けれど、その答えはではなく、まったく別の人間の声がつむいでいた。
「――メルギトス」
再び静まり返ったその場に、響く声。
トリスやマグナやネスティ、そうしてたちにとっても、聞き慣れた男性の声。
「ギブソン先輩!?」
振り返ったネスティが、珍しく、驚きも露に呼びかけた。
相当急いできたのだろう、多少息を乱したギブソンが、たちの一団の後方に立っていたのである。
その少し後ろにミモザ。手に持った紙――それには、見覚えがある。
たしか、禁忌の森の石版の写しをとったものだ。
そうしてそれがたしかにそうなのだと示すように、ギブソンは、レイムを睨みつけて、告げたのである。
「虚言をばらまき、奸計を張り巡らせ、人間の心をもてあそぶことを何より好む――大悪魔メルギトス」
……それが、貴様の正体だ!
ばっ、と、硬直の解けたらしいルウが、ギブソンを振り返った。
「ちょっと……メルギトスって、遺跡の碑文にあった名前じゃないの!?」
そんな、叫びにも似た彼女の疑問に答えるのは、ミモザ。
ええ、と頷き、手元の紙に目を落として、
「かつてリィンバウムに攻め込み、召喚兵器となった天使アルミネに封じられた大悪魔――それがあいつよ」
「……悪魔……って……」
「あの人が……?」
ぽつぽつとこぼれる声。
そんななか。はた、と思い至って、は、ある人物を振り返った。
ある人物――サプレスの悪魔である、バルレル。
じっとレイムを睨みつけていた彼は、の視線に気づくと、バツの悪い顔になって見返してきた。
……やっぱり知ってて黙ってたんだね?
軽く睨みつけると、バルレルは、肩をすくめて明後日の方向を見やってしまった。
あとでとっちめちゃろうかと思ったら、つと、袖を引っ張る誰かの手。
「……ハサハ?」
ふるふる、と、彼女は首を振った。
「……起こしちゃだめだって……きっかけは、何があるかわからないからって……」
だから、バルレル君、だまってたの――
ぽそぽそと、いつになく小さな声でハサハは云った。
気を遣ってもらってたのかと、は別の意味で頭をはたきたくなりつつ、もう一度バルレルへ目を戻す。
じ、と。再び、自分を見る赤い双眸がそこにあった。
どこまで知ってる? どこまでその手に握ってる?
彼のそれは、問いかける視線。
……ごめん。実は殆ど五里霧中。
そう、同じく目で答えたら、バルレルはあからさまに脱力した様子を見せて、今度こそ明後日を向いてしまう。
……それはそれで腹が立つぞ、おい。
――などとたちがのんきなコトをしている間にも、事態はその横で、刻々と動いていた。
「ご名答です」
ギブソンとミモザ。ふたりの持ってきた解答へ、そう、レイムがつぶやいたのと、ほぼ同時。
「ぐっ……」
「が……」
「ががぁっ……!?」
半ば呆然としたままの一行の周りで、次々と奇声が発された。
既視感をもたらすその声に振り返り、そうして彼らが目にしたのは。
「ぐが……っ……ぐるるるがああぁぁぁッ!!」
――獣じみた悲鳴とともに身悶える、デグレアの兵士たち――!
「コレハ!?」
「――鬼神憑依!」
ゼルフィルドの零した驚愕に応えたわけではなかろうが、カイナの鋭い声が飛ぶ。
「キュラー!!」
いつの間に――意識を占めるのはその思い。
レイムに集中していたのが仇になったかとの自省も強い声で、名を呼ばれた鬼人使いは、クククッ、と、例の笑いをこぼしていた。
「祖国を失った絶望には、さすがの黒の旅団の精鋭たちも、耐えられなかったようですな?」
たやすく、鬼へと変じてくださいましたよ。
「――――!」
鬼神憑依。
それは人の魂を喰らい、器を奪い、傀儡と化す邪道の術。
「う……っ――がぁぁぁ……ッ」
「ああああぁぁぁぁ――――!!」
そして。
彼らもまた。今まさに、変異させられようとしている、彼らの。
「ゼスファ! シルヴァ!!」
「うぐ、る、があぁぁぁぁぁぁぁああぁぁ――――!!」
「――ウィル――!!」
声が。
手放しかけたの意識を、引き戻した。
「だめ……!」
うめき、おののき、変貌していく彼ら。そこへ駆け寄って、腕を取ろうとした。
苦しんでいるなら、それは、抵抗しているということ。ならばまだ、声は届くかもしれないと。
「だめ! だめだ、気、確り持って! こっち見て!!」
黒い兜の奥。
向かい合うときは、いつも、優しく、楽しく、笑い合っていた彼らの目は、ただ苦痛に閉ざされ、歪められていた。
「シルヴァ! ウィル! あたしが判るでしょ!? ゼスファっ!!」
「がっ……あぁっ……」
「終わりじゃない!! 終わってないよ!! デグレアは、黒の旅団は、まだ、まだ全然終わったりなんかしてない!!」
デグレアで生まれてデグレアで育ったあなたたちがいる限り、デグレアって国の存在は、消えるわけじゃない!!
だから。
「だから! 諦めないで!!」
諦めないで。
鬼に心奪われないで。
還ってみせるって約束したんだ。
みんなでまた、笑いあえるようにって。
「みんな――みんなで、還ろうよ……!」
だから!
「ががっ……ぐがあぁ……ッ!」
「しっかりしてよっ!! あたしの声、聞こえるでしょ!? 鬼の声なんて聞かないで!!」
「――無駄ですよ、さん」
ひんやりと響く。レイムの声。
「ニンゲンは所詮、貴女のように強く在れない……」
優しく、冷たく。
最後通告が投げられる。
だが、
「そんなことない!!」
振り返ることはしないまま、はそれを跳ねつけた。
「強くないから強くなるんだ!! 人間は」、がち、と、唇の端を噛んだ。にじむ血の味。痛み。それさえ気にも留めず、「生きてる人は、みんな生きてる、だから、みんな強いんだから――!!」
だから――
「鬼になんか……っ!!」
それと、同時だった。
「――ぁ」
「え……」
咆哮が、止まった。ほんの一瞬。
まぶたで遮られていた彼らの双眸が、その瞬間、開かれた。
……を映して、細められた。
苦痛故にではなく。
そう。
いつかのように、いつものように。
優しく、楽しく――あたたかく。
笑って、
「生きテけよ」
「しあワセにな」
枯れてひび割れてひきつった声で、
全身を襲っているだろう苦痛に抗し、
歪みかける表情を、おそらく必死で笑顔に保ち、
まえへ
「俺たちの分を持っていけ!! この先絶対に投げ出スな……ッ!!」
さきへ
――渾身の。力込めて、彼らは、それを託した。
レイムはわずかに目を見張る。
「ほう……」
それから、感心したように、口の端をほころばせた。
「――少しだけ。撤回しましょうか」
いつかのように。
いつものように。
優しく、彼は微笑んだ。
「シル――」
「があああああァァァァァァァッ!!」
彼らの叫びに応える程度の余裕さえ、に許されることはなかった。
「!」
剣が振り上げられると同時、誰かがを引きずり下げる。
それまでの立っていた場所に、明らかな殺意を込めて振り下ろされた刃の軌跡。巻き上げられた土くれ。
体勢を立て直すいとまも惜しく、戻した視界に映ったのは、変わり果てた彼らの姿。
いつかのような、いつものような。優しく笑う光はない。暗い穴のように落ち窪んだ、それが、今の彼らの目。
「やだっ……」
意志を失い、これからは悪魔たちのいいように使われるであろう、傀儡の目。
「――やだ―――――!!」
見たくない。
見たくない、見たくない。
叫び、そして閉ざそうとした目は、だが、そう出来ない。
見えぬ何かの力が押さえつけているかのように、上下の瞼はまたたきも忘れて見開かれたままだった。
だから、はそれを見る。
黒い甲冑。黒い兜。
それらに包まれた土気色の肌。
その奥にある暗い穴。
何かの命令を待つように、所在無く、力なく、意志もなく、ただ、だらりと垂れ下がる腕。立っているだけの足。
――鬼神の憑依は完了していた。
――彼らの魂は喰われてしまった。
「……なんで」
なんで。
どうしてこんなことになるの。
「どうして――!」
ゆらり、視界が白く霞んだ。
それは予兆。
感情が昂る。背筋が泡立つ。世界から何かが入り込んでくる。
力。
これは力。
世界が、望むならそれを成せと云っている。
だけどそれは、あたしにじゃない。驚いたことに、まだ残っていた冷静な部分が、そう指摘した。
世界は。あたしだと、思ってるだけ。
そんなもの、使うわけにはいかないと。欠片程度の理性は、判っていた。
「よくも」
だけど、昂った感情が、それをねじ伏せようとする。
「――よくも、みんなを……ッ」
ゆらり。それまで見えていた世界が、蜃気楼のように、揺らめいた。
薄皮一枚隔てた場所、それの満ち溢れる領域に、意識は何も遮るものなく引き寄せられ――
「バカがッ!!」
パァン!!
「っ!?」
頬に走った衝撃に、意識が引き戻された。
痺れにも似た感覚を伝える頬に手のひらを押し当てて、は、自分をひっぱたいた相手を見る。
……小さな手。
小さな身体。
「……バルレル……」
「……悪ィ。」
急に手をあげたことを後悔しているのか、表情を歪めて、バルレルが云った。
けれど、と。不意に腕を引かれた。
反射的に上半身をかがめる形になったの耳元に、唇を寄せてバルレルは囁く。
――に? 誰に?
「……目、覚ますんじゃねぇよ」
どこか、懇願めいたものを含めて、
「もう囚われたくねえだろ?」
「……」
「まだ、テメエはテメエでいろ」
……頼むから。
「……ッ」
双眸に溢れていた涙が、一気に頬を濡らすのを感じた。
仲間たちの変わり様が涙を生むきっかけだったけれど、それが流れ出した一線は、間違いなくバルレルのことば。
あたしはあたしでいる。そう決めた。
あたしのままで、欲しい道を選びとってみせるって決めた。
それで、やっと、ルヴァイド様たちにことばが届いたのに。
それで、だのに、黒の旅団のみんながいなくなってしまった。
シルヴァ。ゼスファ。ウィル。
近しかった彼ら、そして、多くの、多くの。一緒だった人たち。
一緒に過ごした。一緒に戦った。一緒に勝利を喜んだ。敗北の悔しさだって味わった。
……一緒にいた。この世界に来て、ずっと、ずっと。これからも、そうだと思ってた。
……要らない。そう決めた。
あたし以外のちからは、あたしには、必要ない。
そうでなければ、あたしが歩く意味がない。
その気持ちは本当だけれど。真実だけれど。
このあたしは、どこまでも無力だ――