道場を出ると、夜もかなり更けているのか、月がやけに大きく見えた。
ほのかに青白い光を放つこの月の下、同じ大地のとこかに黒の旅団がいる。
はるか西に、とんでもない確率で再会できた幼馴染みとその仲間たちがいる。
――確率と云えば、がデグレアを出て記憶喪失になってリューグに拾われる、とかいう時点ですでに相当な低確率じゃなかったろうか。
大量の偶然の上にそれ以上の選択を積み重ねて、今ここに立っている。
そう思うと、ひどく不思議な気分だった。
「……、何をしてるんだ?」
「あ、ネスティ」
女性陣が先に入浴なんだから、君も早く行かないと遅れるぞ?
そんなことを云いながら出てきたネスティ、どうやらいちばん最後らしい。
扉に向き直り、きっちり閉めてから改めてに向き直った。
「そういうネスティはお風呂どうなのよ?」
反射的にそう聞いて。
「あ、……ごめん」
すぐさま、頭を下げた。
ファナンの夜風は気持ちいい。吹き抜けていく風に肌をさらしてあおられたくなるくらい。
あとは湯浴みして眠るだけ。だもので、モーリンのおさがりを借り、かなり崩した格好のに対して、ネスティはあくまでも蒼の派閥の制服をかっちりと着込んでいる。
暑くないわけでもなかろうに、そこまでするというのは、やはり自分の肌を人目にさらすことに抵抗があるのだろう。
たった一度だけ目にした、禁忌の遺跡での光景。
自分たちと違うカラダ。
機械と生身の融合。
……それでも。
不意に、反射的に、無意識に。飛び出したことばは、さっきのとおり。
融機人がとか人間がとか以前に、――ほら。今も同じ大地に立っているひとだから。
どっちかというと謝罪は、気にしているかもしれないネスティに不用意なことばを投げかけた自分に対して。
断じて、融機人である彼をからかおうと思って云ったことばじゃない。
ただ同じ場所に立っている、と、それだけの認識から、こぼれたことば。
それを判ってくれているんだろうか、頭を上げたときに視界に入ったネスティは、苦笑とも微笑ともつかない笑みを浮かべていた。
「……見ておくか?」
「え?」
だから、次いで発されたことばの意味を一瞬つかみそこねて呆然とした。
ぽかんとしているの目の前で、ネスティが止め具を外す。
「あのときは、切羽詰まっていたからな」
冗談めいたことばに、少しあわてた。
「い、いいの!?」
「構わない。マグナにもトリスにも、すでに見せてある。君に見せない理由もないよ」
せっかくだから、ちゃんと見せておきたい、と。彼は云った。
気負わぬそのことばに、は、もう、黙するしかない。
そうして現れたのは、
「……ほら」
禁忌の森で見た記憶、そのままのネスティの身体だった。
生身の血肉と機械が深く結びついて、脈打っている。
鉄色と肌色。
脈打つ身体。
「――――」
気がついたら、手を添えていた。
「……?」
少し脈が速くなったような気がするが気のせいだろうか、気のせいだろう。そう自己完結。
……ドクンドクンとリズムが伝わる。生を刻む、これは鼓動だ。
これは生きている証。
そうして伝わる暖かさ。ぬくみ。
……生きている。
生きているんだ。誰も彼も。何もどれも。あたしもネスティも、マグナもトリスも、ルヴァイド様もイオスもゼルフィルドも。
みんな――みんな生きている。
……生きているんだ。
忘れるな。そう、何かが告げた。伝わる鼓動か、それともそれを感じてる、自分のどこか奥の深くか。
忘れるな。
この同じ世界に、この大地に、この空の下に。
生きている。
鼓動を刻み続ける。
その限り、道は伸びつづける。
歩いていける。
忘れるな。
――道が交わる保証はない、だけど、道が交わらない確証もない。
生きている限り、鼓動と歩みを刻みつづける限り、道は消えない。希望もなくならない。
存在を。鼓動と呼吸を。
生きること、生きていること。
――忘れない限り。
「……ありがとう……」
それは、そんな簡単なことだった。
膨張しきっていた不安を、鎮めてくれる。安堵。
生きている。まだ歩いてる。まだ道は続いてる。
手にかける予感に怯える暇があるならば、手を繋げる道を捜せ。
そう、教えてもらった気がした。
他の誰でもない、人間ではないのだという、今目の前にいる、ネスティに。
「?」
いぶかしく思ったか、ネスティが怪訝な声で名を呼んだ。
「どうかしたのか? ……グロテスクで気分が悪くなったか?」
「まさか」
見当違いなコトを云うネスティに、顔を上げて笑ってみせた。
「ありがとうとか云いながら、気味悪がるひとがドコにいるっつーんですか」
「……それもそうか」
こぼれる苦笑。
そうして、止め具を元通りに、服もかっちり着込んだネスティが、もう一度こちらを覗き込んだ。
「じゃあ、どうしたんだ?」
と、訊かれても、実は困る。
どうことばに表せばいいのやら、よく判らない。
頭のなかではこんなにはっきりしているのに、一度口に出したら最後、一気に霧散してしまいそうで。
何か良いコトバはないかな、と、考えて、妥協且つそこそこに適当なものを見つけた。
「えーと……安心したの」
「?」
うまく云えないんだけど、そう断って口を開いた。
「生きてるんだなぁ、って、安心したの。あたしもネスティも……みんなも」
それは、今にも泣き出しそうな。けれど、本人が云ったように、ひどく安堵したような。そんな表情。
絶対自覚なしの、そんなやわらかい笑顔を浮かべて、はそう云った。
――夜でよかった、と、思ったのは、まずそのこと。
表情を殺すことが、いつの間にか日常になっていたはずなのに、どうしてこんなに熱くなるのか。
さっきまでが触れていたところが、今ごろになって熱を持ち出した。
同時に、心安らぐ。
彼女のこんな表情に、ネスティは、見覚えがあったのだ。
「――君たちは……まったく……」
「『たち』?」
いきなり複数形でつぶやいたことばを聞き取ったが、不思議そうな顔になった。
背後に何かいるのかと、おそるおそる振り返っているのが、先程のネスティ以上に見当外れで笑いを誘う。
「マグナも、トリスも、君も……なんでそんなに……」
――なんで、そんなに、真っ直ぐに笑っていられるのか。
不安がないわけではないのを知っている。
クレスメントの血も、デグレアの軍人としての立場も、それはその気になればすぐにでも彼らの立ち場所を崩しかねない刃。
それでも。
どうしてそんなに、分け隔てなく。
融機人であると知っても、変わらずに。
云いかけたきりことばを切って、黙り込んだネスティをどう思ったのか。
なにやら悪戯小僧のような笑みを浮かべて、が下から見上げてきた。
「……『なんでそんなにバカなのか』?」
「……」
「そうよ、あたしたちはバカだもん」
「開き直るな」
思わずそう云うと、がますます笑みを深くする。
さっきまでの、月明かりに溶け込みそうなやわらかいものではなくて、太陽の光の下でこそ似合う類の。
「バカだから。突っ走るから。誰かが――みんなが見ててくれないと、どこまで暴走するか判らないよね」
「……だから、威張って云うことじゃないだろう……」
「特にほら、もうすぐ黒の旅団と戦うじゃない?」
もうすぐルヴァイド様と戦うじゃない?
は固有名詞を口にしなかったけれど、だからこそ、よけいに、表に出なかった分が直接心に響く。先刻に比べれば早口になっているそれも、十分な裏付け。
ルヴァイド。そしてイオス、ゼルフィルド。父とも兄とも慕っていたと、家族なのだと語った。
そう話している間のは、遠い昔を懐かしんでいるような、手放した過去を惜しんでいるような、そんな目をしていた。
記憶喪失だった頃には、けっして見せることのなかった表情。
「……覚悟は決めたつもりで、だけど、命は奪いたくないの」
リューグとロッカには悪いけど。そう、は云う。
「でも、戦いの最中にそんな悠長にやってられるわけないから、全力で行くしかない。でも」、
その結果を、
「やっぱり、何するか判らないんだ」
……怖れているのだろう。
そう云って、は、ひらひら手を振った。
小刻みに震える手のひらを。
「生きてれば道はある。でも死んじゃったら終わりでしょ?」
そう。輪廻に戻る魂は終わらずとも、今ある身とも器ともを失えば、そこにある誰かは終わってしまう。
「だから絶対に、あの人たちを……そうしたくはないし、万一そんなの目の前にしたら、あたし何するか判らない」
「…………」
「あたし、バカだから」
自分でも何を云おうとしたのか判らない、そんなネスティのことばを遮り喋る彼女は、いつになく饒舌だった。
「どっちかひとつ選ぶなんてコト出来ないから、出来る限りはふたつの道が一緒になるトコロへ歩きたい……それでも、ネスティ」
「……」
「どうしても、あたしのやってるコトが行き止まりに見えたら、そのときは、止めてね」
「僕が?」
マグナとトリスにずっと真実を告げられずにいた自分に。見ていろ、と?
意外な要請に目を見張ると、逆に、が目を丸くした。
けれどすぐ、彼女は笑う。
「だってネスティは変わったよ」
「……変わった? 僕が?」
さらに瞠目したネスティの問いに、うん、と、ひとつ答えた。
それから、は振っていた手のひらをおろし、そっとネスティの手をとる。
そのまま、「ほらね」と。触れ合っている手を少し持ち上げた。
「手をとっても嫌がらなくなったし、ずっと黙っていたコトをマグナたちに話せたし、何より、融機人の証ってのを他人……あたしに見せてくれたしね」
「……変わったと思うのか? そんなことで?」
もうひとつ、うん、と、答える。
「少なくともあたしはそう思う。禁忌の森から随分といろいろあったけど、――あったから、じゃないかなあ」
マグナとトリスが、前に見せてた寂しい顔、あたし、最近見てないし。
アメルは自分の魂の在り処を知っても、人間が好きだと云ってくれてる。
だからネスティも。そしてみんなも。
「ちょっとずつ、変わっていくんだよ。生きていく限り、きっと」
「……」
「あ。信じてないな」
「――いや、そういうわけじゃ……ただ、あまり自覚というか……そういうのが、なくて」
むっとした顔をつくったに、あわてて弁解する自分は、傍から見たら滑稽じゃないだろうか。
そうするうちに、が、ぱっと破顔する。
「マグナたちもきっと自覚してないって。あたしがそういうふうに見えてるだけなんだから!」
「……つまり、君の主観か?」
「うん。」
自信満々に答えると対照的に、ネスティはがくりと肩を落とす。
「だってそう見えるんだもん。人間目に見えるものしか信じないんじゃ意味ないけど、目に見えるものを信じなかったらやってけないでしょ」
それは、いつか、シャムロックに向けてが云ったことばだった。
「それはそうだが……」
「えーいもう、いつまでも難しい顔しないでほら!」
「う、うわっ!?」
とうとう痺れを切らしたらしいが、脱力したままだったネスティの腕を引っ張り、歩き出す。
それに半ば引きずられるように、足を踏み出して――ふと。
気になっていたことを、訊いてみようと思った。
「……見ていろ、と云ったな」
「うん」
「……ずっと?」
――ずっと。君を。
どうしてそんなことを訊いたのか、後になって考えてみてもどうしてもうまい理由付けが出来なかった。
そんな葛藤、誰に云えたものでないのだけは、よく判っていたけれど。
「うん!」
ただ、そのことばを聞いた瞬間。伴なう笑顔を見た瞬間。
引っ張られていない方の腕を、に伸ばして――
「もし土壇場であたしがデグレア懐かしさなあまり、血迷ってみんなに攻撃でもしたら、遠慮なしに召喚術ぶつけてやってください!」
「…………」
おろした。
結局、ため息と共に紡いだことばは、ひとつだけ。
「……君はバカだな」
「否定しませーん」
寸分も間をおかず返ってきた声は、ひどく上機嫌だった。
注意しなければ判らない程度の、痛みも含んでいたけれど。
歩き出そう。
歩き出せ。歩き出すしかない。
もう、この道を選んだ。
歩きつづけるしかない。振り返りはしても、後戻りなど出来ないのだから。
選んだ道を貫くことは、ひどく難しい。
それが本当に真実なのかと迷う心があるならなおさら。
迷わないなんてことは、きっとない。
だけど、先に欠片なりともひかりが見えるなら、歩きつづける意志は捨てられない。
――だけども逆に。見えるのが闇だけだとしたら。
そう判っているなら、足を止めることは出来るのか。たとえば、貴方の。
――たぶん、答えは否。
進もうとするたびに傷を受け、ふさがらないまま血を流し。
それでもなお、きっと、貴方は進んでいく。
こちらの見ているひかりは、貴方をもいつか照らせと願う。
今、それを、届けることは出来ないのだろうか。
そしてその答えも否。
そうするしかないように、傀儡師は舞台を整えている。