月は、とてもとてもきれいで。
世界が蒼白く澄んだ色に染められて。
見ていたら、どうしてか、とても逢いたくなってしまった。
誰か――?
そんなの、決まってる。他の誰でもない、君に。
「眠れないのか、イオス」
特務部隊、黒の旅団の野営地。
天幕の外で夜空を見上げているイオスの横から、不意に声がした。
振り返った先には声の主――ルヴァイドが佇んでいる。
昼間の行動を思い出し、イオスはあわてて頭を下げた。
「……今日は、申し訳ありませんでした」
「いや、済んだことだ」
短い返事。
そしてイオスもルヴァイドも黙ったまま、同じように空を見上げる。
「逢いたいのか?」
「え!?」
唐突なルヴァイドのことばに、あわてて振り返る。
「な、何をいきなり……!! 僕は別にに逢いたいなど……!!」
弁解するように云ってから、失言に気がついた。
くつくつと、喉を鳴らしてルヴァイドが笑う。
そうしてふと、笑いをおさめ、一転していつもの表情に戻ると、イオスに向かって問いかける。
「記憶をなくし、おまえのことを知らぬに――それでも、逢いたいのか?」
――イオス!!
――イオス、あのね、……
デグレアで笑っていた彼女の顔が、不意にイオスの脳裏に浮かぶ。
――あなたはあたしの名前を知ってるけど、あたしはあなたの名前をまだ知らないんだけど
それから、この間名を訊いてきたときの、を。
「はい」
うなずいた。
記憶がなくても、あの子の本質はなんら、変わっていないと。ルヴァイドと同じようにイオスもまた、それを確信しているから。
声に出したとたん、無性に思いが募る。
最後に見た彼女の顔は、自滅しようとした自分を心配したのか怒っていたのか、ひどく泣きそうな顔だった。
謝りたい。
仲間が目の前で死ぬことの辛さを、自分はよく判っているのに。彼女にそれを味あわせようとしたのだ。
記憶を失って尚、笑いかけてくれたあの子に。
「夜明けまでには戻れ」
「ルヴァイド様!?」
あの子にいちばん逢いたいのは、貴方だろうに――
一軍の将として、この場を離れられぬルヴァイドの立場を理解しているつもりだったが、思わずそんなことばが口をついて出そうになってしまう。
代わりに、天幕に戻る彼の背中に黙って頭を下げた。
そうして身を翻すと、馬を一頭借り出し、ゼラムへ向かう。
途中見上げた夜空には、変わらない大きな月が、世界を照らして。
月はきれいで。とてもとてもきれいで。
まるで、そのひかりに導かれたみたいだった。
――そう云ったら、君は笑うかな……
――笑うかな?
調子に乗って、つい王都門のところまで歩いてきたの目の前に、現れた彼を見て、そう思った。
門兵がいないのは、きっと交代のための空白かなにか。
月に呼ばれたような気がした。
そう云ったら、あなたは笑うかな。
……いや、まず、自分自身が爆笑だ。
なんてが考えているとは露知らず、イオスはにこりと微笑んで、こちらに手を差し出した。
「おいで」
「……」
いいのかな。今は。
あなたたちを何故だかとてもいとおしいと思うこの気持ちを、今は、押し込めなくてもいいのかな。
……だとしたら。
爆笑されても爆笑しても、そうしたい。
だから、手をとった。
思い出すのはあの日の夜。
炎に囲まれた、邂逅の瞬間。
だけど不思議と、恐怖はなかった。
フロト湿原でルヴァイドへの恐怖を消し去れたときに、そういうものすべて、消えてしまったのだろうか。
「謝りたかったんだ」
「?」
城壁の、門からは離れた部分にふたりでもたれながら、けれど視線は合わさないまま夜空を見上げて。
ふと、イオスがつぶやいた。
「昼間――君の気持ちも考えずに」
知っていたはずなのに。自分は。
命を捨てようとした彼に云ったことばを思い出して、今更ながらに、はあわてる。
「いやあのその、それは、あたしもちょっとパニックだったから、かなりひどいコト云ったかもです」
だからあたしもごめんなさい。
告げるを見て、イオスは笑う。屈託なく。
今の彼を、いったい誰が、デグレアの軍人だと思うだろうか――そう思わせるほどに、イオスの雰囲気は、とても柔らかだった。
自然と、気持ちがゆるやかになるのが判った。
知っているかもしれない。この気持ちを。
どこか遠くから、心がこの空間を、懐かしいものだと教えてくれる。大切なものだと主張してる。
――うん。あたしは、この空気を知ってる。
好きだったんだね。大好きなんだね。
「」
膝を抱いて空を眺めていただったけれど。イオスのことばに、視線をおろす。
「何ですか?」
横を向くと、すぐ近くにイオスの顔があった。
彼の持ってきた明かりがふたりを照らし、イオスの、を映している赤い瞳に反射している。
それは相手から見た自分も、似たようなものかもしれなかった。
「――」
「はい?」
繰り返される、名前。
「」
「はい」
優しく耳に届く、そのことば。
「…………」
ただ、ただ。イオスは彼女の名を繰り返した。
「――」
自分が名前を呼んで、彼女が応える。
それだけのことが、無性にうれしくて。繰り返す、何度も。
途切れさせるのも何故だか惜しく、戯れのようにイオスに付き合い繰り返すうち――ぶるっ、と。不意に身体が震えた。
「寒いのか?」
「うーん、ちょっとだけ。夜が冷え込むの忘れて、上着持ってこなかったから」
昼間は暖かいのに、夜ってけっこう冷えるんだね。
考えてみれば、夜歩きなんてしたことない。だからしょうがないとも云えるけど。
その辺の草でも集めて燃やそうか、なんて物騒なコトを考えていたら、急に身体が暖かいものにつつまれる。
身体に後ろからまわされたのは、イオスの腕だった。
「うわ、い、イオ……っ!?」
「あたたかいだろ?」
「そそそそそっ、それはそーですけど、いきなりぎゅーってされてもあたし反応に困る!!」
じたばたじたばた。
「じゃ、反応しないといい」
「人間は脊髄反射の生き物です!」
「……それはすごい」
心臓が、鼓動を速めるのが判る。顔が熱かった。
だってだってだって、男の人にいきなり抱きつかれるのって免疫ないしっ、ていうか記憶あってもなくても恥ずかしいよこれきっとっ、そりゃリューグに最初に逢ったときも抱き上げられたけど、あれは切羽詰ってたしっ!
「とにかく見逃して〜〜〜」
何をだ。
混乱しまくったに苦笑して、けれど、イオスは腕を緩めない。
「」
「ははは、はい?」
上ずりまくったそれは、イオスの呼びかけに応える声。
「…………」
「はい?」
ずっとこうしていたいけど、それは出来ない相談だった。
出来ればこのまま、自分たちの処に連れて帰ってしまいたいけれど、それはこの子の心を殺してしまいかねない。
だから。せめてもうしばらくは。
「もう少し。いいだろ、」
ささやいて。より腕に力を込めると、それ以上抵抗しても無駄だと悟ったのか、彼女の動きがぴたりと止まった。
心臓ばくばく。頭ぐらぐら。体温現在上昇中。
肩に頭を押し付ける、イオスの髪がくすぐったい。彼の息がかかる部分が、とても熱い。
なんでだろうどうしてだろう。
隣に座ってたときはすごく安心できて、なのにくっつかれたら急に緊張してしまう。
や、やっぱり敵だから必要以上に接近させちゃいけないってことなのか。
隣に座らせるだけで充分必要以上だけどな。
――どれくらいそうしていたのか判らなかった。
出てきたときにはまだ空の端にあった月が中天に達した頃、ようやくイオスはを解放し、立ち上がらせる。
どはー。
意図せずこぼれた誰かのでっかいため息に、当人はこんなに緊張してたのかと驚き、聞いた相手は少し悪かったかなと苦笑い。
それから、
「行くの?」
「ああ」
短いやりとり。
「また……ね?」
「――ああ」
また。
また次に逢うことがあるなら。
そのときは、敵に。なるね。
口にせずとも感じる現実が、やはりとても痛い。
馬を近くに繋いでいると云っていた、イオスの背中を見送りながら思う。
気持ちに正直になろうと決めて、アメルを彼らに渡さないようにすることが、それに沿うと思っても。彼らと戦わなければそうできないという、それが、とても痛い。
揺れ動きながらも、前に進む道がおぼろげにでも、見えるなら。――進みたい、そう思うけど。
空っぽの記憶が怖い。
自分は何を思って、あの場所にいたのか。どうして、今去ろうとしているあの人たちのもとに、いなかったのか。
ぎゅ、と唇を強く噛み締める。
考えるなと自分に云い聞かせた。
考えたら、果てのない思考の海に沈んでしまいそうで怖かった。
「!」
「え?」
急に、イオスが身体を反転させ、駆け戻ってきた。
戸惑っていると、また、腕をまわして抱きしめられる。
それは、さっきのように包み込むものではなくて。伴うのは、痛いほどの強さ。いつの間にか濡れていた頬を、頭ごと抱えられ、イオスの胸に押しつけられた。
そのまま、何かに急かされるように、突き動かされるように、彼は告げる。
「君が君を知らなくても、僕たちは君を知っている」
今はまだ、それしか云えないけど。
「君の選択を、知っている。君が君の心に従って決めたことだって、知っている」
ともに過ごした時間。お互いに培った信頼。君がその道を選んだときも、それは薄れることはなしに。
「僕が云うべきことではないかもしれないが、」
何はなくても、不安で居ても。
これからも僕たちは迷うだろう。
ことばに出来ないそれを、イオスはただ、思う。
国のために、一族のために戦うことを、あの方はほんの少し、迷い始めている。
騎士としての誇りと個人としての思いを殺してまですべきことなのかと。それはまだ、小さなものだけれど。
。
君の心がそうさせた。
聖女をデグレアに捕らえさせるわけにいかないと、そう思い、そうして行動に移った君の在り様。
心のままに動くコト、気持ちに正直に生きるコト。記憶をなくしても、変わらずに在る君を、うらやましいとさえ――思うかもしれない。
今そうすれば、今度こそ間違いなしに、議会はルヴァイド様を許しはしないだろうから。今はただ、この道を歩くしかないけれど。
そして、この道を僕らはこのまま歩いていいのか、と。これからも迷うだろう。
だから。君は、君だけは。
「迷わずに。どうか。君の思うその先に、君の進む道はあるから」
例えそれが、僕たちと戦うことになる道であっても、君の心がそう告げるなら、それが君の真実だ。
……それからどうやって屋敷に戻ったのか、思い出そうにも思い出せない。
イオスのことばを聞いた瞬間、嬉しくて哀しくて、でもそのとき何を考えていたのか、もう今では欠片もない。
だけど何か、大切なものを手にしたような感覚。
ぼんやりと、心ここにあらずの態で、出てきたときと同じように庭をとおり、窓に向かう。
「さん」
「あ、ロッカ……?」
庭に立っていた、双子のかたわれのことばに、ようやく意識が現実に戻った。
何かをしていたのだろうか、彼の足元に置かれた強めの明かりのおかげで、周辺の景色もはっきりと見える。
心配そうなロッカの表情も。
「何処へ行っていたんですか?」
「……お散歩」
ごまかそうというつもりはなかった。
ほんとうに散歩に行くつもりだったのだし、イオスと逢ったのも結局、偶然だったから。
「ロッカは?」
「僕は少し眠れなくて……稽古しようと思って。そうしたらさんが戻ってくるのが見えたから」
「そうなんだ、お疲れ様」
何の気なしに手をのばし、ロッカの頭を撫でてやる。
「っ、さん!?」
どうしてか、ロッカは動揺した素振りを見せてから離れて。その反応に、の方が驚いてしまう。
「どうしたの?」
「あ、いえ、なんでもないです。すみません」
「声。上ずってるけど」
「え!?」
慌てるロッカの様子がおかしくて、思わず笑いがこぼれた。
「じゃあ、あたしはもう寝るけど、ロッカはどうする?」
「僕は――もう少し」
手にもっている、先を潰した槍を見せるロッカに、あまり無理はしないようにね、とそう云って。今度こそ、は部屋へ戻る。
窓をよじ登るところは、部屋が角を曲がった先だったので、幸い見られずに済んだ。
そしての奇行を見ずに済んだロッカは、槍の稽古を再開するべく構え――
ふと、彼女の歩いていったほうを、気がかりな顔で振り返る。
「……どうして泣いていたんだろう」
明かりがあったのが、災いしたのかもしれない。
頬にくっきり残った涙の跡を、ロッカの目はとらえていた。
それに加え、彼女が悲しそうな顔をしているのが、痛いほどに判ったけれど、何故か訊けなかった。
どうしてか、訊いてしまったら、もっと哀しい顔になるような気がして。
そうしてそれをしてしまったら、何故か後悔してしまいそうに思えて。
「……おやすみなさい、さん」
だからせめて、届かないと判っているけどそうつぶやいて、一度頭を大きく振り、今度こそ、ロッカは稽古を再開した。
心に浮かぶ何かの思いを振り切ってしまうように。