以前そうしたように、送っていこうかというイオスの厚意を辞退して、はとりあえず馬を借りた。
借りたと云っても、昔は何度か乗ったこともある馴染みの馬だ。
濃い茶色の毛並みで蹄のあたりだけが白いのが、まるで靴下履いたみたいでちょっと可愛い。
それに、この馬は頭がいいから。ゼラム近くまで乗っていったあと放せば、たぶんこの陣営に戻ってこれるだろうとも思ってのこと。
パッカパッカ、蹄の音も軽快に、と夜道を進む。
すっかり日も暮れているものの、とりあえず星明りとそれをかき消すくらいの月明かりがあるから、普通に進む分には苦労せずにすんだ。
――つと。
ある程度旅団の陣営から離れたところでは馬を止め、すぐ傍の木を振り仰いだ。
「バルレル? いるんでしょ?」
「……チ、やっぱばれてたか」
呼びかけに応え、バルレルが木の葉を散らして降ってくる。
「気がつくよ」
さすがに旅団にいる間は隠れてたみたいだけど、あたしが出てきてからは、感じが見え見えだったし。
ふっふっふ、と笑って、「乗る?」と馬に誘う。
初めて乗るんだろうに、彼は実に器用に鐙に片足ひっかけると、ひらりとの後ろに座った。
「……オマエ、いいのか?」
「何がー?」
云いつつ、馬に結わえ付けた荷袋から、携帯食料を取り出してバルレルに渡す。
自分は旅団で簡単なものを胃に入れたけど、バルレルはたぶん、何も食べてないんじゃないかと思ったのだ。
意に反さず、彼はそれをまずいと云いつつきれいにたいらげた。
たいらげてから、
「アッチに戻らねぇでいいのか?」
「すっぱり訊きますねー」
あはは、と、笑った。
なのにバルレルが不機嫌そうにそっぽ向いたから、なんだろうと思ったら。
「空笑いなのが見え見えなんだよ」
とのこと。
「……あー」ばれたか。頭をかいて、「うん」
そうしてこちらに戻された彼の眼は、真っ直ぐにを見ている。
思うコトがあるなら云っちまえ、と、暗に告げられているよう。
だから、ちょっとだけ、本音が零れた。
「正直云ってかなり辛い、かな……」
だってせっかく思い出した記憶。
だってせっかく取り戻した過去。
あちらで過ごした10年間と、こちらで過ごしていた6年間。
10年分の思い出は、今から戻る場所で話せる人がいるけれど、6年分の思い出を話す人とはもう、そんなふうにしては逢えないだろうと思うと。
――痛い。
全部思い出して、そして、結局天秤にかけてみることなしに気がついた。判ってる。
どっちのそれも、おんなじくらい大切だってこと。
選びたくないし、選ぶなら両方を欲しいけど。
今、どちらを選ぶ?
自問の答えは、
今は、この道を選ぶ。
どちらの気持ちも結局捨てられないのなら、どちらの気持ちも抱いたまま、今はこの道を歩こうと決めた。
敵対しても? うん。
手をとれなくても? うん。
どちらへの気持ちを選ぶわけでなく、結局、今はまだ、前と同じ道しか選べない。
選べる唯一の気持ち、たしかに断言できるそれは、禁忌の森に閉じ込められたものを表に出すわけにはいかないと。
繰り返させたくはないの
――なら。もう、その道を。
迷いながらでも歩くしか、ないのだろう。
ルヴァイドは自分に選択肢などないと云ったけど、それはだって同じことなのかもしれない。
「……でも、ね」
今度はちゃんと、笑えたと思う。
「チャンスがあったら多分いつだって、あたしはルヴァイド様たちをこっちに引っ張り込みたくって画策すると思う」
ぱちくり。
ちょっと鋭い、でも丸っこい目が数度またたきするのが見えた。
「……はあ?」
そりゃもう胡乱げなバルレルの返事にクスクス笑う。
「だって、ルヴァイド様は戦いたくないって云ったもん」
それは、つまり。
「……まだ、手を繋げる可能性はあるって思うし、思いたい」
つまり……かルヴァイドたちか。
どちらかが気持ちを覆せば、覆すに足るだけの何かがあれば。
としては覆すつもりはないから、ルヴァイドたちがそう出来るだけの何かがあるなら。(っていうかそれだと国を裏切るコトになっちゃうから、あんまりやってほしくないけどでもやってほしかったりして。ああもうどっちがどっちだかどっちらけ)
まだ、この手は、届くかもしれない。そう思う。思っていたい。
それは希望か、それともその名を借りた迷いか。
判らないままでいい、留まらないで、歩き出そうよ。
「……おめでてぇヤツ」
「誉めコトバとして受け取っておきます」
ゆっくり微笑うを、バルレルは黙って見ていたけれど、ふと表情を改めた。
「じゃあ、ひとつ訊くけどよ」
「うん?」
「もしも、戻ってあいつらに全部話して……それでアイツラの方から縁切られたら、おまえ、これからどうするんだよ」
そんときは、デグレアに戻るのか?
の答えはまず、否定の意を示すために首を横に振ることだった。
「戻らない」
こればかりは迷わない。云いきった。
「さっきも云ったけど、あたしは禁忌の森のアレを暴くなんて絶対に受け容れられないんだ」
だから、デグレアが、黒の旅団がそのために動きつづける限り、絶対にあの国へは戻らない。
「だけどね」
何かつづけようとしたバルレルのことばを遮って、さくさく自分の云いたいことだけ口にする。
「部外者になっちゃうつもりもないから……そうだなぁ……そのときは、ひとりで出来ること見つけて、頑張るよ」
「バーカ。テメエひとりで何が出来る」
「出来るよー。人間やる気になって出来ないことは、きっと、ないんだぞ」
為せば成る。あたしの国の格言なんだけどね。
ワケ判んねぇ格言があるんだな、とかぬかしたバルレルを軽くどついたら、危うく馬から落っこちそうに成ったので慌てて支えた。
「……力加減てモンを覚えろ、テメエは」
「あっはっは。」
「棒読みで笑うんじゃねェ」
半眼で睨みつけるバルレルを、まあまあとか云いながら改めて自分の前に乗せた。
羽がちょっと邪魔で手間取ったけれど、腕をまわして手綱を握りなおす。
「その羽、収納自在ならいいのにね」
「いくらオレでもそこまで器用なマネは出来ねーよ」
「そだね。ちょっと飛ばすからしっかりつかまってないと落ちるよ」
云って、手綱を軽く引く。
そのまま馬にこちらの意思を伝えようとすると、その手をバルレルが抑えて止めた。
「何すんの」
早く行かないと、心配してるかもしれないのに。
かもしれない、じゃなくて確実に心配されているのだけど、の現在の心境では、それを信じるにはちょっと余計な感情がつきまとう。
対してバルレルはというと、振り返ったを見ず、まっすぐに、今自分たちが進もうとしていた方向に視線を注いでいた。
「……サプレス臭ェと思ってたら……そーいうことかよ」
「?」
サプレスには特有の匂いなんかがあるんでしょうか。
とりあえずリィンバウムの人間ではない上に、召喚術もうとすぎるにとっては、バルレルが何を感じてそう云っているのやらさっぱり判らない。
つーか、今自分たちがいるとこは明らかに風上である。つまりことばどおりの『匂い』ではないということで。
となると、気配とか雰囲気か。
「サプレス――はぐれ召喚獣とか?」
黒の旅団の誰かが、ここで誓約の実験とかしてたのだろうか。
「むしろソレよりタチ悪ィ奴だな」
だけどその割に、バルレルの声には緊張とか敵意とか、そんなたぐいのものがまったくない。
はてどうしようと思っても、手綱は彼に抑えられているから、それを無視して走り出すことも出来ない。
しょうがないから少し待ってみよう、と、は息をついて手の力を抜き。
「あ」
――そのときになって、ようやく感じた。
懐かしい気配。
こちらの方に早足で近づいてくる。
離れていたのはたぶんほんの数日、その一部はたかだか数時間。
だけど。今の自分にとっては、ひどく懐かしく罪悪感を覚えてしまう――その、気配は。
「ロッカ、リューグ!? それに……!」
の声に反応したのか、こちらに向かってくる人影の歩みが速くなる。
急いで馬を下りて、軽くその尻を叩いた。
本来ならゼラムまで行くと云い聞かされていた馬は、怪訝そうに首をかしげてを見る。
「だいじょうぶだよ、もう戻りなさい」
そう笑ってみせると、馬は安心したようにいなないて、鼻面を一度だけに押しつけ、身体を反転させる。
遠ざかる後ろ姿をちょっとの間見送り、やってくる一行に改めて向き直ると、それこそもう、会話出来る距離まであとちょっと。
大きく息を吸う。
ルヴァイドたちに逢ってすでに精神力使い果たした感は否めないけれど、そんなことは云ってられない。
パチンと頬を叩いて気合いを入れなおす。
――覚悟はいいか?
それを話す者も、聞く者も。
――明らかにする覚悟、受け容れる覚悟。どちらがより大きいかとか訊かれた日には、笑ってどっちも同じくらいだと云ってやろう。
うん、とひとつうなずいて、彼らの方へと足を踏み出した。歩みはすぐに小走りに。
距離はそう離れていないからすぐに辿り着ける――
ドスッ、
鈍い音が夜の闇に響いた。