ロッカのかざしていたカンテラの明りを受けて、こちらに走ってくる人影がはっきり見えたとき、リューグは自分の目を疑った。
茶色の髪も、小柄な身体も、いつものままだった。のままだった。こちらに向けてるその笑顔さえ。
だけど。
その服装。
どこかの特務隊長を彷彿とさせる、彼女の格好。
以前デグレアの陣営に連れて行かれたときかっぱらったという服なんかの比でないくらい、それは、にしっくり似合っていた。
つまり。あれはの服で。軍人としてのそれで。
あれを着ているということは。つまり。
そこまで考えた瞬間、思い出したのは炎の夜。
無残に殺された人々と、死体を増やして行く黒ずくめの兵士たち。燃え上がる炎。
そうしてその瞬間、音を立てて噴出したのは胸の奥に燻る熱。
消えることのない、黒の旅団への怒りと憎しみ。
そうして無意識に、リューグは肩にかついでいた斧の握りを確かめていた。
見上げた夜空に浮かぶ月は、いつも以上に冷たく、蒼く澄んでいる。
突き刺すような光のなか、イオスはじっと佇んで、の去っていった方向だけを見つめつづけていた。
知らず、左手が心臓の上を押さえた。
ズキンズキンと。痛む。それは臓物なのか心なのか。
そう決めたあの子も、同じように痛みを感じているんだろうか。
癒えることのない傷から、無限に流れ続ける血の、量が増えたことを痛感する。
「――やっぱり、君は、強いな……」
もうこの声は届かない。もうきっと、届けることはない。
はっきりと。は云った。
歩く道を違えると。その結果訪れる未来を予想して、それでも、その道を選ぶのだと。
5年をともに過ごした、あの子が云った。
自分たちを好きだと云ってくれた彼女の口は、いつか命のやりとりをすることになるだろう道を選ぶと云った。
――イオス。ゼルフィルド。
ここを去る前に、振り返って告げた。最後のことば。
――ルヴァイド様のこと……よろしくね。
自分はなんと答えたのだろう。ああ、と、短く答えたようであり、何も云わなかったようでもある。
たしかに自分はルヴァイドの副官で、そうである以上のことばのとおりにするのは当然で。
だけど――だけど、。
僕は戦いのとき、あの方の生命を守ることは出来るけど、あの方の心までは守れない。
心が血を流すのは、君の命を奪う予感に怯えるせい。
傷がふさがらないのは、騎士としてあるまじき、件の焼き討ちと件のローウェン砦でのことのせい。
「……君が、いないと」
。
君しかいないんだ。
君がルヴァイド様に拠り所を得ていたように、あの方も、君がいたから裏切りの責苦と重責に耐えてこられた。
それは、あの国で君に救われた僕も同じこと。
――。
ただ、声には出さずにその名前を繰り返す。
口に出したが最後、この足はここに留まるべきという意志さえ振り切って走り出してしまいそうだった。
迷いは人の目を曇らせる。それと当人が気づく前に。
まだ気づかない。
気づくことは許されていない。
自分たちの歩みを操りつづける銀の糸の存在に、まだ、操られる者たちは気づくことはない。
まだ、誰もはは迷いつづける。
それでも、いつか。
失ったと思っていたはずの手が、差し伸べられつづけていたということに、気づくときはきっとくる。
だってそれは、本当に、そこに在るのだから。
そして。それは今このときではないとしても。いつか。
「……何のマネですか」
ダン! と。
目の前に突き立てられた斧を半眼で睨みつけ、同じく持ち主も半眼で睨みつけ、の問いが発される。
勿論、その視線の向かう先はリューグだ。
まわりにいるアヤたちが、心配そうにこちらを見ている(約一名人の悪い笑みだけど)。
「それは俺のセリフだ。……その格好はなんなんだ」
手にしたカンテラがこちらに向けて伸ばされ、紫基調の服が浮き彫りに成る。
「……デグレアの軍服。儀礼用メインの正装」
「さん――……まさか……?」
ひどく淡々と答えるに不安を感じたか、ロッカが何かを云おうとした。
けれどそれより早く。
――行為の理由を考えるより先に、は腰を低く落としていた。
ヒュン、と、頭上の空気が切り裂かれる音。
ついで、逃げ遅れた髪が数本、明りを反射しながらはらりと舞った。
「リューグさん!?」
「おいっ! おまえいきなり何してるんだ!」
アヤとハヤトが続けて叫ぶ。
だけど、意外には落ち着いていた。だから、ほとんど不意打ちのそれを避けれたのだし、たぶんちょっと反応が遅れても大事には至らなかったろう実感がある。
手加減は、してくれていたらしい。
「……いい動きしてるじゃねえか。元からだったけどよ」
ひと薙ぎした斧を肩に担ぎなおしたリューグから飛んでくるのは、揶揄さえ含んだ敵意のことば。
「ってかリューグ」、
可能性に期待出来ないとは思いつつ、それでも問うだけ問うてみる。
「あたしの話を聞く気はないわけ?」
「その格好が何よりの証拠だろうが」
突きつけられた事実は事実で、としては苦笑するしかなかった。
証拠といっても、たぶんリューグが思っているのとは逆の証拠になるのだけれど。
これは、自分の気持ちにケリをつけるため。
最初は繋がりを断たないまま飛び出した。
そうして、今改めて、それを彼らに告げるためにはデグレアの軍人でなければいけなかった。
それだけかと云われれば、うん。……ただ、それだけの、だけど譲れない理由なのだ。
さて、と気を取り直し、リューグを見る。
どうやら、かなり頭に血が上っているらしい。
不謹慎だけど、うれしいなと思う自分がいた。
とりあえず、が背を向けたと知ってそこまで腹立たしく思ってくれるくらいには、信用してくれていたということだろうから。
ちらりとロッカを見る。
かなり複雑な感情が見え隠れしている。
なんとなく、彼らがふたりだけで(オプションつきだけど)ここに来た理由が判ってしまうような気がした。
が一行の敵にまわるなら、今、ここで憂いをひとつ断つつもりだったんだろう。
――まぁ、それもまた当然ですな。
ちょっと早とちりしてる気はするけど。てか早とちりそのものなのだけど。
「覚悟はいいか」
地に足を擦る、じゃりっとした音をさせてリューグが構えた。
あー、本気なんだな。なんて。こんなときだというのに、おかしくなってしまった。
だけどそんな覚悟はごめんだ。
だって命は惜しいし、何より勘違いで殺されては正直たまったもんじゃない。
少し困ったなと思いながら、それでも構えをとった。
「さんッ!?」
それを返答とったんだろう、ロッカが身を乗り出すけれど、どうやら察してくれたらしいバルレルが、すかさず間に入ってくれた。
「バルレル……!?」
そこでようやくバルレルに気づいたらしいロッカが、は、と目を見張った。
「君、さんと一緒だったのか……!」
「何今さら云ってやがる。いいから黙って見てろよ、頭冷まさせねえとどうしようもねーだろーが」
「……それは、つまり……?」
さらりと自分の予想と反対なことを云われ、ロッカの表情にますます困惑がにじんだ。
――だが、彼はけして鈍くなどない。
「じゃあ、なおさら止めないと!」
すぐに察し、驚愕も露に前に出ようと足に力を入れた。
けれど。
ロッカとバルレルが話している間にも、事態は刻々と進んでいて――止めるには、少し間に合わなかったのである。