くすくす、と、女は笑う。
お気に入りの酒はすっかり空になり、美味しいおつまみでおなかもいっぱい。
気分もほどよくほろ酔って、これで上機嫌でないと云うほうが難しい。
「たしかにィ、おうちに帰してあげるコトは出来ないけど〜……」
うふふふふ、と、陽気に含み笑いなどこぼしつつ、今の今までテーブルに突っ伏していたメイメイは、すっと右手を持ち上げた。
「ほんのちょっとの夢なら、見せてあげれないこともないのよね〜……にゃは♪」
「ダメだよ、メイメイ」
「……あら」
持ち上げかけていた手を下ろし、メイメイは部屋の入り口を振り返る。
そこには見慣れた小柄な人影が、ランプの明りに苦笑を照らして立っていた。
「あらあらあら、おひさしぶり〜♪」
すちゃっと手を上げてご挨拶された少年は、やっぱり苦笑を浮かべたままでメイメイの傍まで歩を進める。
「何をしようとしていたの?」
「総帥様こそ、こんな夜中に出歩いて何してるのかしら〜」
「夜中だから出歩けるんだよ」
お互い笑みを浮かべたままで、とても小気味よいテンポで進むことばのやりとり。
ひとしきり、他愛ないことばのキャッチボールを楽しんだ後、再び最初の問いを繰り返したエクスに、メイメイは、しつこいわねぇと小さく笑った。
「ちょっと、ね。あの子に故郷の夢でも見せてあげようかなぁと思ったんだけど」
「そんなことだろうと思った」
ふぅ、と小さなため息が、少年の口からこぼれる。
「ダメだよ。もう本当に、エルゴを護るものはいないんだから」
そのことばに、メイメイは、少しだけ表情を険しくした。
ほんのり紅に染まった頬と、心なし潤んだ瞳はそのままだけれど。
エクスの云っていることに賛成の意を持っていないのは、それでも一目瞭然。
むしろ、それは如実に反対意見を抱いていることを示していて。
「でも、今はエルゴの王がいるじゃないのよ〜」
口調は、まるで駄々をこねるこども、そのものだったりするが。
「……あのね。メイメイ」、
そうしてそれをなだめるようにエクスが話しかける。
外見上の立場はこのとき完全に逆転していた。
「エルゴの王は人間だよ? 彼らの寿命が尽きた後、そのときはどうするの?」
「……そのときはそのときでしょ〜? にゃははは〜♪」
「メイメイ……刹那主義を悪いとは云わないけどね……」
はぁ、と。
今度はそれなりにでっかいため息をついて、エクスは額を押さえた。
外見は幼い少年なのに、その行為には老成した何かを感じさせる。それが、彼を異質な存在に見せていた。
そのエクスの顔の正面に、メイメイの指が突きつけられる。
「だってあの子、ほんと〜になんにも知らないのよ〜?」
あんなふざけた運命とやらの記憶は、抱えたまま眠りつづけたまま。
こんな世界に喚び出されて、数奇な運命の持ち主に関って、それでも一生懸命に頑張ってるのに。
そう、云って。
ふと真面目な表情をつくり、メイメイはエクスに顔を近づける。
お酒臭いよ、と彼は苦笑しつつ反論するが、あっさり黙殺された。
「実際、どうなのかしら? 世界の探求を続ける蒼の派閥の総帥様としては、また鎖を用いることに是か非か?」
メイメイとエクスの視線がぶつかる。
傍から見たら、妙齢の女性がいたいけな少年を危ない道に引きずり込んでいそうな光景だが、当人たちは至極真面目だった。
つ、と、目を伏せた蒼の派閥の総帥は、やはり外見年齢にはそぐわない表情をつくる。
「僕個人の意見でいいのかな?」
「いいわよ〜? 今は、ね」
ゆっくりと。
エクスは口の端を持ち上げた。
「僕は――」
「そういえば、カイナちゃんってシルターンのエルゴの守護者……なのよね?」
「ええ、そうですよ」
嵐のような一日もようやく終わりを告げ、時計の針が次の日を指そうという時刻。
ケイナとカイナのふたりもまた、そろそろベッドに入ろうと、自室へ向かって歩いているところだった。
唐突なケイナのことばに、おっとりと答えるカイナ。
記憶がないことは変わらないものの、それでも誰もが、彼女たちは仲の良い姉妹だと信じて疑わないだろう。
「それで、エルジンくんとエスガルドが――」
「機界ロレイラルのエルゴの守護者です。メイトルパのエルゴの守護者は、サイジェント付近に住んでいるドラゴンさんですよ」
「……ドラゴンねぇ」
どんな感じなのかしら、と、ケイナがつぶやいてカイナが笑う。
「何度かお話もしたんですよ?」
「どーいうお話なのか是非一度聞いてみたいわね」
いや、今はいいから、と付け加えるのも忘れないケイナ。
「でもどうして急に?」
やっぱり話の唐突さは不思議に思っていたらしいカイナが、きょとんと問いかけた。
ケイナはしばらくことばを探すように、視線を宙に向けて。
それから、改めて妹に向き直る。
「う〜ん……ほら、伝説ではエルゴの王――」
云いかけ、今屋敷に滞在している二代目を思い出したのか、「この場合初代の王の方よ」と云いなおす。
「その人が、5つの世界のエルゴの力を借り受けてリィンバウムに結界を張ったって、伝説には云うじゃない?」
「はい、そうです」
「で、カイナちゃんはそのリィンバウムにあるエルゴのうち、シルターンの守護をしている」
「はい」
もっとも、めったに襲ってくる方もいませんでしたし、平和なものですけど。
それなりの年月を、サイジェント近くの鬼神の谷で、ひとり過ごした少女は笑う。
そのカイナの頭を軽くなでてやって、ケイナは指折り数えつつ、
「それでロレイラルのエルゴの守護者もここにいる……メイトルパのエルゴの守護者はサイジェントの傍の山」
いちいちカイナが律儀に頷くものだから、ケイナの手もつられて上下。
「それじゃあ、サプレスと、このリィンバウムのエルゴは誰が護っているのかしら……って」
「……それは……」
カイナの表情が、微妙に硬質なものになる。
夜更けの廊下でその変化ははっきり見えないものの、まとう雰囲気が変わったことを敏感に察したケイナが、話したくないなら、と、そう云おうとした矢先。
「サプレスのエルゴの守護者は……一度エルゴとともに失われています」
何度か顔を合わせた相手だったのか、表情はいたましかった。
「今は、ちゃんと、新しい守護者がいますけど」
「ふぅん……やっぱり、サプレスの天使か悪魔?」
あえて、失われたという守護者ではなく、新しく任についた側の話を、ケイナは持ち出した。
「……秘密です」
「?」
疑問顔のケイナの問いをはぐらかすように、カイナはにこにこ微笑んでみせる。
だって、ご本人にそのこと、お話していませんし――
なんて、心のなかでだけ。いつもと変わらぬ彼女の笑顔は、ほんのちょっぴり、含みのあるものだった。
――へくしッ!
「……風邪か……?」
「いつまでも酒なんか飲んでるからだ。早く寝ろよバノッサ」
「手前ェらに指図される謂れはねぇ」
ギブソン邸の一室で、ちょうどそのときくしゃみをしていた青年がいることに、幸か不幸かこの姉妹は気づかなかった。
じゃあ、と、カイナの笑顔に恐れをなしたか、ケイナが話の矛先を変える。
「最後のリィンバウムのエルゴは?」
今度こそ。
カイナの表情が、硬くなる。
それから、戸惑ったような――困っているような。
本気で訊いてはいけないことだったのか、と、ケイナは思って、質問の撤回をしようとしたのだけれど。
今度もやっぱり、カイナの答えの方が速かった。
「……私も、詳しくは存じません」
ですが、
「皆さんが誓約者としての試練を受けるときに、ご自分の鏡像と戦ったというお話は伺っています」
そのことばで改めて思い出されるのは、先ほどの騒動。
サイジェントから来た少年少女、彼ら8人のうち4人が、伝説の『誓約者』としてエルゴに認められた存在であると明らかにされたときのものだ。
いつかののセリフじゃないが、それこそ、隣のおじいちゃんがびっくりして心臓発作起こしそうなほどの騒ぎだった。
当人たちと事情を知っていた数人からだいたいのあらましは聞かされたものの、それだけで納得するような人間ばかりじゃない。
ミモザがペン太くん親子をぶちこまなければ、夜明けまで、誓約者と護界召喚師たちは質問攻めにあっていたのではないだろうか。
かくいうケイナも、質問攻撃こそ繰り出しはしなかったが、話はすべて聞き逃すまいとしていたのだから人のことは云えないけれど。
それらの喧騒を脳裏によぎらせた後、
「……鏡像?」
怪訝な顔になったケイナに、カイナはこくりと頷いてみせる。
「ええ、鏡像です。鏡に映った己自身と戦い、勝つことが、リィンバウムのエルゴに認められるために必要な試練だったそうです」
「……じゃあ、守護者は鏡像だっていうわけ?」
ケイナの口調には、なんとなく納得いかないものが潜んでいる。
「そういうわけではないと思いますが……」
私もよく知らないのですが、と、前置きして、カイナは告げた。
「鏡像ならその場限り――ですがたしかに、訪れた者の姿を映しとり、本人よりも強き力持つ存在を生み出す鏡は、守護者としてはこれ以上ないかもしれません」
己を越える力を出さない限り、鏡は壊せない。
今誓約者としてエルゴの加護を得た彼らは、実にそのとおりにして、リィンバウムのエルゴの助力を勝ち取ったのだから。
それが生半可な覚悟では出来ないことを、ケイナもカイナもよく知っている。
だから。
鏡自体が守護者なのだと云われれば、納得しないわけではないのだけれど。
「私がエルゴの守護者としてお役目を頂いてから、いえ、その前からずっと、リィンバウムは平和を保っていました」
ぽつりぽつりとカイナは語る。
ことばを探しながらだから、それはひどくたどたどしい印象を受けるけれど、ケイナは辛抱強くそれを聞きつづけた。
「ですから、今代の守護者たちが実際に戦いを経験したのは、今のエルゴの王の試練が最初と云っても過言ではありません……はぐれ召喚獣などが迷い込んできたことはありましたけど」
そうして。
カイナとエルジン、エスガルドは誓約者たちとともに、とある集団のひとつの野望を打ち砕いた。
剣竜は、試練の折に傷ついた身体を休めるために剣竜の峰に――今も変わらずに在るのだろう。
サプレスのエルゴの守護者に至っては、もう、何も云うまい。
守護者だからと云ってひとところに留まる義務はないのだし、知らずに勤めを果たしていってくれるなら、なんとなく、それがいちばん平和な感じがするし。
っていうか告げたときの反応が怖いし。
そうして――リィンバウムのエルゴの守護者。
誓約者たちは、己の鏡像に打ち勝った。
鏡像は砕かれた。
ケイナが顔を上げるのと、カイナが妹をはっとした顔で見下ろすのは同時だった。
「じゃあ、今は」
「リィンバウムのエルゴの守護者は」
……不在ということ?
それを口にするだけの勇気はなく、自然、ふたりとも口をつむぐ。
話しこんでいるうちに辿り着いていた部屋のドアをひき開けながら、ケイナはふと、窓から入り込む月の光に目を向けて。
「……まあ、ただの憶測よね」
「そうですね……」
小さくつぶやかれた姉のことばに、妹もまた同意する。
納得いきそうでいかなそうなことは、お互い重々承知していたけれど、それで話は打ち切られる。
――ふと。
窓の硝子越しに見えた月の光が、その蒼が。冷たいまでの透明な輝きに感じられて、ケイナは小さく身震いしたのだった。