――ひとしきり暴れて落ち着いたのか、会議場に雷が落ちることは、もはやなかった。
「……」
「……」
とはいえ、据わった目でこちらを睨みつけるビーニャから、はてどうやって逃れたものかという問題は、解決されてなどいない。
ほんの少しでも隙を見せたら、とたんに食いつかれそうな剣呑さが、彼女にはあった。
ローウェン砦のときのような、余裕綽々だった彼女はどこへいったのだろう。
……笑いかけてくれていたあの日々は、どこへ置いてきてしまったのだろう。
はそんなことを思い、ビーニャは剣呑な雰囲気たたえたまま、しばらくの間、お互い、何も云わずに突っ立っていた。
――ややあって、
「アンタが、悪いんだからねッ!」
びしっ、と、指を突きつけて云われた。
「……うん」
はただ、頷く。
デグレアの方針へ盲目的に従っていれば、彼女とこうなることはなかっただろう。
それを苦く思わないなんて云ったら、嘘になってしまうから。
「ヤな予感がしたからってそれだけでデグレア抜けてっ! 勝手に行方不明で記憶喪失になって! よりによってアイツらと仲良しごっこなんかしてっ!!」
「……」
「記憶戻ったんだから、デグレア軍に帰ればいいのに! どォしてそうしないのよ!」
――そうしたら、少なくとも傷つけたりしなくて済むのに。
少なくとも、聖女を守るための戦いにだけは、駆り出されなくて済むのに。
「……待ってたのに」
「……ビ 「ずっとずっとずっとずっと待ってたのに!!!」
まつなんて しなくてよかったのに
その名さえ、呼ばせてはもらえず。
再び、ビーニャは感情を爆発させていた。
「どうせ記憶なかったときに懐いただけじゃない! 戻ったんならどォして帰らないのよッ!!」
かえれない
とめどなく。溢れる。
過去も現在もごちゃまぜの。叫びが。
「忘れたままなんて許さない――――!」
「あたしは、健忘症なんかじゃな――い!!」
時と場合も考えず、思わずツッコミを入れてしまったであった。……このノリだけは、どーしよーもないのかもしんない。
だが、車は急に止まれない。
叫んだ勢いそのままで、はビーニャへ云いつのる。
「そりゃ記憶喪失のときは忘れてたけどっ! 今のあたしはあたしだよ! だもん! のことは全部思い出したし覚えてる!!」
その自分が、
「あたしが決めたことなんだ!!」
勢い殺さず、むしろ増して、怒鳴りつけた。
自覚はなかったのだが、相当、自分は鬱憤がたまっていたようだ。
黒の旅団と戦うことに関して定めた決意とは、また別物。無関係。
――それは。
クレスメントの霊にどうこう云われたコトやら、禁忌の森の悪魔に懐かれたコトやら。
今の自分の知りえない何かによって引き起こされた事象に関しての、ものだった。
今の自分に依るものではない、何かが原因となっての何かへの、ものだった。
――やっぱり、過去も現在もごちゃまぜの。
「あたしのコトで、気持ちに関るコトで、忘れてるコトなんか、もう、きっとない」
わたしは わたし
『』以外の『自分』なんて知らない。
は
いつか知るときがあるのだとしても、今の自分にとって必要なのかと問いかけてしまう程度だ。
生まれ変わりというものが本当にあるのだとしても、前世の記憶なんてモノひきずっていたら、それは、生まれ変わりじゃない。
終わった過去を背負ったままで、新しく生まれたなんて云えない。
リィンバウムのまわりで繰り返される、輪廻の理など知らないけれど、それだけは分かるから。
「記憶がないから決めたんじゃない。大切だから、そう決めたの」
きっかけが何であれ、今の自分の気持ちは。
『』の気持ちの所以は。
「あたしは、アメルを守ってみせるしルヴァイド様たちだって守ってみせるんだから!」
自分が6年間、騙されていたのかなんて、それに比べればどうでもいい。
まだ操られている人たちがいる。
その人たちを、奪おうと、壊そうとしているあなたたちの。
――思い通りになど、誰がなってやるものかと。
決別の意志も、強く――強く。
優しかった過去が、するり、手の中から零れ落ちた。
「……」
ゆっくりと、ビーニャの目が丸くなる。
が叫んだことに驚いたのだろうか。
ささくれだった感情も、毒気も、一気に殺ぎ落とされてしまったかのように――風のにあ湖のように、平坦に。
肩でぜえはあ息をしているを、彼女は、丸くなった目でじっと見つめた。
そうして、
「――そう」
小さく、口の端を持ち上げた。
「今のアンタがいるから、ダメなんだ?」
「……ビーニャ……?」
悪寒が、背中を駆け上がる。
周囲の空気が帯電する。これまでの比でなく。強く強く。
若草の光は判る――ずいぶんとにごってはいるけれど、召喚術のものだ。
……だけど。
ビーニャのまわりを黒く赤く覆う、あの影は何?
あれが魔力の顕現した姿だというのなら、なんて禍々しいのだろう。
でも。
あれを知っている気がする。
それは、いったいどういうことだろう。
……忘れている、とは、そのことか?
今の自分以外の自分など、正直知ったコトではないけれど、それを知らずには、やはり進めないのだろうか?
「――」
不意に。
禁忌の森で召喚兵器に向かい合ったときの感覚が、身体を覆った。
力を。
あのとき望んだ。
それは、あたしの力であって―― あたし じゃなかった。
それは。
わたしの
その魂に、刻まれた力。
理由など判らなくても、使えるのだから使っておこうと思ったこともある。
戸惑ったけれど、自分が使える力なのだと、それだけ判ってればいいと思った。
けれど、たしかに、のものとしてとらえるには、不可解な違和感を感じていたのも事実。
「今のアンタなんか消えちゃえばいいのよ――――――――!!」
狙いあやまたず、に向かって放たれたのは――黒い、黒い……力。
ザザッ、と。 ノイズ。
視界が大きくブレた。
少なくとも全力投球のボールほどの速さはあるはずのそれが近づくのを、まるでスローモーションの映像のように見ていた。
ノイズが走る。
迫る魔力球に重なって、幾筋も幾筋も。
――私ですか? ……かつて愚かにもこの世界を狙い、封じられた悪魔の欠片です。
――守護者たる貴女の監視を潜り抜けたまでは、良かったのですがね。
――……名前……そんなもの、このような欠片に何の意味があるのです?
――素敵な名前をありがとうございます。次から、貴女の前ではそう名乗りましょうか。
――愚かな真似をしたのですね。自ら鎖に縛られるなど。
――想いは絆、絆は鎖。絆重ねるごとに、鎖は強いくびきになる……悪循環もいいところ。
――この世界は貴女がそこまでして、守るほどの価値があるのですか?
自ら異世界の友の手を離したくせに、強制によってその力を行使させる。
己の満足のために。
自らが世界の境界を危うくしているとも知らず。
誰が世界を護ったか、何が今の平和をもたらしたか。――知らずに。
「でも、エルゴの王が生まれたから」
世界の狭間に手を伸ばし、強制ではなく友愛によって絆を結べることを、彼が証明した。
だからまだ、絶望しないですんでいる。
――いっそ絶望してしまえば良いのに。
「どうして?」
――そうしたら、鎖はなくなる。貴女を連れて行くに支障はなくなる。
「連れて行く? どこへ?」
――私の元へと。
――私は貴女を欲します。
世界が震えた。大気が泣いた。
エルゴの王が没した後、一度だけ。リィンバウムを未曾有の嵐が襲ったことがある。
それは単に気象のバランスが崩れただとか、彼の死を悼んだ世界が嘆いたのだとか、諸説あるけれど。
「やめてやめてやめて! どうしてそんなことをするの!!」
――鎖がなくなればいいのですよ。……世界自体が、ね。
禍々しいとしか形容できぬ、ただ破壊のための力を、新星の誕生にも似た勢いでリィンバウムにぶつけた悪魔の笑みは、凄絶だった――
……そう。
それはちょうど、今のビーニャのように。
――ザザアアアァァァァッ!
「――――!!」
それは、とても鮮明だった。
まるでつい昨日のことのように、細部までもがはっきりとした。……記憶?
まるで自分が体験したかのような、生々しい映像。
そうだ。
そうして、世界の身代わりに、その力を全部受け止めて――
結果、守護者は、かかわりを断ち切って、リィンバウムから完全に消滅した。
そうだ。
そうして、リィンバウムにも他の4つの世界の輪廻にも還れなくなった魂は。
ごめん ね
忘れてる? 思い出してない?
このコトを?
あたしはこの人だったんだと、あなたも云うの?
バルレルも、禁忌の森の悪魔も、そうしてクレスメントの霊たちも。――だから、あたしにそう云ったの?
「……ビーニャ」
あなたも、そう云うの?
「アンタなんか、アンタなんか――!!」
……その人も、そう、信じているの?
いくつもの、疑問は刹那。
ノイズはそれ以上に短く。
一気に膨れ上がった情報は、ひとりの心に寄越されるにはあまりに大きい。
手に余る。零れかけるそれを、だが、逃すわけにはいかなかった。
拾い集める。拾い、集める。
だが、そうするにはこの手は、自分の手ではあまりにも小さく――
「だあぁ、も――――!!」
だけど唯一はっきりしているのは、眼前の魔力球をどうにかしないと、この命が消えてしまうということ。
知らない判らない無関係、そんなコトバではくくれないのはよーく判った。
あたしの意志が知らないことでも、それに深く関ってしまっていることはよーく実感した!
ごめん ね
「知ったことじゃないわよっ!!」
考えるなんて作業、この局面を生き延びてからやってやる。
よけいに確信を深めさせることになっても、それはもうしょうがない。
思いたければそう思え。
それでいいでしょ、最後の最後にはきっと何もかも明らかになるんだから。
今は、力を欲するよ。
今を生き延びるにはそうしなきゃいけない。零れる欠片も一緒くた、みんなまとめてこの身に集え。
だけど。だけど、出来るならこれ以上は、もう。
そのときがくるまでは、 『あたし』は『あたし』以外にはならない!
叫んだ声よりも強い感情を、自らの内に叩きつけて。
そうして強く目を閉じた。
自分の最奥に、意識を叩きつけた。
最後に聞こえたのは、やっぱり、かすかなかすかな声。
ごめん、ね――
そうして顕現したのは、白い、白い――陽炎。