放っておいてくれればいいのに、と、思う。
自分たちは、自分たちに流れる血に潜む罪を、もう、知っているんだから。
もうあの人たちの前に出ることなんて出来ないんだから。
このまま朽ちていくまで放っておいてくれればいいのに、と思う。
廊下に続いている部屋から、軽くノックの音が聞こえたときも。数人の気配が、こちらに向かって近づいてきたときも。
トン、トン、と。ノックの音が聞こえたときも。
黙っていればいつもみたいに出て行くと思ったから、じっと息を殺した。
だって逢えない。逢いたくない。
逢いたいけど。
どんな顔して逢えばいい。
ネスティだったとしたら、アメルだったとしたら、何を云えばいい。
他の仲間たちだったら、何を喋ればいい。
判らないから。もう、放っておいてほしいのに。
がちゃり、と、扉が開いた。
「うっわ。」
不謹慎だとかあのふたりに悪いとか、そーいうのが浮かび上がるより先に、の口から零れたのはそんな驚きの声だった。
さっき、廊下側の部屋のカーテンを引き開けてきたから、か細いとは云え月明かりがなんとか照らしてくれてるけど、暗い。
や、もう、真っ暗。
そんなことばがぴったりの部屋。
その中に、うずくまってる人影ふたつ。見つけて、はやっぱり顔をしかめた。
……今も、けっこうはっきりと、覚えているつもりではいるのだけれど。
無邪気に笑っていたことや、元気に懐いてきてくれたこと。一緒に戦ったこと。
そんな記憶をあっさり押し潰してくれそうなほど、重い、それは部屋に漂う空気。
……たしかに、と、は、こちらに残っていた護衛獣たちのことを思う。
たしかに、こんなもん感じてたらあの子たちもダメージ溜まるわ。
護衛獣と召喚主の結びつきはきっと他より強い。
トリスとマグナのこんな空気を感じつづけていたのだとしたら、彼らもそうとう影響を受けていただろう。
どうしたものかと思いながら、目をこらして人影を注視する。
どっちがどっちか、とりあえず見当をつけようとしたとき、
ぴくり、と。
が思わずあげた声への反応か、ふたりが身じろぎした。
普段から考えれば無茶に遅いけど。それでもまだ、外界からの刺激を受け取れる状態ではあるらしい。
そのことに安堵した。
完全に内に篭られていたら、本気で誓約者にでも頼らなければいけないかなんて思っていたから。
「マグナ、トリス」
呼びかけた。
数十秒の間をおいて、ゆっくりと、ふたりが振り返る。
闇のせいか、漆黒に見える双眸がふたつ、の姿をとらえた。
とらえて――
『うわああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!!』
ふたりぶんの絶叫が、屋敷を大きく揺るがした。
「……だいじょうぶなのか?」
立ち上がりかけた身体を無理矢理ソファに押し戻したフォルテが、いつになく真剣な顔でそう云った。
周囲にいる仲間たちは、答えるすべを持たず、けれど、誰も上に向かおうとしない。
今しがた聞こえた悲鳴。
それは数日聞いていなかった、蒼の派閥の双子の新米召喚師の声。
「……さあ……」
落ち着かない素振りなのは皆同じ。
顎に手を当てたネスティが、フォルテの問いに応じるようなつぶやきをもらす。
「でも……声が出せてます」
カイナがゆっくり微笑んだ。
「そうね。だんまりで篭りっぱなしからは変化があったってコトだし。ね」
姉の同意を得られて、カイナの笑みが、より柔らかになる。
その笑みをたたえたまま、なしくずし的に居間で待機しているアヤたちに視線を移した。
「お世話をおかけしました、本当に」
ありがとうございます――
告げられるそのことばは、たぶん、を連れ帰ったことに対してだ。
積極的に関りはしなかったトウヤやキール、ナツミにカシスにクラレットはかすかに笑っただけだけど。
アヤとハヤトはにっこり、それと判るほど笑みをつくり、ソルは、小さく首を横に振った。
「……俺たちが行かなくても、はここに帰ってきてたよ」
だよな?
水を向けられたリューグとロッカが、顔を見合わせて頷くのを見て、ソルの笑みが深くなる。
さすがはアヤ(とハヤト)の幼馴染みだ、というのが、彼の、現在正直な感想。
彼らの世界にいる人間は、みんな、こんなふうに逆境のどん底に落ち込んでも這い上がる強さを持っているんだろうか。
だとしたら、なんて強い世界なんだろう。
一年前に彼らを巻き込んだ大事件の発端になった召喚師は、黒の旅団陣営の近くでの、バノッサと少女のやりとりを思い出す。
誰だって、たぶん怯える。怖がる。
彼の――バノッサの積み重ねてきた憎しみは伊達ではなく、それが消え去った後でも、彼が彼として築いてきた性格はそのままだ。
バノッサと顔を合わせた人間は、まず一度は硬直すると思うし。……しなかった相手をふたりほど、知ってはいるが。なんてか、除外。あれは例外。
でも。そして。
彼女は、立ってた。
たしかに少し震えてたし、握りしめた手のひらは血の気が失せるほど力が入っていたけれど。
でも、立っていた。耐え抜いたのだ。
……どうしてかな、と、そこで自問する。
あのとき、の目を真っ直ぐに向けられていたバノッサを、ひどく羨ましいと感じていた。それは、どうしてかな、と。
それは。遠く。めぐる季節ひとまわり、昔。
同じように、真っ直ぐに。自分たちを見てた――
「だいじょうぶです、きっと」
まだ不安そうな仲間たちに向けて、アメルがそう云った。
ネスティもまた、それに誘われるように、膝の上で握っていた手から視線を移す。
……アメルは、微笑っていた。
彼女も精神的な傷は大きかっただろうに、その陰の欠片さえ見せずに、
「が帰ってきてくれたもの。だいじょうぶですよ、きっと、もう」
――だいじょうぶ。
いつか自分がにもらったことばを、こうして、罪に染めた相手に云ってもらえるなんて、ちっとも考えていなかった。
こんなふうに、贖罪すべきはずの彼女から責められないでいるのは、たしかに現実ではあるのだけれど、疑問はまだ、そのままだった。
どうして君は許せるんだ?
そう訊きたくて……けれど、まだ、そのときじゃない。
遠い昔に自分たちがつくりあげた鎖縛の三角形の、最後の一辺がまだ、ここにはいないからだ。
トリス。マグナ。
これまでの自分以上に、遠い昔の罪に怯える弟弟子と妹弟子の姿。
軽く伏せた瞼に浮かぶのは彼ら、そして――
鼓膜が破れるんじゃないかと、真っ先に思った。
条件反射で耳をふさぎかけたけど、それよりも先に、ふたりが半狂乱になっているのが見えたものだから、そんなんに二本しかない腕をさいていられるかと思い直した。
「やだっ、っ、こないでっ!」
壁にぴたりと背中を押し付けて、トリスが泣きじゃくる。
「俺たちに逢っちゃだめだよっ……!」
ぐいぐい、と、を扉の外に押し出そうとしつつ、マグナが懇願する。
気持ちは判る。
記憶が戻った今となっては、リィンバウムにとって異界の友を失うのがどういうことか、召喚術というものがどんな意味を持っているのか、たかだか6年分のそれではあるけど、だって理解はしているつもり。
それに照らし合わせると、まあ、やっぱり……とんでもないこと、してたんだなあと思う。
でもそれは、ふたりの先祖とやらの話だ。
そして同時に思い出すのは、このふたりと護衛獣たちの姿。
約一名がなんのかの云いつつも、彼らは常に共にいて。笑って、たまに怒って。じゃれて。……一緒にいたのだ。彼らは彼らの意思で。
大切な、大切な。
そうしていたふたりだから、よけいに、遠い血の存在が犯した罪を許せないんだろう。そう、思う。
一握りの存在がしでかしたことが、ひとりの天使とその後の世界の在り様を歪めたのだから、その重荷を受け止めきれないでいるんだろうと思う。いや、受け止めようとしているからこその、この苦悩か。
――だけど。
くどいようだが、この人たちが実際に手を下したわけではないのに。そう、思ってしまうのが事実だ。
いやいや、第一、それ以前にだ。
「大好きなともだちに逢いたくていっしょーけんめー西の果てから戻ってきたのにその仕打ち?」
調律者とか融機人とか天使とか。
そんなもの、(怒られそうだけど)、としてはその実、どーでもいい。いや、かなり本気で。
「……え……」
トリスが泣く声が小さくなって、を扉の外に押し出そうとしていたマグナの腕から力が抜けた。
だけど、すぐにそれは復活する。
「俺っ……に友達なんて云ってもらえる資格ないよ……!」
「あたしたち、この世界にひどいことしたのに――」
「お黙れ」
ビシッと手を突き出して、ふたりのことばを止めたら、ふたりとも叱られた子犬のように身体を震わせた。それから、おそるおそる、こちらを伺う。
あぁ、もう、この人たちは。
ルヴァイドを思い出す。ネスティもそうだし、アメルももしかしたらそうなんだろうか。
どこまでも、自分にすべての責を負わせようとして。本来のそれだけならまだしも、余計なものまで背負おうとしてる。
それがそう出来るものならまだしも、彼らは逆に、その重みでつぶれかけてるありさまだった。
冗談じゃない。
過去は過去。
がデグレアの人間であったことは変わらない。ルヴァイドたちを大事に思っているのも変わらない。
だけどその道を振り切って、今の道に来た。
そうしてその道を選んだ以上、この先いくら後悔しても泣き叫んでも、選択を取り替えることは不可能なのだ。
過去は変わらない。
なら、この先をどう進めば、その選択において最善を尽くせるか。考えることは、それだけのはずだ。
……遠い昔に罪を犯したのなら。
それが自分の知らぬことであっても、流れる血に重責を感じるなら。
知るべきだ。
遠い昔の罪を、今さら消してしまうことはもう出来ないと。
知っているから。
その罪を受け入れて、そうして拭い去るだけのことを、どうすれば出来るのか。迷って。
知ってほしい。
過去の罪がどうあろうと、あなたたちを心配してる人や大事にしてる人がいることを。
と。うん、まあ。云いたいことは実にイロイロあるのだった。
だけどは喋ること自体にあまり自信はないし、コトバでどれほどのものが伝えられるのか怪しいとさえ、思ってしまう。
胸に渦巻く数多の思いを、適切に表現出来ることばがあるなら、それはもはや、この身を焦がして作り変えるくらいでないと、得ることなんて出来ないのだろう。
一応云っておくが、はそんなことするつもりなどない。
はから変わるつもりなどない。まだ、ここに在り、生き、歩く意志強く、持っているから。
だからして。
結局、出来ることもすることも、これしかないのが我ながら笑えるなと思うけど。
とりあえず、突き出していた手を、くるりとまわして人差し指を立てた。
「あのね」
話し出す。
「あたしは禁忌の森で一緒に遺跡に吸い込まれて、あなたたちと同じものを見たよ」
あれが何なのか、あの存在があるということがどういう意味なのか、自分なりに判ってるつもり。
「……だから、俺たち……あんなことしたから……っ」
「だーかーらー。あなたたちがやったわけでないでしょーが」
何か云いかけたマグナのことばを遮って、つむぐけど。
今度はトリスが反論する。
「でも! あたしたちの先祖がやったことでこの世界も、ネスもアメルも……ッ!」
「だけど」、
その叫びも遮って、は云った。
「あたしはこの世界が好きよ」
「……?」
「この世界じゃなかったら、あたしはココに来てなかったかもしれない。トリスやマグナにも、みんなにも逢えなかったかもしれない。――ルヴァイド様やイオスやゼルフィルドにも……逢えたかどうか判らない」
もしかしたら、何も知らないままで、あたしはあたしの生まれた世界で暮らしていたかもしれない。ここにいる、大好きな君たちに逢えないまま。
つとめて淡々と、告げた。
記憶が戻ったコトばらしまくりの発言なのだが、トリスもマグナも、今はそれどころではないんだろう。
ただ、黙って、つむがれることばを聞いている。
「……知ってほしいんだ」
あたしが、今のあたしになるための要素のひとつに、それは含まれているんだと思うから。
「あたしはこの世界が大好き。同じように、この世界を好きだって人をたくさんたくさん知ってる」
そうでなければ、みんな笑って暮らせない。
嫌なことがあっても泣いても怒っても、最後に笑って生きていけるのは、きっとこの世界が好きだから。
「クレスメントの罪を否定する、今の自分たちを否定する、そうするのは、今の世界を好きだと思ってる人たちを否定するのと同じだと思う」
過去に罪があろうとなんだろうと、だからこそ今があるのだ。
その罪の上に、今、自分たちの立つ世界は築かれてきたのだ。
「……トリスとマグナは、今のリィンバウム、嫌い?」
「そんなことないよっ!」
「大事な人いっぱいいるのに!」
叫んで。
ふたりははっとして、許されないことを云ったかのように口を抑えたけれど、きっとそれは本音。
それでもまだ、心許なく、
「だけど、ネスとアメルはあたしたちのせいで傷ついて――」
「4つの世界の皆だって、この世界を嫌いになって……」
大切な人たち。守ろうと思っていた人たちを。
遠い昔にこの血に連なる存在が傷つけて歪めていたのだから。
それが重い。
それが痛い。
――ああ、そうだ。
世界に対して罪を犯したことよりも、大切な人たちを、もう傷つけてしまっていたことが。
重かったんだ。辛かったんだ。……きっと。
ネスティを罪に染めた。
アメルの在り様を歪めた。
そうして送還術を組み換え、生み出された召喚術は、異世界の存在を強制的にこの世界に招きつづける。
護衛獣の子たちも、そうして喚びだされ、戦いに飲み込まれていく。
再びあの禁忌を手にするために、ひとつの国が動き、ふたつの国が戦渦に巻き込まれようとしている。
すべては、自分たちの遠い血が引き起こした。
償おうとしても償えない。時はすでに遥か彼方。
どうすればいいのか判らない。
取り戻せない時間を、どうすれば、なかったことに出来るのか。
「だからー!」
強い調子のの声が響いて、兄妹は再び身体を震わせた。
「そもそも、ネスティとアメルに逢ったの? そのへん、ちゃんと話したの?」
あたしはサイジェントから戻ってきたばっかりで、そのあたりの事情はほとんど聞いていないけど。
「ふたりは、許さないって云ったの?」
「……話してない……」
ぽつりとトリスが答えた。
「でも、だって、あんなことしたんじゃ絶対――」
「じゃあこの子たちはどう説明する?」
おいで、と、廊下側の部屋に続く、開け放たれたままの扉に向かって、が手招きする。
聞きなれた足音。
軽い足音みっつに、重い足音ひとつ。
「……レシィ……バルレル……」
「ハサハ、レオルドも……」
がくるときに一緒に在った複数の気配は、この子たちだったらしい。
「ほら」
一歩後ろに下がったが、優しく、彼らの背を押した。
「この子たち、ずっと心配してたんだよ」
知ってる。食事を持ってきてくれてたのも、呼びかけてくれてたのも。
それらにずっと背を向けてきたのに、それでも。
召喚術によって強制的に護衛獣にされたのが始まりなのに、それでも。
ハサハが、ぎゅぅっとマグナにしがみついた。レオルドがもどかしそうに指を曲げ伸ばしして。
トリスの手をとったままのレシィは、床にぼたぼたと染みをつくって顔をあげようとしない。バルレルは、じっと、彼女を見てる。
一番に口を開いたのは、やはりバルレルだった。
「……これでテメエら、嫌われてるとかぬかしやがったら、一生見損なうぞ」
低くドスの効いた、でも、いままででいちばん真摯な声。
「……だけど……」
「おにいちゃん、どうして、たしかめないでそう云うの?」
マグナのことばを遮って、ハサハが問いかける。
「……!」
「自分の内側に閉じこもってるのは、だめです……いつもの元気なご主人様たちに戻って下さいっ……」
「…レシィ…」
「主殿――」
うまくことばを捜せないのか、レオルドがつぶやく。
そうして。
ゆっくりと、伏せていた目を持ち上げれば、その先には、にっこり笑ってるの姿があった。
――ああ。笑ってる。
変わらない。君の笑顔は。
変わらない。いつもそうして差し出してくれていた手も。
「……ね?」
だいじょうぶでしょ?
いつも、そうして教えてくれていたことばも。
――変わらないままで。
「ねえ」、
のことばに重なって、自分の心から声がする。
これから、どうしたい?
静かに生まれた自分への問いかけは、ゆるやかに心へ染みとおる。
「……うん」
それまで心を覆い尽くしていた暗闇が、そのひとつだけで晴れ渡った。
どうすればいい、じゃなくて。
判らない、じゃなくて。
どうしなければいけなかった、じゃなくて。
――どうしたい?
そう自分に問いかけることさえ、忘れてしまっていた。
そしてその答えは、たぶん、とっくの昔に出ていたのに――
変わらないよ。この気持ちは。
きっと絶対に変わらない。
記憶がなかった頃、なくしたくないと思った気持ちは、やっぱりなくさずにいられた。変わらないでいられた。
きっとこれからも変わらない。
……あなたたちが好き。みんなが好き。
たとえ世界中の誰がそれを否定しても、あたしはあたしの気持ちを否定しないで歩いていきたい。