それは、きっと心の寄る辺だった。
どんな知らない場所に放りだされていても、自分のコトがまったく全然判らなくても、その気持ちが胸にあったから、自分は前に進んでこれた。
根拠なんてなかったけれど、その気持ちは心をあったかくしてくれた。
力をくれた。
だからそれは、自分を支えてくれるものだった。
――自覚なしでも覚えてなくても、それはたしかに、今のこのときまで自分を支えつづけてくれた。
だからそれは、今も変わらない。
だけどそれは、これからは痛みを伴ったものになる。
「イオス」
天幕に踏み出そうとした足を止めて、後ろに立っていた青年を振り返った。
怪訝な顔で見下ろしてくる、紅玉の瞳を見上げて。
「荷駄隊に、あたしの荷物、まだ積んである?」
「……ああ、あるよ」
「じゃ、まずそっちに行く」
歩いてくる間に見た駐屯地の風景から全体像を思い浮かべ、たぶんこっちだろうと見当つけて歩き出した。
その後ろを、不意のの行動に置いていかれる羽目になったイオスが追いかけてくる。
「?」
「うん」
問いかけに、返すことばはただそれだけ。
他に何かを告げようとしたら、心情すべてをこの場で吐露してしまいそうだから、あえてそうした。
微妙な視線の中を真っ直ぐ歩いて抜けて、予想どおりの位置にあった荷駄隊を見つける。
以前どおりなら、と思いながら荷物をひっくり返せば、見覚えのある荷袋が手にとれた。
そんなものでさえ懐かしいと思いながら、目的のものを引っ張り出す。
「……それは……」
覗きこんでいたイオスの声が聞こえる。
「うん」
もう一度、うなずいた。
蒼の混じった、ちょっと暗めの紫色の生地。襟や袖先のところどころに、金茶色の刺繍。
膝下まである長いコートの上に羽織る丈の短い上着は、胸元を十字架に似た止め具で抑えるようになっている。
それから、上着と同じ色で揃えたズボン。
――の正装だ。この軍においての。
「……」
やはり、そう思ってしまったのだろうか。
ちょっとだけ普段の冷静さの薄れたイオスの声を聞きながら、だけど、それに応じることはできなくて。
軽装だった自分の姿に感謝しながら、コートと上着だけをとりあえず羽織った。
他のものはそのまま荷袋に突っ込んで、肩にかける。
それから改めて、足を、さきほど背にしてきた天幕の方向へと向けた。
――きっと、これからは。
バサ……
報告用の書類だろうか、手にしていた紙の束を音高く床にぶちまけたルヴァイドは、彼にしては珍しく目を丸くして……たぶん心底驚いて、たった今、天幕をくぐって姿を見せたを凝視している。
外で控えていたゼルフィルドの横を通り過ぎたときも、彼から聞こえるいつもは規則正しいはずの駆動音が、微妙に乱れていた。
たぶんそれは、判ったからだと思う。
もっとも、判ってもらうために、わざわざ荷駄隊まで寄り道したのだからそうでなくては意味がないけど。
「……か?」
「はい」
声がかすれてるなぁ、疲れてるのかなぁ、と埒もないコトを考えながら、首を上下させる。
ぎこちなくならなかっただろうか、ちょっと心配になりながら。
普段ならそのまま飛びついていたが動かないのをどう思ったのか、イオスが怪訝な表情になるけれど。
彼に申し訳ないと思いながらも、見るのはまっすぐ、ただ一人。
その様子に何を感じたか、ルヴァイドはそれ以上ことばを発さず。が何か話すまで待つつもりなのらしく、同じように、こちらを注視する。
たかだか6年間だと云うかもしれない。
されど6年間だと思う自分がいる。
――初めて出逢ったときは、ただ怖かった。でも、抱き上げてくれた手の暖かさに安心できた。だから涙腺が緩みまくって大泣きしてしまったなんて理由、知ってるだろうか。
この人に逢わなかったら、きっと、今の自分ではなかったかもしれないとさえ思う。
いくら感謝しても足りない。
自分が何処まで恩返しできるか判らないけれど、何かの役に立つならと、それだけを思って軍に入った。
まだ、全然、恩を返せたとは思えない。
それどころか、勝手に有休とって飛び出した挙句に記憶喪失になって離反したみたいになってしまって、どれほど迷惑とか心労とかかけただろう。
しかも。
今から、さらに、恩を仇で返してしまう宣言をするのだ。
――心臓が痛い。
ぎゅぅっと強くつかまれて、絞りあげられているような。
気を抜けば泣き出してしまいそうな。
痛み。
……だけど。
未だ脳裏に鮮やかな、禁忌の森の奥深く在る、呪われた兵器たちの姿。見せ付けられた罪の映像。そうしてそれを解く鍵であるアメル。
いけない、と、それは最初の日に感じた直感に似ている。だけどそれより遥かに大きい確信。
おぼろげに感じていた、聖女をデグレアに連れて行っちゃだめだと思った予感は、このことを表していたんだろうか?
過ぎたときに思った予感の根拠より、今、自分がそう思っている理由の方が大きくて大事なことだと思うから、それ以上は考えなかった。
心のとおりに動くなら。
アメルはデグレアに渡せない。
「……まだ、聖女の捕獲命令は生きてますか?」
「ああ」
「ルヴァイド様たちは、そうされるんですか?」
「ああ」
それが為れば実行される、ゼラムとデグレアの全面戦争にいたる道。
「……騎士として?」
「――俺はデグレアの騎士だ」
そうして、ルヴァイドが、あくまでもその道を選ぶと云うのなら。
恩よりも務めよりも、ただ心がそう云うからと動く自分を、もう、軽蔑してもらっても構わない。
だけど、気持ちに嘘だけはつきたくない。
だけど、ひとつだけ許してほしい。
数度。息を吸って、吐いた。
何度か、目を閉じて、開いた。
心臓が大きく波打って、頭にガンガン響く。
「……デグレア軍特務部隊黒の旅団偵察、が、総指揮官ルヴァイド様に申し上げます」
ぎゅ、と、手をにぎりしめた。
いつ倒れてもおかしくないくらい、視界がぐるぐる回った。
「あたしは……デグレアには戻れません」
声がかすれて、ちゃんと云えたのか不安だった。
ああ、やはり。
最初に思ったのは、自分でも意外なことに、そんな穏やかな気持ちだった。
天幕にやってきたこの子がわざわざ正装なぞ引っ張り出してきたのも、風が吹けば倒れそうなほど痛々しかったのも、きっとそのつもりなのだろうと予想はついていた。
――むしろ、そうしないこの子など、実は思い浮かばなかったのだけれど。
「!? そんな、どうし――」
驚愕も露に、イオスがの両肩をつかむ。
とたん、彼女はふらりとその腕のなかに倒れこんだ。
ことばの先を失って、途方に暮れている特務隊長の腕から、その子を譲り受ける。
少し痩せたな、と、ふと思った。
腕をつかまれた。
気を失ったと思っていたは、けれど、どうやら身体中の力が抜けてしまっただけのようで。
今のたった数言を口にするのに、どれほどの労力を払ったかが判りすぎるほど判ってしまう。
けれどその目はしっかりとルヴァイドとイオスを映し、手は力なくとも何かを訴えるように彼の腕を握りしめていた。
「…………」
「ご――」
ごめん、と、そう云おうとしたのか、一度開いた口を慌てて閉じて。
「……恩知らずなのは判ってる。このことでルヴァイド様たちがまた議会に追い詰められるのも判ってる」
だけどその目は真っ直ぐに、自分たちを見つづけた。
「だけど……だけどどうしてもダメ。アメルをデグレアに渡すのも、その結果暴かれる秘密も、どうしてもあたしは受け容れられない。それをしようとするデグレアには帰れない」
たとえ今この軍に留まって任務のために奔走しても、絶対にそのとき阻止しようとしてしまうと思う。
そう告げるを見ている自分の視線が、少し険しくなる自覚。
知ってしまったのだろうか。この子は。
聖女を鍵として開く扉。その先にある強大な力。
十数年に及んでデグレアの求めつづけてきたものの正体を、は知っているのだろうか。
……もしかしたら、それは、自分たち以上に。
問おうとしたそれより早く、ルヴァイドの視線の意味を取り違えたらしいが、泣き出しそうな顔になる。なって――それでもまだ、視線をそらそうとしない。
「恩知らずって思ってくれていい。恥知らずでもいい。いっぱい罵ってくれていい。だけど」、
それはとても図々しい願いだけれど、
「――でも……ここが好きです」
好き。大好き。いくら云っても何回繰り返しても足りないくらい、あたしは貴方たちが好きです。
背を向けても離反しても、この気持ちに嘘はない。
記憶をなくして自分の名前しかこの手に残っていなくても、ずっと感じてた暖かい気持ちは幻でも夢でもない。
また刃を交えることになっても、いつか命の奪い合いをすることになっても、きっと、
「……貴方たちが好きです……」
半身を引きちぎられるような、この痛みは嘘じゃない。
「……バカだな……」
「マッタクダ」
いつの間にか閉じていたまぶたの上から、優しい声が降ってきた。
同時に、ふわりと頭を撫でられる、心地好い重み。
ずっとずっと、知らず懐かしいと思っていた、その本物の感覚。大きな手が、ちょっと不器用に髪を乱しながら、撫でてくれる感触。
「……ゼルフィルド……?」
いつの間に天幕の中に移動してきたのか、外で見張りをしていたはずの彼が、の傍に立っている。
相変わらずルヴァイドの腕のなかで、すぐ傍にはイオスとゼルフィルドがいて。
……ここはあたしの居場所だった。
だけどこれからは居場所じゃない。
その気持ちが、なんとなく、ルヴァイドの腕から抜け出そうと身体をもがかせるけれど。
どうやら腕に抱えてくれている当人の方にそのつもりは全然ないらしくて、もがくだけ無駄といった感じ。
「……ルヴァイド様」
困惑を色濃くにじませて問うと、やっぱり、さっきと同じように撫でてくれて。
「たかが6年とおまえは云うかもしれんが、俺にとってはされど6年だ」
寄越されたことばは、まさに、さっき自分が考えていたこと、そのまま。
振り返ろうと余計にジタバタしてみても、後ろからがっちり抱え込まれていてはやっぱり無駄な努力。
「自分と違う道を歩くくらいで軽蔑するほど軽い気持ちで、おまえを見てきたわけではない」
「……」
どうしようかと心底思った。
どうすれば泣かずにすむかと心底考えた。
だけど。
急激に緩んだ涙腺は、の頬を盛大に濡らし始めてくれた。
「記憶がなかろうとなんだろうと、おまえはおまえに変わりなかった。それはそこのふたりも保証しているぞ」
見て見ぬふりか、それとも寛恕しているのか。
袖口が冷たく染みていくのを察していないわけでもないだろうに、ルヴァイドは告げる。
そうして彼のことばを受けて、イオスとゼルフィルドが頷いた。
さっきまで驚愕だけが占めていた紅い眼も、本来は無機質なはずの目も、優しい光が奥に見える。
くるり。
身体の向きを反転させられて、代わりに視界に映ったのはルヴァイドの顔。
いつもと同じ、ちょっと怒ってるみたいな顔だけど。――どうしてだろう。まるで微笑んでさえいるような、とても優しい印象を受けた。
「俺には、初めから選択肢などない」
「……」
反逆者としての汚名を雪ぐ意志、デグレアの騎士として国のために尽力しようとする意思。
このふたつがある限り、このふたつを打ち消すまいとする限り。
たとえ目の前にいくつの道があろうとも、このふたつを満たすための道は、今歩きつづけるただその道だけだと。
うん、知っている。
そのために頑張ってきた、そのために砕身してきた、この人の姿を6年間見てきたから。
だけど、本当にそれでいいの?
本当は、まだ、選ぶ道はあるんじゃないの?
……ふたつの意志は、まるで彼を縛り付ける鎖のように見えて。そう訊いたこと、何回かあったなと思い出した。
最後は必ず、
「……ルヴァイド様はそれで……」
「いいのだ。俺は」
で、終わったけれど。
「所詮俺は、そういう生き方しか出来ん」
ぐしゃりとの頭をかき乱し、ルヴァイドは云う。
「だから――」
だから、おまえはなにものにも縛りつけられず、おまえの望む道を進んで欲しいと、余計にそう思う。
「出来るならおまえと戦いたくはないが……それが必要なら」
その先を、ルヴァイドは口にしなかった。
イオスもゼルフィルドも、それを補おうとはしなかった。
も、問おうとは思わなかった。
もしそれが現実に目の前になったとして、どういう選択をするのか。まだ、決めることは出来なかったせいだろうか。
同じように。おそらく彼らも。
答えはたぶん、たった今、に向けられているまなざしだけが知っている。
だって、まだ、自分たちは知らない。
まだ、本気で、そうなるとは思えない。どうしても。
だから。
今はまだ、動こうと。
それぞれはそれぞれの道を、ただ。
その先に何が待ち受けているか知らないから、出来たことだったのかもしれないけれど。
いくつかの昼を夜を越え、この瞬間は、何度も思い返すことになる。
このときどうすれば、結局、自分たちにとって一番良かったのか……
何度も思い返すことになる。
まだ自分は甘えていたのだと。まだ彼らは思い切っていなかったのだと。
そんな覚悟など、まだ、このときは持てないままに、進むことを決めていたのだと。
決別のことばははっきりと、けれど気持ちだけはまだ傍らに。
そのためにいつか血を流すことになっても、このときこの道を。
分かたれた道を。歩きはじめよう。