騒動からずっと抱えてきた――いや、突き詰めればそれこそ生誕の瞬間から持っていた感情の淀みを、ぶちまけていた。
……そうして吐き出してしまっても、楽にはならない。
答えは出ない。
理解は出来る。納得は出来ない。
――許せない。それはきっと、永劫に変わらないものだ。
だけど。
いいんだよ。
ただ黙って座っているだけの、その子が。そう、云ったような気がした。
「あたしは……」
その直後、が口を開いた。
「あたしは人間だし、ネスティが『許せない』っていう対象だよね」
「――――」
そんなことはない。
だって、彼女は、何も関係がない。こんな呪われた自分たちにも、そも歪められたリィンバウム自体にも、本来は。
そう云おうとしたけれど、の方が早かった。
「うん、でもね。ネスティが許してくれなくても、あたしは、ネスティが好きだなあ」
元いた世界のキリストみたいに、すべての人を愛したりは出来ないけどね。
「あたしは、あたしが好きだと思った人は、きっと、ずっと好きだよ」
――好きでいるよと。
彼女は云った。
「そういうことなんで」、
と、照れたように笑いながら。
「それだけ、知っててもらえると、あたし的にはうれしいな――」
いいんだよ、それで。
好きにならなくても許せなくても、それは全然、君が気に病むことじゃない。
許さなくてもいいよ。
君が誰を許さずとも、君を好きな人は、きっと君を好きでいる。
君が誰を許せなくとも、君の好きな人を、君は好きでいるだろうから。
――誰かを好きになる気持ちは、誰からも消えたりはしないから。
「…………」
涙が。
零れて溢れて止まらなくなるんじゃないかと。一瞬、思った。
自分勝手だよねえ、と、笑うに、そうではないと云いたくて、けれどそれはことばにならない。出来ない。
人に向ける感情は鏡になって己に帰る。
嫌っている相手にはまず嫌われるし、好意を抱く相手とは付き合いやすい。
嫌われても好きだ、なんて云える人間は、まずいない――筈で――
「……」
固まってしまったネスティをどう思ったのか、は頭に手をやって、
「あ、うん。偽善だし。自分勝手だねー」
自嘲と照れを織り交ぜ、笑う。
だけど、発したことばの訂正はしない。
「……でも、ほら、しょうがないのよこういうのは」
笑う。
楽しそうに幸せそうに、嫌われる対象として嫌うと云ったはずの相手を前にして。
「好きなものはさ、好きなんだし」
その感情が、家族、もしくは友人に向けるようなものと同義であるのは知っている。
自分たちにそんなヒマもないのも判っている。
だけど。
もうひとつの意味のそれなら、と、思ってしまった。そういう感情を、覚えていた。――たぶん、もう、ずっと前から。
「…………」
「うん?」
名を呼べば、彼女は応える。
結局変わらない笑顔で。今はそれを、自分だけに向けて。
そうとってくれないだろうことは判っている。
それでも、ことばにしてしまわざるを得ない、衝動。
。僕は。
「――君が好きだ……」
これがどの意味の感情なのか、自身がまだ判ってない。
随分前に亡くした母にすがる気持ち、大切な友人に寄りかかる気持ち、たった一人に向ける気持ち。どれ?
……どれでもいい。たぶん。
この気持ちだけはきっと変わらない。
僕は人間を許せなくとも、僕が、君を好きだ。
――好きでいる。
きっとずっと、好きでいられる。
君も、そして、彼らも。僕らも。
うわビックリした。
ネスティの真っ直ぐな視線を受け止めて、は慌しく目をまたたかせ、一瞬固まった。
いや、だってさ。
だって、この人は、めったに感情を露にしない。
トリスやマグナを見る暖かい目や、端々の態度で、ああそうなんだなと察させるくらいだ。
さっき蒼の派閥で怒ったときもみんな驚いたけれど、それは、怒りの大きさも当然ながら、そこまで感情を出したってことも含まれていた。
それが。
その人が。
こんなストレート真っ直ぐに、好意を伝えてくれることが今だかつてありましたでしょうかラウル師範!? いないけど。
……うわあ。
うわ――――……これは、なんだかとっても嬉しいぞ?
そんなコトを考えている、の硬直をどうとったのだろう。
少しだけ寂しそうな、でも和らいだ笑顔を浮かべて、ネスティが立ち上がった。
向かい合って座っていたの方に歩いてきて、
コツン、
軽く、頭を叩く。
「……君たちが、好きだよ」
頭に置いた手を、の頬に添えて。ネスティは身をかがめた。
頬に触れた暖かい感触。
くすぐったくて笑ったら、顔を離してネスティも笑った。
それから、また近づいて。耳元で何ぞ囁かれ―― かけたとき。
とーとつに響く第三者の声、
「いい加減にしなさいこの機械ダー!!」
「古ッ!?」
咄嗟にツッコんだの声、
その直後。
ばこーん!! と、爆音けたたましく降ってきたのは。
「うわあレイムさん!?」
「メルギトス!?」
「げほげへごほほごふげほぐはがほごほッ」
「「…………」」
……いや、そりゃあんた、書庫の天井ぶち破って降ってくりゃ、埃の犠牲にもなろうってもんでしょう……
どうやら相当苦しいらしく、身体を折り曲げて咳き込んでいる大悪魔を、とネスティはしばらく放心して眺めていたのであった。
この隙に逃げればよかったんだろうが、生憎、あまりの情けなさに一瞬脳みそが真っ白になっていたのである。
「……かふッ……ふう……失礼しました」
ほんとにな。
ようやく咳がおさまったらしく、レイムが立ち上がり、改めてたちを見る。
が。
そのときには、真っ白になってたお二人さんの脳みそだって、十二分、回復していたりするわけだ。
すなわち。
「三十六計逃げるにしかずー!!」
ダダダダダダダダダダッ!!
こちらの世界の人間には意味不明な叫びを残し、はネスティの手を引っ張って全力疾走、書庫をあとにしたのだった。