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第42夜 壱
lll うたをうたおう lll




 そのあとの記憶は、あやふや。
 ルヴァイドたちが一足早く立ち去ったあと、自分たちも森を出たのだとあとで聞いた。
 トリスとマグナとルウが協力しあって、改めて結界を張りなおしたことも、聞いた。
 ふらふら歩くを見かねて、マグナとリューグが交替で背負って帰ってくれたことも、聞いた。そんな感覚はなかったのだけど。


 そして気がついたら、朝だった。
 ファナンの街のモーリンの家の、割り当てられた一室で、ひとりきり、横になっていた。

 いつの間に帰ってきて、いつの間に食事をとって、いつの間に眠ったんだろう?

 そんな疑問が、ささやかに頭の隅っこで解決を訴えるけれど、まるで他人事のような。
 磨耗した感覚が訴える疲労だけが、うっすらと、けれどはっきりと判った。
 だから――目を閉じて、意識を闇に預けた。

 だから、それが夢だったのか、それとも現実のものだったのか、あとで思い返してもはっきりとしなかった。



 ふわふわと、頼りない場所。
 四方八方、黒い処。
 いつか故郷の世界で見た、プラネタリウムに、印象としては似ているのかも。

 光が見えた。
 中央にひときわ輝くそれをおき、周囲をまわる、よっつの光たち。
 かすかに色づいた光――菫色、若草色、紅色、鋼色。
 そして自分の足元(と、云えるかどうか判らないけれど)に、中央と思われる、白い光。
「……ここ……?」
 心を強く苛んでいた、別離の痛みが消えていた。
 それに戸惑いを感じながら、疑問を口にする。

 その瞬間、まるでがこの空間を認識するのを待っていたかのように、目の前に現れる人影。
 ほの白く光る、輪郭だけがようやく判る程度の、おぼろげな存在。

 だけど、どうしてだろう。それが誰だか判ってしまったのだ。

「……レイム……さん……?」

 そうつぶやいた瞬間、認識が形になった。光の輪郭が、今度こそはっきりと彼の姿になる。
 浮かべた優しげな微笑はそのままだけれど、外見は、の見知っている彼とは違っていた。
 けれど。訴える感覚は、それが紛れもなく、あの人だなのだと主張していた。
「――」
 彼が口を開いて、何事かに呼びかけた。
「……え?」
 聞き取れずに尋ねると、微笑がますます深くなる。
 でも答える気はないらしく、それ以上はない。
 代わりに、

  ――思い出しなさい

  ――目を覚ましなさい

 ただ、静かに、告げられたことば。

  ――今抱いている疑問はすべて、目覚めたときに明らかになるでしょう

「……目覚める?」

 それは、思い出せという意味なのかと、ふと考えて――首を傾げた。

 何を?
 これ以上――何を。
 物心ついてからの記憶は、全部取り返したはずだった。
 あの世界での暮らしも、こちらに落ちてからの生活も。
 その一部を、この人とだって共有してるはずだ。――多少ブッ飛んだ思い出ではあるが。
 だが、こちらの疑問に気づいていないのか、そもそも応える気がないのか――彼は微笑んだまま。

  ――調律者は己の血を、融機人は己の記憶を、天使は己の魂をその手に

 あとは貴女だけ……

 告げられる、ことば。
 何故か、かすかな痛みさえも伴なって、心の深い位置に染み入ることば。
「……レイム」
 さん、と、普段なら続けるはずなのだけれど。
 ことばは不思議と、そこで途切れる。

  ――待っています ずっと


   貴女が、私に、私の名をくれたのだから。



 夜の風にまぎれて、ひそやかに、琴の音と歌声が流れだす。
 傍に聴くものはいない。
 それは、ただひとりのためだけに歌う、うた。

 真実の歌。
 まだ未完成の。


 はじまりは、世界が生まれたその瞬間
 この中心たる地を手に入れようとした者が、動き出したその瞬間
 世界が貴女を選んだときに、歌と物語ははじまった

 貴女を世界に絡める鎖
 貴女が一度だけ望んだ鎖
 強いくびきはもはや呪い
 時は過ぎて世界は変わり、それでもなお貴女を縛った忌まわしき鎖

 絆は記憶、記憶は絆

 貴女が世界を憶える限り、絆は鎖と姿を変える
 そこに呪いが刻まれる

 断ち切らんためには何が要る?
 何も要らない捨てれば良い

 ただこの世界を捨てれば良い


 私は世界を憎みましょう
 貴女を縛り付けて放さない、この利己的な世界を憎みましょう
 この世界を憎みましょう
 この世界を壊しましょう

 世界を壊したその先に、貴女が手に入るというのなら
 最初に望んだ世界より、貴女だけを望みましょう

「……けれど……」
 奏でる音色はそのまま、だが詩人の口からこぼれたものは、歌ではなくて小さなつぶやきだった。

「けれど、貴女はこの世界を選んだのでしたね」

  ――メルギトス、なんて怖い名前、わたしは呼びたくありません

  ――わたしだったら? そうね、じゃあ……

 レイム。
 そう名乗る、デグレアの顧問召喚師は、夜に覆われた世界にひとり佇んで、歌いつづける。


 世界を壊すその代わり、壊れたのは貴女の方
 記憶を失い絆をなくし、魂の姿さえもなくなった

 時は巡る 季節は過ぎる
 この世界から、貴女のいた痕跡さえもなくなるほどの、長い長い時間が過ぎる

 貴女の守ったこの世界
 ならばもう一度手に入れよう
 貴女の愛したこの世界
 貴女のいないこの世界
 貴女の代わりになどなりはしない、けれど貴女に守られた世界

 ただ貴女がいないだけ


 輪廻が動く、世界が望む
 それが鍵になったのならば、なんと愚かなりしかな

 守護者の魂をその身に抱いた少女がひとり、この地に喚び寄せられたのだから――


「我侭ですよねえ、まったく」
 ざわりと騒ぐ世界の上にひとり立ち、詩人はうっすらと笑って云った。
 その表情をもしも目にする者がいたら、悪夢にも見そうなほどに壮絶な、冷たい微笑。
「平和なうちは静かに暮らせとばかりに放っておいて、世界が揺らがされようとすれば、喚び寄せて……?」

  喚ばれたのでは ないのだけれど

 遠く――遠く。
 眠る何かが聞いていたなら、そう返したかもしれない。
 だが、未だ目覚める者おらず、故に、声も存在も、彼には届きさえしない。

「けれど感謝しましょうか」
 だから、彼は、己の望みを叶えんがために。
「おかげで、今度こそは……あの人を手に入れられるのですからね」

 世界に満ちるマナ。魔力。
 それによって得られるモノ。
 そうしてその前哨として、忌まわしきあの地に眠る己の力を取り戻し。

 世界を、彼女を。

 手中におさめてみせようと。
 夜の闇のなか、静かに、宣誓は下された。


   だから、早く、目覚めてくださいね?
   鎖など今度こそ、私が断ち切って差し上げます。

 だから――

   自身が自身であるために、それが貴女に必要だと云うのなら。
   まだ、貴女は壊れるわけにはいかないのだから。今はまだ、ね。
   だからひとつだけ、鍵をあげましょう。

「忘れてはいけませんよ? 貴女は、彼らを、愛しているのでしょう?」

 彼らが貴女を愛するのと、同じに。それ以上に。
 他の何にも増して強く、必要なのは、きっと、ただそれだけ。


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