じくりじくりと心臓が痛む。
痛むのは臓物そのものなのか、それとも心と呼ばれるモノなのか。
――どちらにせよ、身をよじりたくなるほどの痛さだという事実は変わらない。
「……ッ」
布団のなかで寝相を変えても、なんら減じるコトない痛み。
ぎゅうっ、と、服をつかんでも、やっぱり変わらないで在る痛み。
――こんなだった?
住んでいた村を滅ぼされた、リューグとロッカたち。
禁忌の森に行く前のネスティ。
自分に武器を向けたルヴァイドたち。
魂の在り様を暴かれたアメル、先祖の罪を突きつけられたトリスとマグナ。
――こんな感情、味わってたの?
怖くて。哀しくて。
身体の中心から生まれる、冷気。
イタイ。
ごめんね。
痛みに抗いながら、仰向けになって、両手を真っ直ぐ上に伸ばした。
開け放した窓から、潮風と一緒に入り込む月の光が手を照らす。
その動きが伝わったのか、隣で横になっていたアメルがこちらを向く気配。
「……?」
「ごめん」
「どうしたの?」
唐突に謝られて驚いたらしい。当然と云えば当然か。
上身を起こして、アメルはこちらに身体を寄せてきた。
一緒の部屋のはずのトリスは、まだ食事か湯浴みが終わっていないんだろうか、今この部屋にはとアメル、それからレシィとバルレルだけ。
その護衛獣ふたりは、もう気持ちよさそうに夢の世界を満喫している。
生意気云っていても(それは片方だけだが)やっぱり子供だ、というトコロだろうか。
こうしてるとかわいいのにな。(片方はいつもだけど)
和らぎかけた思考を、けれど、はそこで引き戻した。アメルに向き直る。
「……痛かったよね?」
「え?」
きょとん、と、問いかけるアメルにしがみついた。
「あたし、何も知らなかったくせに、こんな気持ちになるなんて知らなかったくせに……覚悟したとか、なんとか、偉そうなコト云って」
傷つける事実を。命を奪いかねない可能性を。
軽視していたことを。
そのときにならないと思い知れなかったのだから。
……なんて楽天的だったのか。なんて傲慢だったのか。
あの人たちと共に戦いに出ていたとき、たしかに、目の前で繰り広げられる殺し合いを、剣戟を、見ていた。
命の消えていく光景を、見た。
それでもこんな気持ちにはならなかった。
だってね、それは。
その理由は。
あたしの大切な人たちが、けしてその側にならないと、信じていた頃の話だったんだ。
何も。何も知らないくせに、なにを偉ぶって。強ぶって。
なにが、だいじょうぶだ、なんて――
くす、と、頭の上で笑う声がした。
馬鹿にしてるわけじゃない、ひどく優しい声。
「駄目ですよ、」
ぽん、ぽん、と。
小さなこどもを宥めるように、頭を軽くたたかれる。
「自分の云ったことを、決めてた気持ちを、現したことばを、否定しないで?」
「だって」
「――がもし、今までのことばを否定しちゃったら、今までのことばで元気になってきたあたしのコトまで否定されちゃう」
あたしだけじゃない。
そう云って、アメルの腕がを包んだ。
「炎に囲まれた最初の夜」
残って、あたしたちを逃がしてくれた。
「イオスさんが王都に攻め込んで、ロッカとリューグがケンカした日」
真っ直ぐに向き合って、道を束ねてくれた。
「ミニスちゃんが、ペンダントを諦めかけたとき」
あきらめたら終わりだと、あきらめないで、と云ってくれた。
「大平原で、マグナとトリスの力が暴走しかけたとき」
未だにあの理由は判らないけれど、暴発を止めてくれた。
「ルウの家に行く前や、リューグが一人で行ったときや、あたしが落ち込んだとき、いつも」
傍にいてくれた。
「だけどそれは、別にその人のためだとか思ってそうしたわけじゃ――ただあたしがそうしたいって自己満足とかあったかもしれないのに」
「それでも」
それでもね? 告げるアメルの声は、優しかった。ひびの入ったのどこかに染み渡り、潤いを与えてくれるようだった。
「トライドラでのシャムロックさんのコト、ユエルちゃんがカラウスって召喚師に連れ戻されそうになったコト、……それに」
禁忌の森で知った真実に打ちひしがれていたあたしたちを、貴女の存在が、どれだけ救ってくれていたか。
行方が知れなくてどれだけ不安だったか、帰ってきてくれてどれだけ嬉しかったか。
「待ってたの。貴女を」
帰ってくるって、傍に戻ってきてくれるって、信じてた。待っていた。
今部屋にはいない、トリス。その兄のマグナ。
リューグとロッカ。アグラバイン。
それに、これまで一緒に旅をしてきたみんな――みんな、
「貴女のことが大好きよ」
だからだいじょうぶ。怖がらないで。
喪わせたりはしないから。
貴女がまた、あの人たちと笑い合うことが出来るように。もう、みんなきっと心は決めた。
彼らさえ――復讐を一番のことと定めていた、リューグとロッカのふたりの思いさえ。
覆したこの気持ちを、なんというのか今はまだ、知らなくても。
「大好きよ」
この気持ちだけは、強く確りと知っている。
誰もが。誰もへ。
詳しい話も相談も、明日全員が揃ってから。
こまごまとした雑談の合間にそれだけを決めたのち、道場での集まりは解散となった。
各々手入れを終わらせた武器を、所定の位置に戻し、部屋に戻る。
その足取りは、やはり重い。もう眠っている数人よりは起きていられた余裕はあっても、疲れ果てていることに、やはり変わりはなかったのだから。
「てっきり、トリスさんのことばに反対すると思ったんだけどな」
「バカ兄貴こそ、そうだと思ったがな」
月明かりの差し込む廊下を歩きながら、お互い顔を合わそうとせず、それでも双子の進む歩調は一緒。
「……だけど、おまえの気持ちはなんとなく判る」
あのさんを見せられたら、あのまま戦わせていいなんて思えないし。
そう云って苦く笑うロッカの表情が少し悔しそうなのは、最初にそれに気づいてやれなかった故なのかもしれない。
……そうかよ、と、口の端だけで笑って。
つと、リューグは手のひらを握りしめた。
「だが、俺は復讐を諦めたわけじゃないぜ」
「僕もそれは変わらないさ」
炎の記憶は薄れない。
あのとき感じた熱も痛みも恐怖も憎悪も絶望も。
すべてまだ、この身に五感に染み込んでいる。
だけど、そんなもの、自分たちだけが抱えていればすむことだ。
「奴との決着はつけてやる。絶対にだ」
包み込み昇華させようとしている少女や、黙して秘める老人のように。そしてそれでも手をとりたいのだと望む、少女。
笑っていて欲しい人たちまでも、この感情に巻き込むつもりはないのだから。
――望むのは、ただ、黒騎士との決着を。
憎しみが渦巻きつづけるこの心を。しかるべき相手に叩きつける。
――望むのは、ただ、この復讐心に決着を。
それは、黒騎士の死という形でしか終わらせられない道理はないはずなのだから。
はあ〜、と、零れる感嘆の吐息。
「こんなときでも商売は忘れないんですねぇ」
体力が余っているなら手伝ってください、と、パッフェルが連れてこられた台所。
家主の許可はとってあるからと、勝手知ったる様子で道具を取り出して、蕎麦粉をこねだしたシオンに、彼女は感心した様子でそう云った。
「ええ、やれるときにやっておきませんと。まさか下ごしらえが出来なくて今日は店じまいです、なんて商売人の風上にも置けませんからね」
「まったく同感ですねえ……私は何をすればよろしいのですか?」
「そちらの麺を、切っておいていただけますか? 後は適当な量ごとに分けてください」
「了解いたしました。あ、時給は応相談で」
「おやおや、ちゃっかりしてらっしゃいますね……これくらいでいかがです?」
懐から算盤を取り出し、パチパチと玉を弾いて、シオンはパッフェルにそれを見せた。
パッフェルの表情が、微妙な笑みになる。
「うーん、せめてこれくらいは」
「いえいえ、うちもなかなか火の車で……これでは?」
「結構お客様大入りじゃないですか。ではこれでどうです?」
「かなり原価に近いですから、儲けはあまりないんですよ。――これで。もうビタ一文、目は増えませんよ」
「んー……しょうがありませんね。手を打ちましょう」
「ありがとうございます」
終始にこやかに賃金についての相談を終え、シオンは再び蕎麦粉をこね出し、パッフェルは麺を切りそろえ始めた。
その合間に交わされるのは、他愛のない世間話。
天気がどうだ、今日の戦いはどうだ。
――そうこうするうちに、ふと。
「そういえば、大将さんは何故トリスさんたちにご同行なされているのですか?」
「そういうパッフェルさんはどうして、マグナ君たちと一緒に旅をされているのです?」
……
「私は、彼らの師匠から彼らのことを頼まれていますからね」
「でももともとは、影からのお役目でしたよね?」
……
「何せ私は、この旅を無事に完了させないと、2万バームもの大金が水に流れちゃうんですよ〜」
「でもあちこち旅する時間があるなら、その分働けば2万バームはすぐなのでは?」
……
にーっこり。
ほとんど同時に顔を見合わせて、シオンとパッフェルは見事な微笑を浮かべてみせた。
「まあ、ぶっちゃけちゃえば」、
微笑んだままで視線を再び手元に落とし、作業を再開しながらパッフェルがつぶやく。
「――私は、さんに惚れこんでおりますから」
いつかスルゼン砦での邂逅。懐かしさを与えてくれる、陽炎の光。
「それは奇遇ですね、私もですよ」
いつかファナンで見せられた眼。遠い西の地にある彼らを思わせる立ち姿。
再び、シオンとパッフェルは顔を見合わせて。
もう一度、微笑んだ。
見事な、というほどのものじゃないけれど、それはひどく優しい感情に彩られていた。
音を立てないように、トリスはゆっくりと扉を開ける。
ひとつ向こうの部屋へ戻る兄に手を振って、身体をなかに滑らせた。
窓から差し込む月明かりのおかげで、自分の寝床に辿り着くのにそう苦労はしなかった。
もう寝ている同室の人たちを起こさないように、こそこそと寝具に潜り込んで、
「……おかえりなさい」
「あ……起きてたの?」
声をかけてきたのは、にしがみつかれたアメルだった。
起きているのはアメルだけで、しがみついているのほうは小さな寝息をたてている。……どうやら眠りは深そうだ。
「、どしたの? 何か怖い夢でも見た、とか?」
ううん、と、アメルはかぶりを振る。それから、ちょっと何かを考えるようにしてこう云った。
「そのことなんですけど……」
「?」
「トリスは、を好きですか?」
「もちろん」
もっと声に力を込めたかったけど、そうすると寝ている人たちが起きてしまいそうだったから、比較的小さな声と頷きで応じる。
だけどその思い入れようは、しっかりアメルに伝わったらしい。
薄暗がりのなか、嬉しそうに微笑む気配。
それから、アメルは声のトーンを落として、
「……は怖がってるんですよね」
「……」
何を。そんなの、云われなくても判る。
「うん……」
剣を向けた。向けられた。
親に兄に等しい人と、命の奪い合いをする舞台に出た。
初めて――その実感を、得て。
命を奪う奪わないでなく、殺意を持って武器を向け合う、そのこと自体に恐れを抱いて。
現実にその光景に直面するまで、そのことに思い至らなかったと云って何の不思議がある?
――心のどこかで、もしかしたらと期待を抱くことを、否定する理由がある?
ただ、どうしてもそのとき、それ以外の道を選べなかっただけのこと。その道の先に仄見えた、灯りをこそ望んでのこと。
……その灯りは消えた? 否。
まだ先はある。
彼らは生きているし、自分たちも生きている。
ことばは通じるし、もしかしたら意志も通じるかもしれない。
だから怖がらないで。まだ喪失の道しかないと決まったわけじゃない。
「きっと、何か、道があるよ」
トリスは、きっぱりと頷いて、云った。
「喪わずに進める道は、きっとあるよ。あたしは、それを探したい」
「うん……あたしもです」
ずっと傍にいてくれた、大事な友達をふたりで見下ろして。同時にくすりと小さく笑った。
守ってくれてありがとう。
傍にあなたがいてくれて、だからあたしたちは、今こうして笑い合うコトが出来る。
調律者と、調律者に犠牲とされた天使という鎖を断ち切って、共にいるコトが出来る。
だから――今度はあたしたちが。そしてみんなが。
あなたに、
だいじょうぶ
こう云うよ。
みんながみんなで心から笑えるように、絡む鎖を断ち切るために。
まずは、黒騎士たちのことを。デグレアのことを。
ひとりじゃ道が見つからなくても、みんなで行けば、きっと、何かが見つかるはずだから――