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第35夜 伍
lll 鎖縛断ち切る力 lll




 バチィ、と、頭の横で爆竹を鳴らされたような音。そして衝撃。
 反射的に目を閉じた次の瞬間、刃のようなものが背中を薙いだ。傷つける意志はない。それが手ならば、撫でるという形容が相応しかったろう。行動は少々荒っぽかったが。
 直後、一気に身体が軽くなる。
 これは――祓い、とかいうやつだろうか。
 バランスを失って前のめりになる身体を、走り寄ってきてくれたトウヤが支えた。彼はそのまま、の頭越しに誰かへ問う。
「断ち切れたのか?」
「知るかッ! やったことねえんだよ祓いなんざ!!」
 背後から聞こえる語気の荒いそれは、バノッサのものだ。
……!」


「君たちはそのふたりから離れるな!!」

 立ち上がったアメルとネスティに、キールの厳しい声が飛ぶ。
 びくりと動きを止めたふたりの足元には、未だ意識を失ったままのトリスとマグナがいた。
 そこにもうひとり、彼らの元へと走り寄る人物。――ナツミ。
「見えるでしょ?」虚空を指し示し、彼女は云う。「から切り離されて、こっちの人たちにも戻れなくて、そこらじゅうにいる奴らが。君たちがこのふたりから離れたら、あいつらすぐに狙ってくるよ」
「……何故、奴らは僕たちを?」
「事情ははっきり知らないけどね。それでも、あいつらが君たちに近寄れないのくらいは判るよ」
「……ええ……あたしやネスティさんに対する怯えみたいな感情が伝わってきます……」
 誓約者のひとりのことばに、アメルはかすかに頷いた。
 怯えと彼女は云うけれど、厳密には多分違う。
 後ろめたさと、後悔と、欺瞞と――裏切った存在、共謀者の存在への負の感情だけを増幅させつづけた、結果がおそらく今の彼ら。
 哀しい――哀しい存在。
 アメルの力でもたぶん救えない。
 自分たちが貶めたという負い目が、きっとそれを拒むだろう。
「でも、はあのままじゃ……」
 クレスメントの亡霊が、アメルとネスティに近寄れず、そのためにマグナとトリスが守られているというのなら。
 そのふたりの傍にいない、は。
「だいじょうぶですよ、おふたりとも。心配無用です」
 やってきたクラレットがそう云いながら、シャンプーライムを喚び出した。
 光の泡が、トリスとマグナを包み込む。
 その光景に安心し、けれど彼女のことばに首を傾げたネスティとアメルに、ナツミがにっこり笑って頷いてみせた。

「トウヤはね、雑学のエキスパートなんだよ」

 ……意味不明な太鼓判は、だが、少なくとも頼もしさについては折り紙付きだった。


 を腕に抱えたままのトウヤが、慣れた手つきで棒を操り、地面になんらかの紋様を描いていく。
 その傍では、周囲から際限なく群がるくるクレスメントの霊を、バノッサが「しつけぇぇぇッ!!」とか半ばブチ切れたまま屠っていた。
 実体のない霊たちは、どうしてだか彼の刃に斬られた瞬間消滅する。
 どうしてだろうと思ったものの、のんきにそういうコトを訊ける状態でもなかった。
 まるで自分のものではないみたいに、身体が重い。
 乗っ取られていたときに比べれば天と地ほどの差があるが、それでも気を抜くと、すぐに意識がなくなりそうだった。
「ガルマザリアの力の一部を、バノッサの剣に宿らせてるんだよ。一種の憑依さ」
 疑問に気づいたか、それともの意識を覚醒させるためか。何体目かの霊が屠られていくのを横目で見つつ、トウヤが云った。
 ともあれ、それで、それ以上の疑問は抱えなくて済んだ。
「……よし」
 そうこうするうちに出来上がったのは、人ひとり入れそうな大きさの円。そのなかに、複雑な記号や文字が大量に並んでいた。
 中央にを座らせると、トウヤは手についた土を払う。
「あのー……これは?」
「悪霊避けの結界」
「……は?」
「日本にいたときに手を出して覚えた知識だから、こっちの霊に効くのか謎だけど。まあ霊ってのは万国共通だろうし」
 さらりと云ってくれるトウヤさん。
 何者だこの人は。と、が呆気にとられたのも、無理のないことかもしれない。
 ってか万国ってレベルを超えた場所にいるんじゃないかと思うんですけどあたしら。
 とかなんとか心の中でツッコミしているうちに、トウヤは絶対にこのなかから出ないように、と云い置くと、に背中を向けて立った。
「そっちは気がついたか?」
 さして大声でもないのに、この霊との混戦のなかでよく通る声。
「うん、今目が覚めたとこ! ――だいじょうぶ? ここどこか判る?」
 こちらは、半ば怒鳴っているようなナツミの声。
 後半はおそらく、ようやく身体を起こしたトリスとマグナに対して。
 小さく頭を上下させているところを見ると、本当に、ご先祖(と云うのもおこがましいが)の呪縛から逃れられたということだろう。
 護衛獣の子たちが、特にレシィとハサハが駆け寄って、彼らに抱きついている。
 ではレオルドとバルレルはというと、不可能に近いと判っていてもしつこく寄ってくる霊たちを退けるべく、攻撃を繰り返していた。


「……ネス?」
 弱々しい弟弟子と妹弟子の声に、ネスティは頷いてみせる。
 手を貸して立ち上がらせながら、周囲を示した。
「見えるか? ――彼らは、過去の亡霊だ」
 ほんのついさっきまで、君たちを捕えていたのも奴らだ。
 そう云うと、支配されている間でも意識はあったのだろう、ネスティの動きを追ってそれらを目にした兄妹は、身を震わせて寄り添った。
 それから、はっとしたようにマグナが叫ぶ。
「……俺たち、みんなを傷つけたりしなかった!?」
 何か変な術使ったような感じがしてたんだけど――
 もし傷つけていたら、と、今からでも自分を責めそうな弟弟子に、首を横に振ってみせる。
 アメルも、何も云わずにトリスの背をなでてやっていた。
 自分たちは生きている。
 それは、まあ……多少、被害はあった。ついでに多少の怪我はしたかもしれない。
 けれど、自分たちは生きている。自分たちの足で歩いている。
 ならばそれでいい。
「トリスさん、マグナさん!」
 攻防を繰り返すうちに近くまで場所を移動していたアヤが、強い口調で呼びかけた。
 そのすぐ傍にいたソルが、同じように彼らを振り返る。
「辛いだろうが、クレスメントとしてのおまえたちに訊きたい。――俺たちはこいつらを滅ぼす。異存は?」
 そうして問われたことばは、ふたりとふたりの耳朶をたしかに通って脳へと到達、思考を促した。
 だが問われるまでもない。考えるまでもない。
 ふたりきりの兄妹はネスティを見、アメルを見る。
 そうして、虚脱した状態で座り込んでいるを見つけ、しがみついてきているふたりの護衛獣と、守るために戦っているふたりの護衛獣を見た。
 力を貸してくれているサイジェントからの客人を見渡した。
 ……最後に、お互いの目を見交わした。
 考えるためではない。意志を、確認するためだった。だから。

 ――頷いた。

 彼らは過去の亡霊だった。
 妄執に捕われた、哀れな一族だった。
 そして、自分たちに遠く連なる者だった。

 認めるのは今も辛い。
 あんなモノを生み出した、彼らに、自分たちはたしかに繋がりを持っていると。
 でも。
 それを受け入れた先に、見えるものがあるから。
 小さいけれど、か細いけれど、それは何より貴い灯火。

 受け入れてこそ、握りしめる拳がある。奮う胸がある。歩き出す足がある。

 いつまでも、過去の幻影に、罪に、捕われつづけるわけにはいかない。
 それは決して消えるものではないけれど、心までそれに縛り付けられて、前に進めなくなるわけにはいかない。
 罪業を認めろ。
 そして、乗り越えて歩き出せるだけの強さをこの両足に。
 絡み付く鎖を断ち切るだけの力をこの手に。

 召喚術だとか、剣の力だとか、そんなのじゃなくて。

 先へと踏み出す――その強さの名前を、きっと、知っていたから。
 ……あの子ときっと、同じように。


 召喚術の構えを各々とりだした誓約者と護界召喚師に倣うように、ふたりは身をかがめた。
 足元に落ちていた、シルターンとサプレスのサモナイト石。
 トリスは赤を、マグナは紫を。
 先程と同じように手にとったそれは、ふたりがこれまで学んできた属性ではない。
 かつ、いつか大平原で判明した、資質でもない。
 けれども、身体が自然に動いてとった、結果だった。
 ネスティが驚いた顔で見てきたけれど、そうして目にしたふたりの表情に、ふ、と口元をほころばせる。
 取り上げたこれらは、誓約済みのサモナイト石。
 クレスメントの霊が、シルターンは言霊呪滅式、サプレスはデヴィルクエイクを招く力と誓約した石。

 世界の扉を開こう。自分たちの手で、意志で。
 ――先へと進む標が、きっとある。

 誓約者たちが、掲げる。手のひらを、高く。
 遥か蒼穹の果てに、世界の門があるとばかりに。
 マグナとトリスが、意識を集中する。魔力を呼び集める。
 手を伸ばした先にある、世界の門を開くために。

 そうして、声高に。
 クレスメントの血をひくふたりの声が、場にある全員の耳を打つ。

「クレスメントの血によって刻まれた誓約ではなく、俺が――マグナが新しき約束を求めて汝に願う。呼びかけに応えよ、魔軍将ガルマザリア!」

「トリスが願う! 旧き血に縛られるためでなく、血を捨てるためでなく……受け入れて先に進むために。言霊の呪にて滅式を行使する者!」

『いでよ!』

 ――喚ぶ声ふたつ、応える意志ふたつ。
 それはガルマザリア。そして言霊呪滅式。

 それから一瞬遅れて、アヤやソルたちの召喚術もその威力を炸裂させた。


 先程召喚されたそれらの比ではないほど、強力な光と、衝撃。
 けれどそれは、先程とは違って、たちを傷つけることはなかった。
 思わず閉じた瞼の向こうで、膨大な光が暴れ狂っているのが判る。
 ふさごうとして、それでも押し留まった耳に、悔しさと絶望の入り混じった声が聞こえる。
 だけど、ひとまず己の自由を確保した安堵故か。何より気をとられていたのは、先刻投げかけられたとんでもない爆弾発言だった。
 ――『エルゴの守護者』と彼らは云った。
 に向かって、そう呼びかけた。
 何の勘違いだと思ったけれど、心のどこかが、それは勘違いでも嘘でもないと云っている。今もだ。
 繰り返す自問、本当にエルゴの守護者なのか、本当にクレスメントに連なる者なのか。繰り返す自解、すべて是? それとも。
 どういうことだろう。
 あたしは――

  わたしが

『守護者ヨ……!』
「ッ!!?」

 不意の声。背中からの呼びかけ。
 驚愕のまま、振り返る。
「あ!」
 慌てすぎたせいか、身体の半分が、トウヤの描いた魔方陣からはみ出した。
 戻らないと。思考はすぐそう動いた。
 けれど、身体は思うとおりにならなかった。
 目の前に浮かぶは、光に灼かれて今にも塵と消えそうな――白い、靄にも似た存在。
 かすかに判別できるそれの表情は、さっきから聞こえていた声と同じように悔恨と絶望と、口惜しさに染まったまま、を凝視していた。
 ……動けなかった。あまりにも壮絶な、その在り様に。
 それは、たかだか一瞬。されど一瞬。
 靄は――かろうじて判別できるその表情に、会心の、歪んだ笑みを浮かべ、
『――……!!』
 もはや声にもならぬ叫びとともに、消えた。

 瞬間。

「え」

 ぱたりと己が分断された。
 さっきのように、気づけば自由がなくなっていた、なんて悠長なものではなかった。
 身体中に電流を流されたような違和感。不快感。頭痛。吐き気は増大し、けれど、嘔吐は許されない。
 無理矢理他者の支配下におかれようとしている筋肉が、嫌だ嫌だと悲鳴をあげている。
 けれど、それを無視するように、の手は高々と持ち上げられた。
 その手に在るのは。金色の羽根。
 まだ手に握ったままだった、アグラバインがアメルに託した天使の羽根。

 光が迸る。
 皆の喚び出したそれに比べれば、遥かに弱くはかない光。
 だが、だからこそ。
 それは光に混じり、誰にも気づかれることなく、その目的を果たすべく。

 ――刹那の間さえ、おそらく、なかった。


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