覚悟はしていたものの、やはり、その人物の前に顔を出すのはためらわれた。
けれど、自分が出て行かなければ、彼は、この家に乗り込んでくるだろう。
もしかしたら、だが、あの兄妹に遭遇しないとも限らない。
表情も動作も硬くなっている自覚を持ちながら、ネスティは、第一声の時点で部屋を出、早足に玄関へと移動したのである。
「……ネスティ・ライルはここにおります。フリップ様」
その瞬間、男の双眸がぎらりと光った。
獲物を見つけた歓喜と、追い詰められた獣にも似た、狂気の光。
咄嗟に身構えることが出来たのは、やはり、日々の戦いの賜物か、
「ネスティ、貴様ァッ!!」
どす、と、打ち込まれる拳は、微妙に鳩尾から逸れていた。
それでも、相当の力が込められていたらしく、衝撃をすべて受け流すことは出来ない。
ぐ、とうめきながら、ネスティは身体を折る。
けれど、フリップはそれで終わらせるつもりなど毛頭ないようだった。
――がつっ、と、頭に衝撃。
「よくも、私の命令に逆らえたものよなぁ?」
それから髪の毛をわしづかみにした師範は、鼻っ面突きつけ、怒鳴りつけてきた。
「あの双子が一族の秘密に関わろうとしたのなら、おまえの手で必ず殺せと命じただろうがッ!?」
がづっ、ばこっ、
響く低音。連動して受ける衝撃。
こんなときでも、冷静に、急所を避けるべく動く身体をありがたいと思うべきか。
フリップがそのことに気づけば、ますます逆上するだろうが、幸い、彼は研究畑の人間であり、実戦慣れはしていない。
現に、もう、息があがってきている。
「ハァ、ハァ……っ」
荒れた呼吸もそのままに、フリップは、ネスティの髪をつかんでいた手を離した。
当然、ネスティの身体は重力に従って床に落ちる。
そこに覆い被せるように、鋭い声が飛ぶ。
「禁忌の森の過ちは、召喚師である者たちにとって最大の汚点だ。それを、素性の知れない平民どもにまで明かしおって……どう責任をとる気だッ!!」
ふざけんなコラ。
「素性知れなくて悪かったわねこのブ……ッ」
ばたーん! と、扉を開け放ち、威勢良く啖呵を切ろうとしたは、トリスとマグナに両側から押さえ込まれた。
けっして、ブタさんの鳴き真似をしたわけではない。ないったらない。
唐突に現れたたちに、フリップは驚きの目を向ける。
それがクレスメントのふたりであり、デグレアのひとりであるのを見ると、驚愕はとたんに、怒りにとって変わられた。
「貴様らか……! デグレアの狗と罪人どもめがッ!!」
うっわ。狗かよあたし。
デグレア軍ということで、疑惑の目を向けられるのはしょうがないと思っていただが、これには思わず絶句した。
マグナもトリスも、正面きって罪人呼ばわりされたことで、やはり固まった。彼らはそもそもあの師範にいい印象を持ってなかったみたいだが、これで思いっきし、彼への感情は瓦解しただろう。
瓦解するほどのモンも残ってなかったかもしんないケド。
が、黙っていられなかったらしいネスティが、それに反論した。
「お言葉ですが、フリップ様……っ」、
咳き込みながら身を起こして、フリップへと向きなおる。
「は……彼らは皆、信用に足る者たちです……!」
――だけど、それは見事に火に油。
フリップの顔が、ぴくりと引きつった。
「けして、貴方のお考えになっているようなことは―― っ、ぐぅ……っ!?」
なおも云い募るネスティのことば半ばで、フリップは、彼の腹を蹴り飛ばす。
飽き足らないのか、踏みつけるように足を何度も振り下ろしながら、
「黙れ黙れ黙れッ!! 貴様は私の云うことだけを聞いておればいいのだ!!」
云い放つ。
「この、出来そこないの機械人形めがッ!!」
「いい加減にやめろっつのよこのド外道がッ!!」
――ドカァッ!
目の前の男が、大切な人たちの上役(認めたくないけど!)である以上、直接手をあげるわけにいかない。
たかだか数分で怒りが臨界点に達したがしたことは、だから、床に拳を叩きつけるコトだった。
見た目かよわい――と見えなくもない――少女が、まさか床をへこますほどの打撃を繰り出すとは思わなかったのだろう。正直、火事場の馬鹿力だが。ほんの一瞬揺らいで消えた白い陽炎に、誰も気づく者はなかった。
そうして、呆気にとられたフリップの隙をつき、マグナとトリスが、ネスティをフリップから引き離す。
「……っ、いいんだ……っ、君たちは関わるな……っ!」
苦しい息の下からネスティはそう云うけれど、ふたりが聞けるわけがない。
かばうように、フリップと兄弟子の間に身体を入れた。
けれど、そんなことでさえ、くだんの師範には嘲笑の材料になるらしい。
侮蔑しきった視線が、蒼の派閥の3人とに注がれる。
「ほぉ、罪人同士の哀れみあいか……」
「な……ッ!?」
「いい気になるなよ、成り上がりがッ!!」
「なりあがり――?」
下積みコツコツやって軍人許可とったあたしの立場はどーなる。と思うを指しているのでは、あるまい。
が、ネスティは努力肌の人だし、マグナとトリスはすったもんだの末に派閥でいい扱いもされないままに修行だかなんだかの旅に放り出されたはずだ。
……成り上がりってのはもっとこう、なんか違う気がするんですけど。
だが、フリップは、注がれる疑問の視線に気づかないまま、
「調律者ぁ? クレスメント家ぇ?」
汚らしいモノでも口にしたかのように、軽蔑以外のなにものも見当たらない口調で――けれど。
かすかに滲み出す。それは嫉妬にも似た、淀み。
それがなんだろうかと、一瞬気にはなったけれど。それを吹き飛ばすかのように、フリップは怒声をあげつづけた。
「フン! 所詮は過去の栄光ではないか! それともナニか? ゲイルを使って、再びこの世の栄華を極めるとでもほざくかッ!!」
――うっわあ。
「ほざくなッ!!」
絶句に陥る一瞬手前で、は気を取り直し、怒声でもって彼に返した。
「誰がいつどこで何時何分何秒栄華を極めたのよ昔なんて知らない人間が勝手に想像するなッ!!」
――当時を。知りもしないくせに。
しらないのに
クレスメントのしたことは、たしかに間違いだ。罪だ。
だけれど、それまで、その一族を頼りにしていたのは誰だ。持ち上げて、囃したててたのは誰だ。クレスメント以外の人間たちじゃないか。
知らないくせに。
クレスメントの残滓たちが、どれほど長い間、あの閉ざされた空間で苦しみ抜いていたか――
あの森にいた彼らに、同情する気はない。ないけれど。
少なくとも、今目の前にいる男から、そこまで悪し様にののしられる理由などない……!
それに、少なくとも、
「そんなこと、あたしたちは考えちゃいないっ!!」
そう――彼らがそんな道を、選ぶはずはないのだ。
響いたトリスの懸命な叫びも、けれど、激昂しきった男には届かないらしい。
ますます顔を紅潮させて、フリップは懐をまさぐり――
取り出したのは、サモナイト石。
って。ちょっと待てやオッサン。
「信じられるものかよ! 派閥の情けで生かしてもらっておる分際で、図に乗りおって!!」
「師範! 何をなさる気ですか!!」
自分が殴られるのは甘んじて受けていたネスティだが、さすがに、屋敷内で召喚術を発動させるような愚行まで黙って見ていられるわけがない。
だがそんな彼の叫びも、フリップには、毛ほどの抑止力にさえ、ならないらしい。
「黙らんか罪人が!! 貴様たちなど、今ここで制裁してくれるわッ!!」
「やめ……ッ!?」
フリップが、振り上げた腕。
それを、後ろから、誰かの手が掴み、止めた。
同じ立場であるはずなのに、まったく正反対――いやもう、本気で、比べることさえもおこがましいってくらいの人が、そこにいた。
「ラウル!?」
「ラウル師範……」
その人の名を、害しようとしていた者されようとしていた者、同時に呼ばわった。
そうして、その人は、静かに告げる。
「――もう、おやめなされ。フリップ殿」
引き上げてくださるのならば、今見たことは、わしの胸へとしまっておきましょう。
「ぐ……」
格下の者ならば、または部外者ならば。――相手をいたぶることなどなんとも思わない彼でも、同僚のことばには口篭もらざるを得なかった。
同じ立場である、ということは、同じほど(とは思いたくないが)、上への影響力も持つということ。
あからさまな弱肉強食の考えを目の当たりにした疲れか、ラウルは小さく息をついていた。
そして、重ねて告げる。
「お引き取りくだされ、フリップ殿」
けれど、フリップは頷かなかった。
腕こそ下ろしたものの、憤怒の形相でたちを――いや、ネスティを振り返る。
「これですむと思ったら大間違いだぞ! ネスティ・ライル!!」
「……ッ!!」
「おかしな名で呼ぶのはやめていただきたい」
まったく考えを改めないその発言に、マグナとトリス、それにが色めきたったときだ。
先んじて、ラウルが云った。あくまでも静かに、淡々と、諭すように。
「ネスティは、わしの大切な息子」
それ以外の何者でもない。
「その子は、ネスティ・バスクじゃ」
「――……!」
ネスティの目が、丸くなる。
一概に云い表せない複数の感情が、彼の双眸を瞬時によぎる。
そうして。
「……ちッ!」
ようやく。
……ほんとうに、ようやく。
耳障りな舌打ちひとつ残して、嵐のようにやってきた男は、足音も荒く、屋敷を辞したのである。
ほぼ同時に、はぺたりとその場に座り込む。
自分が怒る権利があるのか判らないけれど、あの傍若無人なんてコトバさえおっつかない振る舞いは何だ。
このやり場のない憤りを、いったいドコに持っていけばいいのだ。
一部床に叩きつけたが。
「すまんな、お嬢さん。……たしかと云ったかね?」
の目の前の床のへこみを、不思議そうな目で見ながらラウルが問いかける。
平気です、と頷くと、彼は好々爺の笑みを浮かべて頷いた。
けれどその笑みは、すぐに苦いものに変わる。
「……それにしても……やれやれ、あのお方にも困ったものじゃて」
「師範……」
マグナとトリスが、半ば放心したような顔で、そうつぶやいた。
その意味をどうとったのだろうか、ラウルは双子を見て、こう云ったのである。
「ひがむでないぞ? 家名を譲るための養子は一人だけしか選ぶことが出来んが、わしは、おまえたちも自分の子供だと思っておるんじゃからな……」
「わっ……判ってます、そんなのっ!」
「ずっと、そうだったんだもの……!」
当たり前のことを云われた幼子のようにくってかかるふたりの肩を、ぽんぽん、と、叩いてなだめたラウルは、それから、ネスティにも同じようにしてやっている。
ああ、ルヴァイド様が見せてくれた眼に似てる――傍らでそれを見る形になったは、なんとはなしに、そう思った。
それから、視界の端に映ったネスティの表情に気づく。
「――」
……気づいたので。
つつ、と、さり気なーく、玄関ポーチを後にした。
「よく辛抱したな、ネスティ……」
最後に遠く聞こえたのは、ラウルの優しい声と――