「よし、始めようか」
ハヤトのことばに、ちゃきちゃきと動いた誓約者たちが、それぞれ一定の距離を保って遺跡の前に立つ。
余った人間は、とりあえずはぐれや悪魔が襲ってこないように周囲の見張りだ。
森は変わらず、まるで生き物などいないように静まりかえっているけれど、何故か、感じつづけてる圧迫感。
悪魔たちからのプレッシャーではなく、召喚兵器が襲ってくるといった虫の知らせではなく。いや、感覚としては似ているのかもしれないが。
「……本当にこれで、終わるのかな」
「トリス?」
の横にやってきたトリスが、何を見るでもなくそのへんに視線をやりながら、ぽつりと云った。
返事を求めているのかどうか判らなかったものの、とりあえず名を呼んでみる。すると、こちらを見る紫の眼。
「ずっとずっと長い間。続いてきてた、あたしたちの」、
「トリスたちのご先祖のやらかしたことね」
「……」拘るに、トリスは少しだけ口元をほころばせた。「その罪……これで消えるのかな?」
「うーん……]
彼女のことばに、少し考えて。
「それは消えないよ、きっと」
「……」
黙り込んだトリスが傷ついたように見えて、はあわてて、つづきを口にする。
「あたし、デグレア軍の人間として、人を斬った。殺したことがある。それは罪だし、きっと、ずっとあたしに付随するものだと思うよ」
トリスたちのほど、年期は入ってないけどね。
軽く茶化すと、やっと、彼女はくすくす笑った。
「でも、誰かに血を流させたあたしでも、受け入れてくれる人たちがいたの」
それはルヴァイドであり、ゼルフィルドであり、イオスであり。そして、黒の旅団の彼らだった。
「だからあたしは、そのことをちゃんと受け止めて、ここまでこれたんだと思う」
もう、ずっと前のことだ。
戦場を臨むことに、ようやっと、なじみだしたころだったろうか。
させたルヴァイド自身、それを避けつづけていたようだが、周囲の兵士たちが彼を諭したらしい。
軍人としての道を望むなら、いずれは訪れることであると。それを、混乱する戦場を最初にするのではなく、貴方が受け止めてやれるデグレアにおいて、行なわせるべきであると。心に刻ませるべきであると。
――人を斬る。人である人が人を殺す、その行為の意味を。
ああ。なんて、本当に。どれほど強く、彼らに守られていたか。
今も覚えてる。取り戻してる記憶は、鮮やかだ。
死刑執行場――たしか、そんな名前の。その一度きり足を踏み入れただけで、その後は立ち寄りもしなかった、場所で。
剣を携え、は、罪人だというその男と向かい合った。
裁判権も持つ元老院議会の決定により、死罪を云い渡された男。罪状はなんだったか。覚えてない。聞かされなかった。
聞けば、おまえにはまだ耐えられぬ、と、ルヴァイドは云っていた。
人の起こす罪は、人の生む業。
それを受け止めるだけの器をまだ持たぬなら、この男が苦しんでいることだけを知っていろと。罪の重さに潰され壊れる前に、解放してやれと。……そしてそれが、手を下す者の勝手でしかないことも、心に刻めと。
それらを眼前で聞いた男は、深くうなずいていた。どの部分でそうしようと思ったのかは、聞きそびれた。
……一撃で首を落とす必要があった。
力が足りないから、ルヴァイドが付き添ってくれた。大きな手を、小さな手に添えてくれていた。
男は静かに、を見て、笑んだ。
それから、口の動きだけで何か呟いた。読唇術の使えないには、それを読み取ることは出来なかった。
――後で、ルヴァイドから聞き出したけれど。
無言のまま、男は、に向けてこうべを垂れた。
その瞬間、何故か逃げ出したい気持ちに襲われた。それまでは、緊張に冷や汗をにじませても、成し遂げようと決意していたのに。
……けれど、その気持ちを押さえ込んだ。添えられたルヴァイドの手に、励ましを得て。
それが最後の一歩。
そしては、初めて人を斬ったのだ。
刃ごしに伝わってきた感触。すっぱりとこそがれる肉、ごづり、と断たれる骨。
吹き出る血。赤く染まる剣。
それらがに教えた。おまえの手が、おまえの意思が、それをしたのだと。
――おまえはおまえと同じ生き物を殺した。即ち、
斬る前よりも、斬った後。恐怖は生まれ、肥大し、限度を超え、爆発した。
肉。骨。血。
生命をつくりあげるあらゆる素材を、剣は断ち切った。
それらを断たれた男は当然のように、絶命した。
地面に腰を下ろしていた男の身体は、全身が落ちた。落ちて、倒れて、動かなかった。
同じように呼吸し、生き、視線とことばを交わした相手。
それを物体に変えたのは、他でもない自分。
そうする力。
そうする意志。
そうする道を。
選んだのだと、思い知る。
生きてる誰かを殺すなんて、絶対に許されないことなのだと、知った。だって、それは、自分を殺すことと同じなのだ。
そのくらいの覚悟がなければ、誰かを殺すのは自分にも相手にとっても侮辱でしかないのだ。
……怖かった。
断った生命の重み。男が歩いたそれまでの道。重圧伴い襲う業。感じるそれを、受け入れられるか背負っていけるか。ただ、不安で、怖くて、逃げ出したくて逃げ出したくなどなくて。泣いた。
骸に背を向けなかったのは、ある意味奇跡。いまだに自分でも判らない。もしかしたらば、最後に笑んで刃を受け入れる心示してくれた男への、感謝とも意地ともつかぬ感情のせいだったのかもしれない。
そうして。
ただ怖くて。
怖くて怖くて――いっぱい、泣いた。
それでも、名を呼んで。ずっとずっと。抱きしめてくれてた人がいた。
「……」
――良い目をお持ちだ。
そう云った男がいた。
――あなたがいつか抱く信念を、あなたが曲げぬその限り、私の血もこれからの血も、あなたを汚すことがないよう祈ろう。
――私の死に意味を頂き感謝する。
そう、聞こえぬ声で、に告げた男がいた。
でも、未だに。
どうしてあんなに静かに優しく潔く、彼はそれを受け入れたのだろう。
まだは、彼の、その部分だけが納得いかずにいる。
だって。
意味も幸せもそして感謝も、生きてなければ何もかも。――輪廻に至り移り変わり、その先にある新たな生を、まだ望む気持ちはないからこそ覚える疑問。
足掻き終える境地など、まだは知らないから。
まだ、この生を。この自分を。あたしはあたしとして、
生きよう ね
そんなの、云われるまでもなく。
「ね、」
「ん?」
駆け足でよぎっていった、遠い記憶。そうして思い出していたルヴァイドたちのこと、さらに飛びかけた思考を振り切って、は視線を戻す。
紫の瞳が、真っ直ぐにこちらを見ていた。
「は――クレスメントのあたしたちでも……」
ちょっと浮かぶ苦笑。ああもう、まだ云ってる、と。それから、彼女がことばを全部つむぐ前に、「うん」と、頷く。
そのつもりで、頭を動かしかけたときだった。
――プレッシャーが、それまでの比でなく増加する。
「ッ!?」
「な、何!?」
何もない。何もないはずなのに、まるで万力で抑えつけられているような感覚。
耐え切れなくなって、その場に膝をつく。
なんとか身体の向きを変え、視線を転じると、そのとき正に力を行使しようとしていたアヤたちでさえ、と同じような状態に陥っていた。
それからバノッサも、ネスティも、アメルも。護衛獣の子たちも。
「マグナ! トリス!?」
だけど唯一。
無事なのが、たったふたり。
今、目を見張ったネスティが呼びかけた、そのふたり。
この襲いかかる過重のなか、反対に、まるで宙に浮いてでもいるかのような足取りで、ふたりはそれぞれの立っていた場所から、遺跡の前へ移動した。
それはさながら、たちから遺跡を守るように。
「おい! テメエら何してやがる!?」
ぶちキレ寸前のバルレルが叫ぶけれど、反応なぞまったくない。
それどころか、こちらの声が聞こえてるかどうかも怪しいものだ。
どこを見ているのか、目の焦点は合ってなさげだし、そもそも表情というものが消えてる。無表情よりさらにタチの悪い、虚ろ、といえば一番近いのか。
あんな目には、覚えがある。
どこぞの屍兵。どこぞの鬼兵。
「憑依されてる……とか?」
口元がひきつっているのを感じながらつぶやいたに、兄妹以外の全員の視線が集中した。
それに反対するようなトウヤの声がしたのは、その直後。
「だが、そんな術を使う奴はいなかったはずだぞ?」
う、と、は口ごもる。
実にそのとおり、なのだ。
ここにくるまでにそんな気配はなかったし、今このとき感覚を澄ませてみても、自分たち以外の気配はない。
けれど、あの状態は。あの目は。
どう考えても、それ以外の結論など、導き出せない。
「……違う……」
「ハサハ?」
懸命に重みに抗しているハサハが、胸に抱えた水晶を差し出して。
見慣れた、透き通ったその水晶の輝きの、一部が黒く変色していた。
その意味を察したらしいカシスが問いかける。
「やっぱり憑依なの? 悪魔? 鬼?」
その種類によって、対処も変わってくる。
もし後者であれば、鬼道の巫女であるカイナがいないことが惜しいが、ここにいるのは誓約者と護界召喚師。ぎりぎり、前者でも後者でも祓うくらいは出来るだろう。
けれど。
ハサハは首を横に振る。
――じわり。
黒く変色していた水晶の一部が、まるで血のような赤に染まった。
「……血……」
「血?」
かすかな、かすかなハサハのことば。
聞き漏らすまいと意識を集中させる。ことは、生憎出来なかった。
「やめろ!!」
ネスティの叫びが響く。
マグナとトリスが、手にサモナイト石をかかげていた。
赤い光と、紫の光が、ふたりを中心に渦巻いていた。
シルターンとサプレスの召喚術!
何を召喚するつもりなのか、召喚術の心得のないには判らない。
けれど。
あのネスティが、アヤたちが。バノッサまでもが表情を驚愕に染めているということは。
「――魔軍の将ガルマザリアよ」
「言霊の呪にて滅式をもたらす者よ」
高等召喚術。
トリスとマグナの現在の力では、使えないはずの。
ってか。
が驚いたのは、それが高レベルの術だと判ったからではなくて。
「なんでマグナがサプレスのでトリスがシルターンのを使おうとしてるわけッ!?」
そう。他はともかくネスティの驚愕には、今のの叫びの理由も含まれていたはずだ。
マグナはレオルドとハサハを護衛獣としているとおり、使えるのはロレイラルとシルターンに縁の召喚術のみ。
トリスはバルレルとレシィが護衛獣なのだから、サプレスとメイトルパの召喚術のみ。
そのはずだ。
なのに。
ハサハのことばが最後まで紡がれるより前に、誰かがの疑問に答えるより先に。
「きたれ」「いでよ」
静かに。どこまでも、ただ淡々と。
臨界まで達した光を従えて、マグナとトリスが最後のことばを口にした。
――こなくていいッ!
パキン。
硬質なものが砕ける音が、天幕に響いた。
「ルヴァイド様、お怪我は?」
ちょうどその場にいたイオスが、それを片付けようと手を伸ばす。
「やめておけ。おまえが怪我をするぞ」
空でよかった、などと思いながら、幸いにも大きく割れただけの破片を拾い、適当な布で包んだ。
がちゃがちゃと、布のなかで耳障りにこすれるカップの破片。
陶器製のそれは、あとで地面に埋めさせておこう――そう思い、ふと。眉をしかめた。
「……自分は、あまり、そういうことは信じないのですが……」
その意味を正確に察したイオスが、こちらもあまり縁起のよくなさそうな表情になってつぶやく。
砕ける前は乳白色の立派なカップだった欠片たちは、そう遠くない昔に、がルヴァイドへ贈ったものだった。