どうしていいのか判らなかった。
いつも笑ってる自分の主。いつも優しかったあのひとの。
あんな姿を見たのは初めてだったから。
扉越しに何度か声をかけてみても、何も返ってはこなかった。
まるで、扉一つはさんだ先には闇しかたゆたっていないみたいで。怖くて。哀しくて。
それ以上先に進む勇気が出なくて。
何を云えばいいのか判らなくて。
だって。
元気を出して、とか。
気にしないで、とか。
そんなの、意味ないような気がしていたから。
届かないような、気がしたから。
――どうすればいいのか、判らなかった。
ただ、
「さん」
「おねえちゃん」
すたすた、と、廊下を歩いて行く少女に追いついて、レシィとハサハは同時にその腕に飛びついた。
「ん? ふたりともどしたの? ……あ、バルレルもレオルドも」
トリスとマグナが引きこもっている、二階の端の部屋まであと半分の道のり。
足を止めたが振り返って、護衛獣たちの姿を認め、名を呼んだ。
「あ、あの……さん」
泣き出しそうな顔で、レシィはを見上げる。いや、もう、すでに泣き顔なのだけど。
ハサハはぎゅぅっと頭をの腕に押し付けて、しがみついて。
「ボクたち……何も出来なかったです」
ごめんなさい。
ぱちくり。
「……は?」
いきなり謝られて、の目が点になる。
「だって……ボクたちの声じゃご主人様たちに届かなかったんです。何も出来なかったんです……」
「――だと、よ」
と一緒にふっとばされて、唯一こちらにはいなかったバルレルが、うっとうしげにつぶやいた。
彼はトリスとマグナの沈みぶりを見ていない。
だからそんなふうに云えるんだろうかと、思ってはいけないことさえ思ってしまう。
それくらいには。
あの人たちほどでないけど。
何も出来ない、その事実に。
追い詰められていた、自覚。
護衛獣なのに。あの人たちを守らないといけないのに。
何も。
「何を云ってるかなー、もう」
顎に手を当てて、頭のなかでいろいろと整理していたらしいの、第一声はそれだった。
それはそのことばに反して、あまりにもあっけらかんとして。明るくて。
笑っていたあの人たちを思い出してしまうくらい、優しくて。
しがみついていた腕を解かれてびくりとしたけど、その手はそのまま、レシィとハサハを抱え込む。
そうして、その手でちょいちょいと、後ろで立っている残りふたりを手招いた。
「禁忌の森であんなことになってビックリしたよね」
「……うん」
ハサハが小さく頷く。
「トリスとマグナがそういう血筋だって判って驚いたね」
「はい」
レシィも頭を上下させる。
「……でも、君たちはトリスもマグナもあんなコトしないって、知ってるよね」
「ハイ」
がしゃん、と、硬質な金属音。
「でも、なんて云えばいいか判らなかっただけだよね?」
「云おうにも云えねぇ場所だったしなァ」
しれっと横を見て、バルレル。
最後の返事にくすくすと笑みをもらして、は、抱え込んでいるふたりの頭を優しく叩く。
それから、内緒話の体勢になって。
あのね、と、ことばを紡いだ。
「あたし、実はデグレアの軍人なんだよ」
「え!?」
思いっきり驚いたのはレシィだけだった。
レオルドはまだそこまで大仰な感情表現は出来ないし、バルレルは事情を知ってるし、ハサハはこくんと頷いただけ。
「詳しい事情は後で話すけど、あたしは、今、デグレアのあの人たちを裏切ってる。召喚兵器を生み出したって人たちが、異世界の友達にそうしたように――【裏切り】ってことばにピッタリの行動、してる」
「シカシ、ソレトコレトデハ問題ガ……?」
「一緒だよ」レオルドへと軽くかぶりを振り、「背を向けたってトコロはね。規模なんてそれこそ問題外」
それでもね、と、は小さく笑ってる。
「これはあたしが決めたこと」
護衛獣の子たちに、そう、は云った。
「そしてあたしが望んだこと。だからその責任持っていく、覚悟くらいはしてるつもり」
たとえ後ろ指さされようと、かつての仲間と刃を交えようと。
それがどんな痛みを後悔をもたらすのだとしても……きっと、乗り越えられるように。
まだ迷うだろう。まだ戸惑うだろう。
それでも……
まだ覚悟は決める途中だけれど、歩き出した自覚はあるのだから。
――でも。
「でも、トリスとマグナは違うんだと思う」
裏切ったのは彼らではない。
裏切ったのは遠いご先祖。
先祖の罪を子孫に負わせるという考え方が、本当は、は嫌いだ。
ルヴァイドが父の罪を背負っているのだと知ったとき、覚えた憤りの深さは忘れていない。
けれどそれが、血に連なる故の烙印だと云うのなら。
それを受け入れねば先に進めないと云うのなら。
受け入れてこそ、見える道があるのなら。
……だけど、受け入れるために己を壊してどうするというのだ?
「それはみんなも同じはず。だからあんなに心配してるんだしね」
そのことばに、彼らもまた思い出す。
主たちのところに通う自分たちのことを、何やかやと気にかけてくれた仲間たち。
食事は当たり前のように人数分だったし、持って行くのが大変なときは途中まで手伝ってくれた。
扉の前で一晩明かしたときなんか、いつの間にか毛布までかけてもらってた。
そんな、数日間のことを、思い出した。
ゆっくりと、が笑う。
「……たぶん、ホントに最後に届くのは、誰かの声じゃないよ」
は、笑う。
だってあたしは知っている。
自分の立っていた場所とか、国と国のかかわりとか、これからの展開とか。
イロイロ、考えて。
決めたとき。
傍にいたイオスの存在とか、遠く近く思い出す、懐かしいルヴァイド様のこととか。どうしているだろうと心配していた、ここの人たちのこととか。
最後に自分にどうするかを決めさせたのは、どうしたいの、って自分の声。
そうして。
そうする、と決めた、自分の意志。
本当は、そうなんじゃないかと思う。
自覚していないだけで、選択を前にした瞬間、心はもう、進むべき先を決めているんじゃないかと思う。
迷ったり戸惑ったり、そんな気持ちが心の声をかき消すけど。
時折それは、自分でさえ判らない理由からなのかも知れないけど、決めてしまうだけのものは確りと、この心にあるのだろうから。
そしてそれは、いつでも消えずに在るのだと思うから。
これからいくら迷っても嘆いても、逃げ出したくなったとしても。ならばそれを見つけよう。
下したこの決断は、今の自分の気持ちそのものだと思うからこそ。
ぽん、ぽん。
手を伸ばし、はレシィとハサハの頭を撫でてやる。
ふわふわの緑の髪と、さらさらの黒い髪が指に絡みついて滑り落ちていった。
「一緒に行こうか」
小さく囁いて、目を丸くした彼らに笑ってみせる。
あたしの声だから届くわけじゃない。
この子たちの声は届かないわけじゃない。
あたしたちの声はあくまでも、ふたりの気持ちを起こすため。
ふたりの心に眠る声を、ちゃんとふたりが聴き取れるように。
トリスとマグナの心の声が、ちゃんと、ふたりに届くように。
そのためのきっかけなら、あたしたちの声でも十分、事は足りるだろう。
ほとんど儀礼的に小さなノックをして、
「入るよー」
ただ一言そう云って、そっとノブに手をかけた。
後ろでは護衛獣たちがはらはらしつつ見守っている。(一名除く)
ギィ、と、蝶番を軋ませて扉を押し開けて中に入り――ちょっと、顔をしかめた。
この部屋は二間構造になっていて、奥に寝室があったはずだ。トリスとマグナがこもっているのは、たぶんあっちの方だろう。
入ってすぐのドアの脇に置かれているのは、食事の残骸――とも呼べないもの。丸々残ってる、と云い換えてもいいくらい。
何せほとんど手付かずであり、減っているものといえばパンと水程度。
それにしたって、18歳の男女ふたりの食事にしては少なすぎる。
いつ持ってきたものかと訊いてみれば、今日のお昼だとレシィが答えた。
つまりは、最低10時間ぐらいパンと水だけで生きてるというコトであって……もしかしなくても、数日間こんな調子だったりしてるんだろうか。
ふたりのショックの度合いが知れようというものだが、それにしたってと思う気持ちも強い。
ああ。こんなことで、あたしはちゃんとあのふたりと話せるんでしょうか。
でも、そのために来たのだ。
すたすたと部屋を横切って、ついでに傍の窓にかかりっぱなしのカーテンを引き開けつつ、奥の部屋に続く扉の前に立つ。
意識を済ませてみるとたしかに、衰弱している気配がふたつ、ほんのかすかに感じ取れた。
「……」
眉をしかめて首を傾げ、手を持ち上げる。
――トン、トン。
遠慮がちな、でもはっきりとしたノックの音が、こちらとあちらの部屋に響く。
「……」
返事はない。
ただ、ほんの少しだけ何かが動いたような。
ずっとこんななの、と、ハサハがようやっと聞こえるくらいの声でつぶやいた。
「……」
むう、と、一度だけうなって。
は実力行使すべく、扉に手を伸ばした。